大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

下位春吉の弁明

2010-05-29 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (10)

下位春吉が大正15年11月に伊太利に向かった後、松江氏は下位夫人や
春吉の弟に文通又は面談をしたが要領を得ず時間だけが経過していった。
そんな中、昭和2年3月になって下位春吉が神戸に着いていることを知り、
碑の到着に付き用意すると共に違約の真相を確かめるため下位氏に電報にて
連絡を取ったところ、下位氏より「金ナクテ受取ツテ来ヌ」の返電があった。

下位氏が神戸に着いて同地の新聞記者にした談話によると
白虎隊記念碑を持ち帰る筈であったが容積6トン程の紀念碑を運ぶ運賃や
引渡式を挙げる費用で凡そ壱千円ばかり掛るのでその調達に帰ったので
また6月末に伊太利に戻った上でないと日本に持って来られないという
話であった。

弔霊義会の松江氏は下位氏が頗る多忙を理由として面談出来なかったが、
4月半ばに漸く会う事ができた。その時の下位氏の答弁がふるっている。

音信が取れなかったのは頗る多忙だったことと、伊太利出発前に、碑と鷲の
写真を西比利亜(シベリア)経由で発送、余の着京前に到着している筈なのに
未だ着いておらず、その写真と共に詳細報告しようとした為で写真以外の
書籍等も未だ到着なく困惑している。また余は元来金に不自由していないが、
伊太利に行くのを知るや日本の名士より伊国首相に贈物として日本刀槍等
種々な物を依託されその数が多く、送料を請求できないのでその金額も
少なくない。碑を受取るには約八百円の金を要するが、余の為に常に
物質的援助をしてくれる、千余の配下を有する下関の某に今回も資金援助を
依頼していて、面談の上送金を得て碑を受領予定であり、加えて伊太利碑の
受授には之に関係した人々を招待して謝意を表し晩餐を共にする招待客の
名簿をも提示している。

下位氏の話では、今回日本外務省の嘱託となり且羅馬大学の講師となり
金に不自由なき身となり金策の要なく、碑を送るため家族全部を率い
7月に神戸を出帆、上手くいけば8月にナポリ出帆の船にて碑と大鷲を
送ることが出来るとして、昭和2年7月初め下位氏は家族連名にて松江氏に
挨拶状を送り伊太利に出発してしまった。その後、期日に至っても碑の
到着はなく、下位氏の消息もまた途絶えてしまった。

昭和3年2月に旧会津藩士男爵山川健次郎が外務大臣男爵田中義一に
送った手紙が残っている。

「拝啓陳者下位春吉と申す者伊国首相ムツソリニー氏が伊国愛国党
の大表者として会津若松市郊外飯盛山白虎隊士墳域へ称賛の石碑を
建つることの依頼を受け候旨申述べ新聞等へ其旨記載致させ候に付き
此の儀広く一般に知れ渡り申候依て当事者なる会津弔霊義会の理事並に
下名等夫れ夫れに準備を致し屢々本人に催促仕候共建碑の義履行致し
不申実に心外に存候右建碑に関し前外務大臣幣原男爵に御助力相願候事も
有之候て碑の到着を趐首待ち居る次第に候何卒事情御推量の上速に之が
実現を見る様御取計相願申度候也」

大正14年に紀念碑寄贈の話がもたらされてから4年経過、
寄贈の話は、会津地方はもとより全国民一般特に青年間に多大の
興味と期待を持たれ、追い詰められた状況になってきた。(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京国際倶楽部例会(大正15年6月)

2010-05-21 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (9)

杉村楚人冠と山川健次郎の論争が続いていた大正15年春ごろ、
下位春吉氏はフアツショ運動の啓蒙活動のため、遊説で国内を廻って
いたものと思われるが、その動向はよくわかっていない。

大正15年6月14日付外秘第1493号という、警視総監太田政弘が
内務大臣浜口雄幸、外務大臣男爵幣原喜重郎、指定庁府県庁官に宛てた
文書が残されている。

標題は「東京国際倶楽部例会ノ件」
十三日、本郷の文化アパートに於いて、例会と講演会は開催されたこと。
米国人パウルケート、露国大使館員アスターホフ、下位春吉等四十八名が
参加、伊国大使館書記官による「ムソリーニ氏の理想と事業に就て」、
中華青年会総幹事馬伯援による「最近の中国状況」等の講演があった。
その後音楽の余興があり五時三〇分に散会とあり、当日の列席名と
伊国大使館書記官の講演要旨が報告されている。この例会の委員として
春吉の名が出てくる。

