大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

大阪寝屋川の共同墓地

2012-02-27 | 掃苔

大阪寝屋川市内に会津藩兵の墓碑があることを知ってから場所を特定して訪ねるのに3年も掛ってしまった。文久二年(1862)、幕府は会津藩主松平容保を京都守護職に任命、京都の治安を回復させるため、会津藩は軍事的要衝の地でもある黒谷金戒光明寺に約千名の軍隊を駐屯させたが、元治元年(1864)、「禁門の変」など会津藩の犠牲も大きく藩士や中間・小者など戦死、戦病死する者が続出した。そこで本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた(黒谷金戒光明寺と会津藩殉難者墓地)

 

その数は文久二年から慶應三年までの六ヵ年に二百三十七霊をかぞえ、後に慰霊碑(明治四十年三月建立)を建立し鳥羽伏見の戦いの百十五霊を合祀した。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ祀られている。この中に国松神霊(会津河州国松村平兵衛)、小路彦神霊(会津御役地河州仙太郎)と2つの神号がつけられた墓碑がある。河州は現在の大阪府東部で幕末、役地として組み入れられた。幕府は松平容保の京都守護職中の役知として五万石をきめた。山城国愛宕、葛野、乙訓、紀伊、久世、綴喜、相楽郡五十八ヶ村、二万二千百石と河内讃良、交野郡十八ヶ村、八千四百石で三万五百石。この郷村の年貢収納が出来たのが文久三年、守護職就任からまるまる二年掛ったことになる。残り壱万九千五百石分は彦根藩上知分河内国神崎、蒲生郡三十九ヶ村を充てる筈であったが、彦根藩の郷村引き渡し妨害と云うか遅延により慶応元年始めまで引渡が行われなかった。会津藩の慢性的な財政赤字に加えて文化五年(1808)蝦夷出兵、文化七年(1810)江戸湾警備、天保三年(1832)から同十二年まで続いた領内不作、弘化四年(1847)からの房総警備等財政悪化の一途の中、弘化三年松平容敬、美濃高須藩主松平義建六男容保を養子として迎えてた。容保が京都守護職の引受けたことにより、会津藩は財政的崩壊の速度をさらに早めていった。会津藩は幕藩体制温存のため徹底的に利用されていった。「石宝殿氏のページ」という方のサイトで寝屋川市内の小路と国松の墓地に、元治元年の蛤御門の戦死者「小路彦神霊・国松神霊の碑」の墓碑があるのを知った。寝屋川市内の共同墓地は三十近くありその多さにビックリした。国松神霊墓碑のある国松町共同墓地の所在地も手間だったが、小路彦神霊墓碑のあるという小路地区の共同墓地の所在地の特定も大変だった。地方史に四條畷市岡山にある讃良寺共同墓地に小路地区の墓域が含まれている記載があった。この地方史には共同墓地の配置図は掲載されていたが住所の記載がなく、やっと航空写真を拡大して同じ地形の場所を特定した。小路村仙太郎墓は大阪府四條畷市岡山4丁目17にある讃良寺共同墓地、国松村平兵衛墓は大阪府寝屋川市国松町6-41隣の国松町共同墓地を訪ねることにした。讃良寺共同墓地はJR忍ヶ丘駅から僅か500mの寝屋川市しろやま公園の南側にある。ここから京阪本線香里園駅1,4K、同志社香里高南門(裏側)の先、行き止まりにある国松町共同墓地までの交通機関がよく判らず、京都の八幡に廻る予定であったため、時間の制約もあり、今回はJR忍ヶ丘駅からタクシーを利用した。東京に戻って地図を見たが何所をどう通ったのか見当もつかなかった。讃良寺共同墓地と国松町共同墓地

 

小路彦神霊元治元年子年七月十九日戦死小路村惣右衛門倅俗名仙太郎施主城河州惣代中

 

国松神霊元治元年子年七月十九日戦死俗名平兵衛昭和五十七年三月吉日孫入江喜太郎再建

 

 

 寝屋川の会津藩兵

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三浦吉井鎮守 安房口明神

2012-02-16 | その他

久里浜駅の北、約3Kのところにある吉井地区の鎮守、安房口明神を訪ねた。横須賀の大津村の名主で、明治11年初代三浦郡長となった小川茂周の妻は浦賀吉井坊小櫃源右衛門の長女で諱は志満子ということが信誠寺にある墓碑でわかった。しかもこの志満子の出身はお孫さんの話では会津藩の関係だという。吉井の小櫃氏を調べていて、この安房口明神のことは、吉井村の小櫃庄右衛門・野比大作の堀越三郎右門が元治元年、写し残した三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡によって知った。いまこの吉井地区は碁盤の目のように区画が整然とした住宅地と開発されていて、その中心近くに一段と鬱蒼とした樹木が残る小山のような所が安房口明神だった。

