戊辰鳥羽伏見の戦いに敗れ、大阪から引き上げた会津藩士達は、
前将軍慶喜及び松平容保が大阪より逃出し、藩主を追った神保修理が、
先に江戸に居るのをみて、「伏見戦争の兵機を阻害し、今日に至らしめ
たるは、皆修理の罪なり」と彼を誅殺せんと、藩主及び藩相に迫った。
戊辰二月十三日、
「藩士は、其主及び家老に迫りて、遂に神保修理を三田邸に遣して、
屠腹を命じけり。其罪状を知るなし」、また「三田邸に護送され、遂に
死を賜うも、一の罪状なし。修理左右を願みて曰く、余素より罪なし、
然れども君命を奉承するは、臣の職分なりと、剣に伏して斃れけれ」
これは、神保修理の弟、北原雅長が文久二年正月から明治元年十二月までの
会津藩に係ることを明治二十九年八月より輯述して三十六年七月に脱稿し、
明治三十七年に発行した「七年史」にある記述です。
この中に、神保修理が死する前日、密かに人に託して安房守(勝海舟)に
贈ったとされる詩がある。
生死報君何足愁 人臣節義斃而休
遺言後世弔吾者 請見岳飛有罪不
冤罪で誅殺された中国南宋時代の武将岳飛になぞらえ、無実を訴えている。
七年史には、修理時年三十歳、三田白金三光町興禅寺に葬り、諱は長輝、
法諡は遣徳院殿仁道義了居士とある。
弟、北原雅長は大正二年(1913)七月二十四日七十二歳で病没、墓所は
静岡県浜松市の高松山西来院、徳川家康の正室築山御前廟堂の斜め前にある。
前将軍慶喜及び松平容保が大阪より逃出し、藩主を追った神保修理が、
先に江戸に居るのをみて、「伏見戦争の兵機を阻害し、今日に至らしめ
たるは、皆修理の罪なり」と彼を誅殺せんと、藩主及び藩相に迫った。
戊辰二月十三日、
「藩士は、其主及び家老に迫りて、遂に神保修理を三田邸に遣して、
屠腹を命じけり。其罪状を知るなし」、また「三田邸に護送され、遂に
死を賜うも、一の罪状なし。修理左右を願みて曰く、余素より罪なし、
然れども君命を奉承するは、臣の職分なりと、剣に伏して斃れけれ」
これは、神保修理の弟、北原雅長が文久二年正月から明治元年十二月までの
会津藩に係ることを明治二十九年八月より輯述して三十六年七月に脱稿し、
明治三十七年に発行した「七年史」にある記述です。
この中に、神保修理が死する前日、密かに人に託して安房守(勝海舟)に
贈ったとされる詩がある。
生死報君何足愁 人臣節義斃而休
遺言後世弔吾者 請見岳飛有罪不
冤罪で誅殺された中国南宋時代の武将岳飛になぞらえ、無実を訴えている。
七年史には、修理時年三十歳、三田白金三光町興禅寺に葬り、諱は長輝、
法諡は遣徳院殿仁道義了居士とある。
弟、北原雅長は大正二年(1913)七月二十四日七十二歳で病没、墓所は
静岡県浜松市の高松山西来院、徳川家康の正室築山御前廟堂の斜め前にある。