大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

再度、樟葉の戊辰役戦没供養塔

2009-06-25 | 掃苔
昨年の三月、八幡男山から橋本、枚方を廻った。
その時、京阪樟葉駅から約1,5K南下した船橋川にかかる
樟葉橋の南側、枚方上島の土手下にある、戊辰役戦没供養塔と
言われている石碑を見に行った。この碑は戊辰役で戦没した八名の
名が彫ってあると言われていた。風化が激しく、その時は殆ど読取る事が
出来なかったが、今年、知人が鮮明な写真を撮ってきてくれた。
昨年、石碑の二行目が浪人の二文字と思ったが、間違っていた。
何名の名が彫られているのかハッキリしないが、

 

若線清兵衛  線枩惣七
浪介小八   □野川藤蔵
川新兵衛  駒若乙枩
生駒山惣□  十方施主□安楽

生駒山と彫られていて、ビックリ。枚方から生駒までは約20キロ。
生駒山といえば大阪府東大阪市と奈良県生駒市との境にあり、
商売繁盛祈願の神として大阪庶民の信仰を集めた宝山寺があるところ。

この石碑、いったいなんの碑なのだろう?

前回の日記(樟葉の戊辰役戦没供養塔)
http://blog.goo.ne.jp/mearikutiari/e/b019cd09be9a7bd747e49d4ebd1e90b8
コメント (2)
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和歌山 六十谷

2009-06-23 | 
和歌山市を流れる紀ノ川の北岸に六十谷という地名がある。
今は市内の新興住宅化しているが、紀伊続風土記によれば、
六十谷村家数百五十三とある。六十谷と書いて「むそた」と
読ませるこの地名を知ったのは、昨年、紀三井寺に旧会津藩士、
佐々木只三郎の墓碑をさがして和歌山を訪れた時だった。

 

六十谷の近くの墓ノ谷という地名も気になった。ここは、
戊辰の鳥羽伏見の戦いに敗れた会津藩士や幕府軍が大坂から
紀伊に逃れた街道の1つで、今の阪南市から桑田の井関川を遡り
井関峠を越え紀伊側の直川の六十谷から和歌山加太に集結したと
言われている。この六十谷を今年6月に訪ねた。



和歌山県地名大辞典によれば「続風土記に、六十谷は墓所谷
(むしょたに)で、墓所の名字を忌み同音の字に代えた」とある。

白川博士の字通に、墓の古訓にムハフとあり、所はソと読ませるから、
墓所(ムハフ・ソ)を同音の六十(むそ)と何時頃から代えたか不明だが、
日本歴史地名大系に承安四年(1174)の史料に、六十谷の地名があり、
嘉禎四年(1238)には、湯浅党一族に六十谷氏の名があるという。

和泉国桑畑村と紀泉国直川村との国境の井関峠には番所が置かれていて、
この南側の谷が役行者の母の墓所があることにより墓ノ谷と呼ばれたという。

 

この六十谷の山中に地元で直川の観音さんと呼ばれ、役行者の開創と
伝えられている本恵寺がある。境内で、ここを会津落武者が通ったのかと
思いを寄せながら、しばらくの間、木立のザワザワとした声を聞いていた。
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浅黄色の羽織

2009-06-19 | その他
今月14日、京都黒谷の紫雲石西雲院で京都会津会主催による
黒谷會津藩士殉難者の104回目の慰霊祭があった。

今年はこの中に、四人の浅黄色の羽織・袴の格好をした人達の
参加があった。どんな格好をして、どんな名前で呼びあっても
良いとおもうが、それは仲間内のこと。

驚いたことに、供養法要焼香のとき、名乗った名前が近藤勇、
土方歳三、おまけに井上源三郎役までいた。そんな名乗りは
仲間内でやってもらいたい。

昨年七月、会津若松新選組同好会による京都黒谷の會津藩士の
供養法要が行われた。その時の注意書きに、「會津藩士の慰霊祭と
なりますのでコスプレなどの衣装はご遠慮ください」とあった。

昨年、新撰組同好会の各人がどんな呼名で慰霊祭に参加したか
分らないが、今回、会津の殿様の面前で、近藤勇の名での焼香なんぞ、
笑止千万以外のなにものでもない! 
コメント (8)
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