大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

囚中絶筆 長輝

2009-02-27 | 會津
戊辰鳥羽伏見の戦いに敗れ、大阪から引き上げた会津藩士達は、
前将軍慶喜及び松平容保が大阪より逃出し、藩主を追った神保修理が、
先に江戸に居るのをみて、「伏見戦争の兵機を阻害し、今日に至らしめ
たるは、皆修理の罪なり」と彼を誅殺せんと、藩主及び藩相に迫った。

戊辰二月十三日、
「藩士は、其主及び家老に迫りて、遂に神保修理を三田邸に遣して、
屠腹を命じけり。其罪状を知るなし」、また「三田邸に護送され、遂に
死を賜うも、一の罪状なし。修理左右を願みて曰く、余素より罪なし、
然れども君命を奉承するは、臣の職分なりと、剣に伏して斃れけれ」

これは、神保修理の弟、北原雅長が文久二年正月から明治元年十二月までの
会津藩に係ることを明治二十九年八月より輯述して三十六年七月に脱稿し、
明治三十七年に発行した「七年史」にある記述です。

この中に、神保修理が死する前日、密かに人に託して安房守(勝海舟)に
贈ったとされる詩がある。

生死報君何足愁 人臣節義斃而休
遺言後世弔吾者 請見岳飛有罪不

冤罪で誅殺された中国南宋時代の武将岳飛になぞらえ、無実を訴えている。

七年史には、修理時年三十歳、三田白金三光町興禅寺に葬り、諱は長輝、
法諡は遣徳院殿仁道義了居士とある。
弟、北原雅長は大正二年(1913)七月二十四日七十二歳で病没、墓所は
静岡県浜松市の高松山西来院、徳川家康の正室築山御前廟堂の斜め前にある。
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会津源朝臣正之献上燈籠

2009-02-25 | 會津
旧会津藩家臣による会津松平家初代保科正之から九代松平容保までの
記録を日誌形式でまとめた「会津松平家譜」という史料がある。

この「会津松平家譜」、慶安四年に次の項がある。
正之唐銅燈籠二基を東叡山東照宮に献ず
参河国瀧山寺の東照宮に石燈二基を献ず

東叡山東照宮の燈籠は、百九十五基あると言われる上野東照宮の
石燈籠が並んだ参道を進むと拝殿前に青銅燈籠五十基があり、
社殿に向って左側の御水舎の手前にある五基のうち二基が正之公の
奉納したもので、今も残っている。

愛知県岡崎の瀧山寺に会津少将正之が奉納した燈籠が残っているか
確かめに行った。瀧山寺の三門が今のお寺入り口石段から青木川
約850Mの下流にあり、寺社地はかなり大きかったと思われる。



旧暦の元日からの修正会法要の結願の日に、祖父面、祖母面、孫面の
三体の鬼と松明を持った男たちが本堂を駆け回って豊作を祈る、
“鬼走り”で有名なこの瀧山寺は、役小角が創祀したと伝えられ、鎌倉時代
初期の住職、寛伝が源頼朝の従兄弟であったため、鎌倉幕府の庇護を受け、
正保元年(1644)に三代将軍家光が境内に滝山東照宮を創建している。

名鉄東岡山駅からバスで約30分、滝山寺下で下車。直ぐよこに
お寺の石段がある。この石段の両側に石燈があった。しかしこの燈籠、
刻まれた文字がほとんど判別しない。



本堂前の石段を登りきったところに、ひと際、大きな燈籠の前に木札があり、
そこに会津松平の文字が!石燈に刻まれた文字はハッキリとしていた。





奉献上 石燈籠弐基 三州額田郡瀧山寺 東照宮大権現御寳前
慶安四辛卯年四月十七日 會津従四位上少将源朝臣正之



ちなみに上野東叡山東照宮の銅燈籠は、
慶安辛卯四月十七日 會津従四位上左近衛兼少将源朝臣正之

この四月十七日は東照大権現家康の命日、この日に合せて奉納していた。

瀧山東照宮



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新撰組

2009-02-18 | その他
文久二年から元治元年までの会津藩庁の文書を集め、大正七年から
刊行された記録集、会津藩庁記録盤錯録(容保伝記)の
文久三年三月十日に「幕命 新撰党二十人を以て我に隷す」とある。