 

この神社は社もなく山上にご神体として大石があり磐座信仰という古い型を保っている。神社にあった由緒によれば「その昔、安房国洲崎明神に竜宮から献上された大きな石が二つ置かれていて、ある時、その一つが安房大神太玉命の御霊代として東国鎮護のためこの場所に飛んできたといわれている」とあった。境内には牛宮五頭天王の碑、富士講の碑、三十三度大願成就の碑が残っており、その台座にも小櫃氏の名が刻まれていた。

 

 

 

会津藩士小櫃儀左衛門は文化十一年、相州三崎常詰外様士、文政四年、田中鉄次郎常詰番頭組で百石、同族の小櫃祐蔵元孝は文化八年、相州常詰武具奉行、文化十年、御船奉行兼務、幕末では御家老附壱番組で百五十石、小櫃守左衛門がいる。戊辰後、会津藩家老田中土佐四女のコノ(此)が横須賀の旧家浅羽家に嫁いできた。この娘ユキが嫁いだのが藤田五郎の次男剛。小川茂周の弟は鴨居の会津屋に養子にいって高橋勝七を名乗り、この嫁になったのが会津のお城から名をつけたという「ツル」、この方の苗字は残念ながら判明していない。安房口明神からの帰り、途中にあった流水山法善寺を訪ねた。ここに多くの小櫃家の墓碑があった。ご住職にも確認したが会津と繋がる小櫃氏のことはわからなかった。

  

会津七日町阿弥陀寺の近くに「むかしや」という骨董屋がある。2階は会津新選組記念館という資料館となっており、ここに大正2年9月に赤坂で藤田五郎が一族や知人達との集合写真が飾られている。説明によれば、写っている人物は、高木陸雄、森山明、沼澤七郎、愛久澤直哉、藤田勉、沼澤久仁子、赤埴□□子、藤田五郎、小川婦美子、藤田ゆき子、相澤又次郎、藤田剛、浅羽磯吉、浅羽婦久子、井林菊助の十五名。この写真の存在を知ったのは昨年、横須賀に嫁にきた会津の女性たちの墓を訪ね終わった9月にちょうど知人から教わった。一度、自分の目でとおもって、この二月、会津新選組記念館を訪ねた。写真を載せられないのが残念ですが、この集合写真の説明に横須賀の小川家、浅羽家、藤田剛妻ゆき子と戊辰後、会津の女性たちが嫁いできた家の名がでてきた。蛇足かもしれないが、高木陸雄は藤田五郎の妻時尾の弟高木盛之輔の子で姉妹の素子は佐川官兵衛の子直諒の妻となった。沼澤七郎は時尾の母、克子の姉妹沼澤道子の子で妻が久仁(井深氏)、藤田五郎の三男龍雄はこの沼澤家に入った。写真にある小川婦美子と藤田家とはどのような関係なのだろう。戊辰後、会津の女性は誰を頼って横須賀に嫁にきたのだろうか。

コメント (7)
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敦賀 越前ガニ

2012-02-10 | 

敦賀の町で越前ガニを昼間、食べさせてくれる店は存外に少ない。他の消費地に回してしまうのだろうか。二者択一的な感じで駅前の一階が土産物店(魚や?)の二階にある「まるさん屋」という店に入った。

 

福井ではズワイ蟹の雄をズワイ、雌をセイコと呼ぶと云うとあったが、大体の地方でそう呼んでいるわけで、地域ブランドとして福井の越前、三国、敦賀、小浜で水揚げされるズワイだけに黄色いタグを付けている。残念だったがセイコ蟹の内子を食べたいと思ったが漁期が終わっていたが、観光客が少なくなるのか、当日から本命のズワイ蟹が値下がりしていた。一匹は塩茹で、もう一匹は足を刺身、身は焼いてもらった。この店の調理方法なのか、塩茹でにしても刺身にしても全体的に塩味が効いていた。焼蟹が、一番甘みが出ていて美味しかったが、付いてきた蟹酢がお粗末、そばにスーパーがあれば買いに行きたくなるような代物だった。なかなか蟹が出てこないので注文したのが刺身の盛り合せ、サーモンが入っているのは気に入らなかったが、これは美味しかった。