この会合にはカイバル峠の国境を越えてアフガニスタンのカプールに潜入した
東亜同文会の田鍋安之助、右翼活動家大川周明の弟子である南満鉄道社員
金内良輔、東亜同文書院第1期卒業生で日中の文化交流につくした水野梅暁、
日本の社会運動家石川三四郎等そうそうたるメンバーが参加している。

前年の大正14年、日本がソ連を承認した日ソ基本条約が締結され、
当時力を得てきた左翼運動に対抗して右翼団体も次々と結成されはじめ、
社会主義、共産主義革命運動の激化を懸念したものとして治安維持法が
制定されている。

治安維持法は「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ
結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者」、いわゆる国体変革・
私有財産制否定を目的とする結社・政治運動の取締として、特定の
「危険人物」を「特別要視察人」として監視していたものとおもわれる。

大正十年十二月時点での資料だが、この会合にも甲種特別要視察人
として渡白(ベルギー)中の無政府主義漸進派で著述飜訳業の
石川三四郎の名もある。本件と関係ないが、著述業の尾崎士郎も
國家社會主義派として乙種特別要視察人としてリストに名がある。

警察監視のなか、下位春吉は大正15年11月13日香取丸にて
門司を伊太利に向け出帆し、これ以降、昭和2年になるまで下位氏と
連絡が途絶えた。 (続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山川健次郎の反論

2010-05-17 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (8)

東京朝日新聞大正15年5月22日号に掲載された山川博士の反論

「白虎隊の事蹟は士気を鼓舞するの資料として屈きょうなるものなれば、
そのふんねい(憤塋)を神聖なるものにする必要を感じ、かつ団体
参拝者多きも、境内甚だ狭く、一時に入り難き有様に鑑み又現在は隣接せる
厳島神社の門をいりその境内を経ざるべからざる不体裁を思い、その拡張
改良の必要を感じ来りしは十数年以来の事なりしが、余等にとりては
大金を要するにより着手するに至らざりき。然るに大正十二年六月頃
根津嘉一郎氏が同感せられ、余等に相談ありしも震災のため一時中止し
昨年に至り根津氏より再相談ありて、
一、俗悪なる茶店を取り払う事
一、境内を拡張する事
一、白虎隊ふん域にいる新道路開設の事
一、白虎隊に関係なき墓若しは石碑等を外へ移す事
の四条を実行することとし、、、域内には山川浩撰文の碑、旧藩主松平容保公の
歌の碑、外に会津藩殉節婦人之碑(未成)、並にイタリ―国愛国団青年部たる
同国首相ムッソリー撰文の碑(八月頃建設の予定)の四基のみを存し、
余は盡く外に出だす計画なり。又ふん域の遊園地となることを特に禁じたく、
墳務所を設け取締をなさしむる考へなり。楚人冠氏が工事中の未成品を見て
余等を悪罵せらるるは、余等の遺憾とする所なり」と反論している。

これから、杉村楚人冠と山川健次郎との数次にわたる反論、再弁明が
東京朝日新聞紙上でおこなわれた。

5月25日号鉄箒欄 飯盛山について 山川博士に(杉村楚人冠)
5月28日号鉄箒欄 再弁明     山川健次郎
5月30日号鉄箒欄 最終弁     飯盛山に就いて(杉村楚人冠)
6月25日号鉄箒欄 お手植の移植  改めて山川博士に(杉村楚人冠) 

楚人冠は「うっかり飯盛山のことを書いて、これがために山川博士の
怒りを買ったことは、私の遺憾に堪へぬところであります」と言っては
いるものの、改良拡張に反対する姿勢は変えず再反論を掲載している。

それに対し、山川博士は「余が弁明に対し杉村君が再度筆を執られしは、
余の多とすることたり」と再反証をしている。再弁明の終わりで
「五十年の歴史は尊重したきはもちろんなれども、永き未来あるこの
ふん墓を今において改良拡張し一はもって英霊を慰め一はもって教育資料
とするに便ならしむるがためには、変更は止むを得ざるに出でしなり」
と述べ墳墓拡張工事を肯定し反論している。       (続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉村楚人冠と山川健次郎の論争

2010-05-13 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (7)

杉村楚人冠は本名杉村廣太郎、明治5年(1872)、和歌山生まれ。
英吉利法律学校などに学んだ後、明治32年(1899)在日アメリカ
合衆国公使館の通訳として勤務、その時に受けた差別的待遇により、
史記「項羽本紀」の「楚人沐猴而冠耳」よりペンネームを楚人冠としている。