同書密事往復留(会津藩庁と京都藩邸・江戸藩邸間の往復文書)、
浪士の取扱について京都よりの通知に、京都江戸で応募した有志の者の内、
京都に残る者については「会津家々中に引渡、同家差配に可随可」として、
将軍徳川家茂上洛警護として上洛させた浪士組の取締役に就任した
鵜殿鳩翁が京都残留組の取りまとめを委任したのが殿内義雄と家里次郎。

この時、江戸浪士のうちの二十四名が京都に残ったが、殿内と家里は
近藤派との勢力争いのためか、暗殺、詰腹を切らされている。

なぜかこの時の密事往復留にある浪士人別、弐拾人外に四名の中に、
のち新徴組に参加した清水吾一の名が記載されていない。

文久三年春、将軍徳川家茂上京のおり、江戸に横行していた浪人の
処分について徳川慶喜の回想録「昔夢会筆記」その記載がある。

守護職松平肥後守の「今浪人を荒い処分をすると、また面倒が起こるから、
浪人に対してはなるべく言路を開いて、言うことは言わせる方がよい」との
主張に、慶喜は「浪人に思うままのことを言わせると、ますます我がまま
勝手になって、ついに秩序を乱すことになるから、よろしくない」と
強い意見であった。
文久三年二月に再度肥後守より主張があったので、会津に任せたとある。

慶喜は「浪人をどうゆうふうに処分しようかという考えは、別になかった。
会津の方へ任して、会津が主として総括して、それがよかろうというだけの
考えで、それより上の深い考えはまずなかったのだ」と回顧している。

一方、山川の「京都守護職始末」に、江戸で募った浪士二百人余、
京都へ入るなり、議論轟々として挙動も粗暴をきわめ、幕臣寄合
鵜殿鳩翁の手に負えず、東帰するものを鳩翁みずから率いて東下し、
止りたいと欲するもの二十余人について、幕府老中より
「当所に罷りあり候浪士のうち、尽忠報国の志ある輩これある趣に相聞え候、
右等の者ども、一方の御固も仰せ付けらるべく候間、その方一手に引きまとめ、
差配致さるべく候事」の内旨があり、これによりわが公(会津藩主松平容保)に
附属させることにした。

これを新撰組という。
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撤兵隊

2009-02-16 | その他
今年1月、会津藩士の墓碑を訪ねて、千葉県市原にいった。
姉ヶ崎の妙経寺で、会津藩士の墓と並んでいたのが「義軍墓」
上総義軍と名乗った幕府撤兵隊の一部だったという。

幕府撤兵隊の事柄は、千葉の地方史以外、あまりその名も書物に
出てこないが、最近読んだ「江戸幕府集成」に少し記載があった。

幕府は文久二年(1862)、講武所奉行を陸軍奉行として、兵力増強の
歩兵、騎兵、大砲の三兵に陸軍をよる創設し、洋式訓練が行われた。

役職集成によれば、撤兵奉行が慶應四年一月に設けられ、歩兵隊の
予備隊として、江戸府内の防備に当るよう急に編成されたが、
戊辰江戸城開城と共に解散させられたとあり、細目は不明という。



撤兵奉行は、慶應四年一月二十八日から同年四月まで倉橋但馬守が
つとめている。倉橋但馬守は、慶応四年正月十四日の開成所会議出席者に
名があり、開成所頭取から撤兵奉行になったものと思える。ちなみに
この会議の出席者に戊辰を会津で戦った林正十郎が開成所教授職として
名を連ねている。開成所は現在の東京大学の前身の一つとなった。

幕軍の陸軍軍事体制は、軍事総裁職の下に、陸軍総裁・陸軍奉行を置き、
歩兵奉行・騎兵奉行・大砲之頭、別隊として撤兵奉行・京都見廻役・
遊撃隊頭等を置いた。会津藩松平容保が陸軍総裁職改め、軍事総裁職を
命ぜられたのが元治元年二月だったが、僅か二箇月後の四月に、幕府は
容保の軍事総裁職を免じ、京都守護職に再任させている。

禁門の変の起こる三ヶ月前のことであった。

(明治元年の撤兵隊、仕官と兵士(戊辰戦記絵巻より))
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京都守護職