  

 

  

 

 

 

帰りの電車の時間まで敦賀駅前のカメレオン食堂にコーヒーを飲みに入った。厨房では若い男女が一生懸命働いていた。息がぴったし合っていたのでご夫婦だったのだろうか。それにしてもコーヒーカップの、取っ手の熱いのなんのって、半端でなかった。もう少しでカップを落とすところだった。帰り際に「カップ、熱くするのこだわっているの」って聞いたら、「ハイ」ってにっこりした笑顔が清々しくて印象に残った。 

 

  

食堂の前にあった、1999年、敦賀港開港百年周年を記念して設置したモニュメント。

                  

敦賀で最初に訪ねたのが越の秀嶺と呼ばれる西福寺。ここに知恩院門跡となり、のち孝明天皇の猶子となり華頂宮家を創設、明治三年(1870)、皇族として初めての海外留学としてアナポリス海軍兵学校に学び、明治九年二十六歳の若さで亡くなったのが華頂宮博経親王。総本山知恩院華頂宮門跡の門が、華頂学園校舎新築の為、撤去され昭和44年ここに移築され総門、裏門として使われていた。この門を見にいった。東京三田の華頂宮邸跡は公園、鎌倉浄明寺の別荘跡は庭園として開放されている。

 

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滋賀近江八幡の風景

2012-02-08 | 

琵琶湖東畔、JR近江八幡駅から北西7,8Kの長命寺山の南麓中腹にある開基が聖徳太子と伝えられる長命寺を訪ねた。ここには駅からバスか車で行くことになるが、バス停からお寺まで八百八段の石段がある。車だと本堂近くまで車道が作られているが石段を上がる参拝者も多いと云う。ちなみに駅からタクシーを利用すると本堂下の冠木門近くの駐車場まで3千円弱掛る。実際何段あるか分からないが往復石段を使用するのはかなりの体力が必要とする感じがする。訪ねたのは一月の中旬、アジサイの時期にはかなり参拝者が多いのだろうが、この時期、ほかの拝観者もなく、ひっそりとした静かな佇まいだった。「八百八段」の石段、本堂、寺務所、背景は琵琶湖、三仏堂、護法権現社拝殿、六所権現影向石。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

長命寺山は333M、その南側にポツンとある山が272Mの八幡山、いずれも開拓まえは琵琶湖に浮かんでいた島だったようだ。南半分山上に築城されたのが羽柴秀次の居城として知られる八幡山城、いまはその本丸跡には昭和38年(1963)、豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が京都から移転されている。ここも幸いなことに麓からロープウェーがあり僅か3,4分で頂上に。ゴンドラで中年の女性と一緒になった。眼下の近江八幡市街地や琵琶湖、八幡堀にいやに詳しいと思ったら。頂上の売店の女性だった。京都型の移転後、瑞龍寺の再興に生涯を捧げたのが小笠原氏出身の十二世門跡・日英尼。日英尼は小笠原宗家三十二代忠統の実姉。戦国時代まで遡る事、葦名盛氏に会津に迎えられ、会津で亡くなり会津若松の大龍寺に墓があるのが小笠原宗家十七代長時、二十代小笠原忠真は前国小倉藩初代藩主で福岡小倉の福聚寺が菩提寺。本堂の内側引き戸に見事な日輪左方太太鼓と左方大鉦鼓が描かれていた。慌てて対の右方太太鼓と右方大鉦鼓を探したが分からずお寺にも確認したが見たことがないということであった。

 

   

ロープウェーから降りて寄ったのが日牟禮八幡宮。なんでも天正十八年(1590)、豊臣秀次が法華峰に八幡城を築城のため、上の八幡宮を麓の比牟礼社に合祀したという。

ここは山門に掲げられた家紋が、まん中に菊の御紋、左右が葵紋に三巴紋、ここの神職に確認したらこの神社の三巴紋は左巴と呼んでいるという。そういえば最近の明治神宮のH・P(12・02・04現在)でも左方の「だ太鼓」を三巴・左巻、右方の「だ太鼓」を二巴・右巻と標記していた。この神社のお祭りは左義長祭と八幡まつり、二つとも平成四年、国の無形民俗文化財に指定されている。横にあった和菓子屋の「たねや」で一息ついて大津に戻った。

 

 

  

 

 

 九州小倉 福聚寺

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