大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

旧吉川邸

2009-03-31 | 掃苔
青山霊園に明治廿九年十月、羽島勝江 大竹庄司、中里倭文、
吉川倉によって建てられた旧吉川邸墓地改葬合祀之墓がある。
この碑は、旧吉川邸にあった墓地を改葬合祀した会津藩神道
大家吉川惟足大人の墓で、側に1つの石柱がある。

表面が「神道家吉川惟足大人奥城」、
裏面に「昭和十一年十月大人歿後二百四十一年後学有志建之
碑表大人門人保科正之公後胤子爵松平保男君所書也」とある。

吉川惟足嗣子の吉川従長と門人による「吉川惟足大人行状」の、
羽倉敬尚記述によれば、視吾堂吉川惟足大人は天和二年、幕府の
公儀神道方に任ぜられ、神道行政を専掌し、子孫其の職を世襲し、
元禄七年惟足大人が歿するや、江戸本所押上の賜邸内に神葬を
以て葬り、子孫及眷族も此処を葬地とした。

明治二十九年、この墳域が買収となり青山墓地に移転せられた時には、
吉川家の霊詞が三十基、外に門人、会津藩神道師範、大竹政文の家分が
三基、同じく門人上州、羽島家の分が二基、同じく野州、中里家の分が
二基あり、青山墓地に「旧吉川邸墓地改葬合祀之墓」の一碑が建てられた
という。

ところが、その後、この碑の所在が不明となり、所在が再び確認
されたのが昭和に入ってから。

旧幕臣榊原陸軍中将、旧会津藩士柴陸軍大将、旧会津藩士澤金雄らが
吉川神道に有縁の有志諸家と謀り、惟足大人の高弟、会津藩主保科正之公の
後裔、松平保男子爵に染筆を請い、此先駆者を顕彰し「神道家吉川惟足大人奥城」
の一石を建立したのが、惟足大人歿後二百四十一年後の昭和十一年のことだった。

江戸本所押上の賜邸は、明治二十九年、富士瓦斯紡績に邸宅地を買収され、
震災直前、煙草専売局工場となり、今は日本たばこ産業生産技術センター
(墨田区横川1-17)となっている。
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会津降伏人

2009-03-27 | 會津
戊辰の戦いに敗れた会津藩士は、信州真田松代藩と
越後榊原高田藩に永御預けの処分が決まった。

信州松代での収容は無理ということで、東京増上寺山内、
一橋御門内御宿屋、飯田元火消屋敷、小川講武所、
山下御門内松平豊前守元屋敷、神田橋御門外騎兵屋敷、
麻布真田屋敷、護国寺での謹慎となった。

一方、高田藩は、高田寺町の各寺を利用しての謹慎となった。
高田には、明治二年正月十八日五百八十人、同十九日五百八十五人、
二十一日五百七十七人合計千七百四十二人の会津藩士が高田に護送された。

本名、変名ありで、高田で謹慎した藩士の人数がなかなか特定できないが、
明治二年十一月二十日付の高田藩から大蔵省あての降伏人手当嘆願書の
別紙記載の経費明細に単物1,742枚、布団(新・古)1,742組、
湯呑茶碗1,780個とあり、約1,700人前後の人数が
収監されたものと思われる。

八月に入り、東京、高田の謹慎中の藩士の脱走事件がおきている。
明治二年八月十三日に会津降伏人三十余人謹慎中脱走と
弾正台より届がでている(太政類典)

会津降伏人去ル朔日ヨリ七日迄夜々脱走二及候始
未只今兵部少丞舩越洋之介当台、呼出シ勘問ニ及
御処降伏人跡取締甚容易次第ニ相聞候ニ付至急
御処置有之度為其勘合立合致候小幡巡察後程差
出候間右府公御直御聞取被相成候様可被申上候也
二年八月十三日     弾正台

 尚々脱走人名前別紙
旧会津降伏人謹慎ノ処脱走
渡辺兵吾 渡辺常八 橋本隼太 宇月祖吉 山崎傳治
青木常右衛門 古山源左衛門 菊地徳之介 古山 茂
代田雅次郎 川井源三郎 宇川恒三郎 五十嵐文記
佐賀牛右衛門
右者八月七日脱走

山岸 室 小滝良介 佐藤弁之介 長谷川 巽 山本吉茂 
右同四日脱走

長谷川友四郎 二瓶證介 出水川冨之助 赤城友右衛門
相原長吉 荒井直五郎
右同朔日夜脱走

長谷川久助 柳沢常七 大嶌源吾
右同七日夜脱走

山本栄輔 佐治常吉 斎藤平内
金坂秀之助 須佐坂内
右同五日夜脱走

五村新蔵 佐藤弥一郎 小松熊之介 小林福三郎
右ハ昨八日脱走

十一月八日付、高田藩から大蔵省役所への請求届別紙記載の
脱走者名
金子玄態 加藤庫太郎 北見金蔵 小沼武之進
佐々木岩太郎 井上仁太郎 加藤義之助 
原 玄仲 笠間主税