2009-02-14 | 會津
東洋文庫の山川浩著「京都守護職始末」年譜によれば、
「閏八月朔日(文久二年)、幕府は公(松平容保)を京都守護職とし、
正四位下に陞(のぼ)せ、職棒五万石を賜う」とある。
この「京都守護職始末」は、京都守護職の起因から筆が起されている。

西郷、田中両家老の諌止に、容保公は「そもそも我家には、宗家と
盛衰存亡をともにすべしという藩祖公の遺訓がある」と述べ、
藩重臣に藩の進退を任せたとある。その場にいた重臣はいずれも公の
衷悃に感激し、義の重きにつくばかりで、君臣もろともに京師の地を
死に場所と、議は決したと書かれている。

同じ東洋文庫に「昔夢会筆記」という渋沢栄一による徳川慶喜公回想談話が
ある。明治四十年を始めとして、大正四年に部数二十五冊を関係者のみに頒布
したもので、渋沢栄一が、慶喜から朝敵の汚名を雪ぎ、王政復古の功労者の
一人として弁護するため、「聊かの虚飾もなく飽く迄も事実を直筆」する方針で
書かれたとある。

明治四十三年の慶喜回想に、京都の守護職のことが書かれていた。
「浪人だの藩士だのが大勢京都に集まり、なかにも長州、薩州だとか、
所司代の力で押えることはできかねる、そこで兵力のある者をあすこへ
置こうというのが一番最初の起りだ、それで肥後守(容保)が守護職となった」
「薩州にしろ長州にしろ、会津を憎んだのは、何で憎んだというと、会津の
兵力を憎んだのだ。幕府の用いるのも兵力だ。会津の兵力というものが、
まったく両方で見るところであったんだね」と回顧している。

「京都守護職始末」が世に出たのが、明治四十四年のこと、旧会津藩士の
山川浩、沼沢士郎、黒河内良名義が、もし「昔夢会筆記」を読んで、兵力が
あったから、会津に守護職を任せたという慶喜の言葉を知っていたならば、
藩祖公の遺訓として「宗家と盛衰存亡をともにすべしと」と書き残したのだろうか。

讒言により、失脚した家康の重臣大久保忠隣を思い出した。後年、忠隣の
冤罪を嘆願しようと図ったところ、忠隣は無実が明らかになれば、主君の
非をあらわす事になるとして、これを断ったとされる。忠義も辛いものがある。

会津藩 家訓十五條の第一条、「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく」、
改めて、会津の義は誰に対するものだったのか?
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仙台「元祖 炉ばた」

2009-02-02 | 
仙台の老舗といわれる、国分町の「元祖 炉ばた」に行く。
入口に営業時間、雀色時よりと洒落た事が書いてあった。



暖簾を潜ると廊下と板戸があり、どこが入口か戸惑う。
適当に板戸を開けると、座敷に湯燗器と徳利で囲まれた帳場が
あり、これを囲む様にコの字型に椅子席のカウンターがあった。




炉ばたで、魚等焼いて出す店ではなかった。チョット勘違い。
このお店、元々は地酒天賞だけを飲ませる店だったそうだ。


昔は、ビールが高くて簡単に飲めるお酒ではなかったと、
おかみさんが笑って話していた。まずはビールを飲んで、
天賞をお燗してもらう。ここは、大きいしゃもじでひょいと,
徳利を出てくれる。まだ他のお客がいなかったので、最初がぬる目、
次がぬる燗、ちょい温めの人肌、もっと温めの日向燗で飲み比べ。
温度でお酒の感じがまったく異なり、美味い酒を飲んだ。

最初に出てくるのがお通し、麩料理・季節菜野、魚のセット3品。
これだけでも結構、飲めるが、帳場の後ろに品目がずらりと並んでいた。
当日の煮魚は鯖の味噌煮だったが、鯵のフライに換えてもらった。





百合まんじゅう           五三竹
 

とんぷり              焼まつも


このお店の先代は昼間、童話作家で夜、この店を開いていたと言う。
店のなかに民芸調の飾りが華やかにだったが、座敷の端の格子戸の中に、
木造りの羅漢さんが鎮座して不思議な空間にビックリする。



最後にお勘定のとき、勘定の書かれた小さな経木が大きいしゃもじで
ひょいと伸びてきたのは、ご愛嬌だった。


元祖 炉ばた
仙台市青葉区国分町2-10-28YSビックビル1F
022-266-0897
コメント (2)
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