杉村楚人冠は明治36年(1903)に東京朝日新聞に入社、同年入社に
夏目漱石、後輩に石川啄木がいる。明治44年(1911)、我国新聞社
初の調査部初代部長となり、大正8年(1919)監査役に就任した。

杉村楚人冠の「非忠君非愛国主義」というエッセイがある。
「標題を一目見た許りで、あッと魂消(たまげ)ること勿れ、忠君を非とし、
愛国を非とする主義と解してこそ、兎角の非難はあれ、之を『忠君に非ずれば
愛国に非ざる主義』と読まんに、何の妨ぐる所ぞや、若し又之を『忠君は愛国に
非ざる主義を非とす』とも読まば、愈以てわが意を得たり、、、」
なんとも、辛辣な皮肉のなかに知機に富んだ文章だと思う。

この杉村楚人冠が東京朝日新聞に大正15年5月16日号から
「会津の旅」で、よめいり、白虎隊跡、やないづ、の3部を掲載した

東京朝日新聞大正15年5月18日号「会津の旅二 白虎隊跡」より、
「前年この飯盛山を訪うた時は、うつうつたる赤松林の中に、こけむした
二十餘基の白虎隊の墓が立って、如何にも名だたる飯盛山らしい趣があった。
今来て見ると、東京の何とかいふ金持の義金を基として、こゝを遊園地に
仕立て、ムソリニ寄贈の何とかを建てよう計画とかで、墓所を掘りさげ
切り開いて、、、、、、何といふ心なしの業をしたものだらうと腹が立つ。
金持が金をだすのは聞えた。そのまた土木工事に学校の生徒が遠方から
手傳ひに来たといふも殊勝の至りだ。この金とこの努力とでこの舊形破壊は
何事だ。ムソリニがそれほどえらいものか。今に藝妓の手を引いた遊客が
花時に出入するやうにでもなったら、さぞかし地下の少年も満足すること
ぢゃらう 、、、、、、、」。

この批判に対して、旧会津藩士の山川健次郎が東京朝日新聞に反論を投稿して
している。 

山川健次郎は安政元年七月十七日、会津藩士山川尚江三男として生まれ、
白虎隊士として戊辰を戦った。戊辰後、長州人奥平謙輔の書生となる。
(誕生日については、枢密院高等官転免履歴書記載宗秩寮戸籍によった)
男爵で顧問官だった山川健次郎については、昭和六年六月二十六日、病気
危篤のとき、特別叙勲申牒ノ件として枢密院文書にその略歴が残されている。

「枢密院顧問官正二位勲一等男爵山川健次郎病気危篤ニ陥リ候処
同人儀明治初年魯国及米国ヘ留学ヲ命セラレ帰朝後東京開成学校教授補ニ
任セラレテ以来東京大学ノ助教、教授ヲ経テ理科大学教授ト為リ次テ同学長
ニ補セラレ更ニ東京、九州及京都ノ各帝国大学総長ニ歴任シ遂ニ枢密院
顧門官ニ任セラレ以テ今日ニ迨ヘリ其ノ間實ニ五十有余年ノ久シキニ亘リ
精励恪勤官務ヲ奉スルノ傍高等教育会議議員、学習院評議会会員、文政
審議会委員、帝国学士院会員、維新史料編纂会委員、神社制度調査会会長等
数多ノ公職ヲ檐當シ孰レモ盡力尠カラス殊ニ 今上陛下東宮ニアラセラレタル
際ハ御学問所評議員トシテ大ニ功績アリ又貴族院ニ勅任セラレ永ク議政ノ
府ニ班列シテ勲労ヲ重ネ加フルニ晩年ハ老齢ヲ以テ久シク密勿啓沃ノ重寄ニ
膺リ上級勲章授与ノ儀御詮議相成度此段及申諜候也」
枢密院議長から内閣総理大臣宛に発議、六月二十六日執行されている。

「楚人冠氏の「会津の旅」中白虎隊の墓の事に関する記事は誤りたる考を
世人に起さしめる憂へあり」と当時武蔵高等学校校長に就任した山川健次郎の
反論が大正15年5月22日号の東京朝日新聞に掲載された。(続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

院内御廟松平家お花祭

2010-05-09 | 會津
福島県会津若松市東山石山の院内に会津藩主松平家の墓所、
御廟があります。墓所の埋葬は、二代藩主正経公が仏式で、
ほかはすべて鎮石や表石、石灯ろう、碑石で一組の神式による
墓所となっています。


