大阪寝屋川市内に会津藩兵の墓碑があることを知ってから場所を特定して訪ねるのに3年も掛ってしまった。文久二年(1862)、幕府は会津藩主松平容保を京都守護職に任命、京都の治安を回復させるため、会津藩は軍事的要衝の地でもある黒谷金戒光明寺に約千名の軍隊を駐屯させたが、元治元年(1864)、「禁門の変」など会津藩の犠牲も大きく藩士や中間・小者など戦死、戦病死する者が続出した。そこで本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた(黒谷金戒光明寺と会津藩殉難者墓地)
その数は文久二年から慶應三年までの六ヵ年に二百三十七霊をかぞえ、後に慰霊碑(明治四十年三月建立)を建立し鳥羽伏見の戦いの百十五霊を合祀した。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ祀られている。この中に国松神霊(会津河州国松村平兵衛)、小路彦神霊(会津御役地河州仙太郎)と2つの神号がつけられた墓碑がある。河州は現在の大阪府東部で幕末、役地として組み入れられた。幕府は松平容保の京都守護職中の役知として五万石をきめた。山城国愛宕、葛野、乙訓、紀伊、久世、綴喜、相楽郡五十八ヶ村、二万二千百石と河内讃良、交野郡十八ヶ村、八千四百石で三万五百石。この郷村の年貢収納が出来たのが文久三年、守護職就任からまるまる二年掛ったことになる。残り壱万九千五百石分は彦根藩上知分河内国神崎、蒲生郡三十九ヶ村を充てる筈であったが、彦根藩の郷村引き渡し妨害と云うか遅延により慶応元年始めまで引渡が行われなかった。会津藩の慢性的な財政赤字に加えて文化五年(1808)蝦夷出兵、文化七年(1810)江戸湾警備、天保三年(1832)から同十二年まで続いた領内不作、弘化四年(1847)からの房総警備等財政悪化の一途の中、弘化三年松平容敬、美濃高須藩主松平義建六男容保を養子として迎えてた。容保が京都守護職の引受けたことにより、会津藩は財政的崩壊の速度をさらに早めていった。会津藩は幕藩体制温存のため徹底的に利用されていった。「石宝殿氏のページ」という方のサイトで寝屋川市内の小路と国松の墓地に、元治元年の蛤御門の戦死者「小路彦神霊・国松神霊の碑」の墓碑があるのを知った。寝屋川市内の共同墓地は三十近くありその多さにビックリした。国松神霊墓碑のある国松町共同墓地の所在地も手間だったが、小路彦神霊墓碑のあるという小路地区の共同墓地の所在地の特定も大変だった。地方史に四條畷市岡山にある讃良寺共同墓地に小路地区の墓域が含まれている記載があった。この地方史には共同墓地の配置図は掲載されていたが住所の記載がなく、やっと航空写真を拡大して同じ地形の場所を特定した。小路村仙太郎墓は大阪府四條畷市岡山4丁目17にある讃良寺共同墓地、国松村平兵衛墓は大阪府寝屋川市国松町6-41隣の国松町共同墓地を訪ねることにした。讃良寺共同墓地はJR忍ヶ丘駅から僅か500mの寝屋川市しろやま公園の南側にある。ここから京阪本線香里園駅1,4K、同志社香里高南門(裏側)の先、行き止まりにある国松町共同墓地までの交通機関がよく判らず、京都の八幡に廻る予定であったため、時間の制約もあり、今回はJR忍ヶ丘駅からタクシーを利用した。東京に戻って地図を見たが何所をどう通ったのか見当もつかなかった。讃良寺共同墓地と国松町共同墓地
小路彦神霊元治元年子年七月十九日戦死小路村惣右衛門倅俗名仙太郎施主城河州惣代中
国松神霊元治元年子年七月十九日戦死俗名平兵衛昭和五十七年三月吉日孫入江喜太郎再建