病死者名
小林橋蔵 菊地清之助 三留又右衛門 遠藤良助
樋口留次郎 森山五郎 金子直記 大久保与助
和田平吉 長尾久兵衛 五十嵐数馬

立戻者名
星和多助 渡辺清之助 外井政久 若林甚左衛門
木村熊吉 松本彦左衛門 阿部且四郎 石原勇
樋口久馬

明治政府は高田藩に会津降伏人手当用として、三万石の
増加の約束を実行せず、加えて明治二年は天保以来の
大凶作が予想され大困窮した高田藩は七月、軍務官に
費用の拝借金と降伏人の他藩への預け替えを願って、
「御預人費用御渡并他藩ヘ分配ノ儀願」を提出しているが、
聞き届けられなかった。
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会津長命寺の戊辰戦後

2009-03-23 | 會津
会津に、戊辰の敗戦後に伴百悦による「戦死之墓所麁絵図」という
会津藩士戦死者の遺体を埋葬した記録が残っている。

「明治二巳年ノ二月以来改葬方ヲ務、御領内戦地へ
役々は出張、取斗候御調帳也
伴百悦   樋口清   佐野貞次郎
附属
佐藤吾八  奥村封次  石川須麻   樋口勇次

飯岡藤助                    」

この記録によれば、会津の戦死者埋葬場所は、
阿弥陀寺、長命寺、一ノ堰光明寺、馬入村、滝沢峠、
金堀明神下、強清水辺、戸ノ口原、野際村、関山村、
大内村、塩川、猪苗代西円寺、滝沢妙国寺、
赤留村北羽黒原、坂下   〆十六ヶ所。

西名子屋町長命寺は、
「明治元年戊辰八月以来戦死の者屍百四十五人此処へ葬に
相成候事南北三間、東西壱間半ずつ壇を三ヶ所築立。
当己七月中出来に相成候。但、同所は八月廿九日討死の者
多分有之候由
一、八月廿七日より廿九日迄三日の間、八宗の僧侶を立て、
寸志に大飢餓鬼戦死供供養相勤候事」とある

春のお彼岸に、この長命寺に行った。

碑正面には「戦死墓」
裏碑文は、
「明治一年戊辰八月官軍国若松城其廿九日
城兵千余出衛官軍震轉戦長命寺伏林叢多
殪官軍而城兵死者亦数百人精鋭殆盡及事
平聚屍埋諸寺中至戊寅十一年建石表墓」

台座の氏名は、
志田左一郎、東新介、樋口勇治、鈴木英明、清水永栄、
鈴木文吾、小櫃彌市、日野重晴、岡田源吾、大久保半蔵、
吉田勝吾、鈴木半吾、川崎彌力、竹井四郎、林寛之丞、
武藤彌八、神尾虎之助、早川宇門、新城金吾、大関多気衛、
安藤織之助、野村唯三郎、大竹幾馬、永山弘道、藤沢啓治、
須田新九郎、石山又八、蒲生小次郎、福島直寿、千葉盛胤、
小沢誠介、松浦誠実、鈴木保衛、鈴木勘吾、星勇太郎、
竹田重次、佐々木八次郎、水野軍吾、外島八次郎、小平佐隅、
藤田豊記、宮下理三次、大田重次、原幸輔、仁科義八、
牧正九、大塚源太郎、富田八重治、高橋庄吾、高橋久輔、
関清造、諏訪栄、木間進、星清次、川井善平、
宝田伝八、山崎岩次郎、石川勝次郎、松永浅治、佐野貞之進、
渋川政晴、木村四郎、佐久間直次郎、荒川八郎、伊与田政之進、
手代木勝吾、粂覚三郎、松永直治、今田寅三郎、原正朔、
安藤常成、村岡長範、中村賭介、池上朝重、草刈三郎
                   明治十一年四月建之

この戦死墓は明治十年の西南の役に参戦した会津出身者により
建立されたもので台座には七十五名の名が刻まれている。

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ニコライ大聖堂を施工した旧会津藩士

2009-03-08 | 會津
東京神田駿河台に日本正教会の教会堂がある。
大聖堂は、ロシア正教会の大主教ニコライ・カサートキンの
名をとって通称「ニコライ堂」とよばれている。

東京復活大聖堂は建築家シチュールポフが設計図面を担当、
実施設計は英国人技師コンドル、明治十七年(1884)に着工され、
明治二十四年(1891)に完成した。

この建築工事を請負ったのが旧会津藩士の長郷泰輔。長郷泰輔の
本姓は吉田、はっきりしないが白虎隊の一人とも言われている。

長郷泰輔の墓碑が、東京雑司が谷霊園にある。
墓碑裏に桜井勉撰文、日下部東作書の墓銘が刻まれている。

桜井勉(熊一)は気象測候所の創始者、弟に明治女学校を開校した
キリスト教的教育者木村熊二、子に「菩提樹」「野ばら」の訳者近藤朔風がいる。
書は明治三筆の一人とも言われた日下部東作、そうそうたるメンバーである。

墓銘によれば、戊辰の戦いのあと私鋳貨幣に関ったのが露見し、
箱館の露国牧師(露国領事館内)を頼り、牧師と共に上京したとある。

この露国牧師がニコライ師と思われ、駿河台に大聖堂を建てるため、
泰輔は建築の技術を習い、コンドルと共に設計監督に携わった。

確認は出来ないが、ニコライ堂の地下の基石には二人の名が刻まれて
いると云う。墓銘の最後に詩があった。

私鋳貨幣 以済度支 事雖不正 志亦可悲 
累営大廈 龍擧鳳騫 魂魄茲銷 魏閣永存 
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