正中石(御廟の中心)        二代藩主正経公墓所(仏式)

八代容敬公表石・鎮石(神式 )


新編会津風土記に
「明暦三年肥後守正之長子長門守正頼逝せし時、正之が
命に因り此山を開て当家代々の墓所とす。寛文十二年
筑前守正経命じて新堰を鑿り、新田二町余を開き永く
墓田とし、享保十四年墓山の堺域を定め東西二箇所に
石を立て界を表せり、東西三百間、南北百四十九間、
此山高からずといへども満山松樹生茂り、蒼烟鬱々として
他山と異なる」と記述されています。

西の界石(左)、              南の界石(東側)


約三百五十年経て、会津藩主松平家墓所保存整備が会津若松市により
進められており、松樹蒼烟鬱々からいまはだいぶスッキリしているが、
五十年・百年後、満山松樹生茂りになればと思う。

左(2年前の院内)    右(平成22年5月)
 

この会津藩主松平家墓所院内にある拝殿で、毎年5月4日に
会津松平二代藩主以降歴代の霊神をまつる「お花まつり」が
会津松平家お花まつり奉賛会の主催で開催されます。



お花まつり神事は全員の一礼から始まり、神主による祓詞を奏上、
祝詞のあと、参加者による玉串奉奠(タマグシホウテン)が行われる。

 

会津吟詠会会員による合吟が行われた。
「松平家御廟に詣ず」
鬱蒼山稜気凛然 老杉林立雲辺突
英君鎮座十余代 統治藩風極敬虔
東北鎮台三百年 献身忠節天羞莫
巨碑歴代都神韻 遺徳厳然永遠鮮



今年は会津松平家十三代松平保定様の体調が悪く不参加で、
第十四代保久様の御挨拶があった。
          (写真右、保久様と話をしているのが菅家若松市長)
 

前日の五月三日は耶麻郡猪苗代町にある土津神社でこの神社の
十数村氏子による春季例祭が行われていた。



土津神社は新編会津風土記によれば
「境内東西三百八十六間、南北五百三十間免除地。猪苗代城下の北に
あり、此社は肥後守正之を祭れり、正之かねて神道を吉川惟足に学び
卜部家に蘊奥(注、うんおう・奥義)を窮めり、因て致仕の後土津の霊号を受け、
歿後神道の祭儀に従はんことを浴す、、、、寛文十二年八月二十二日
壽蔵(注、じゅぞう・生前に自分で造っておく墓)を定んとて此地に来り
見禰山に登り、磐掎明神の社地なるにより神祠を営て其末社たらんことを
命じ」とある。土津神社の例祭は毎年五月三日、九月二十一日に行われる。

今年の春季例祭はうっすらと色ついた桜の下で行われた。
境内で、小さな豆剣士が汗をかきかき練習をしていたのが印象的だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯盛山白虎隊墳墓拡張工事

2010-05-06 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (6)

飯盛山の白虎隊墓域一帯は、もともと飯盛家所有の山林であったが、
戊辰後、松平家に献じられたもので、はじめ旧士族で構成された
墓地管理団体信友会にその管理を委託されていたが、大正13年に
弔霊義会に引き継がれた。

弔霊義会による墳墓拡張工事は大正14年12月に着手、会津の
有志者の労力奉仕により、翌15年春に出来上がったのが現在の
飯盛山の白虎隊墓域。

外務省記録、記念碑ノ顛末には「積雪雪中ト雖意ニ介セス会津青少年男女
及各種団体ノ努力奉仕ヲ以テ着々進捗シ」と記載がある。

奉仕団体の作業日誌が残っている。
大正十四年十二月二十三日 強風雪 風速十米
一、午前九時十分頃ヨリ約四十分間会津中学四年生徒奉仕作業
二、午前九時五十分ヨリ会津中学校教官平石少佐、滝本大尉以下
  四年生徒百三十四名午前十一時迄作業
三、短期間ノ作業ナリシモ人員多ク相当ノ体力アルヲ以テ掘土及
  伐採ノ進捗著シ
四、本日ハ午前中雪風強ク終日降雪アリ、掘土作業工程六坪
五、松江、斎藤、更科、年野、間瀬理事臨場

大正十五年一月四日 雪
一、午前九時十分ヨリ午後三時迄高野村在郷軍人分会班長江川留五郎以下
  六名、町北分会員二名、町北消防組二名作業
二、作業工程 約三坪
三、前日来ヨリ雪降止マス作業場ノ雪積約八十センチニシテ排雪ノ為
  比較的労力ヲ費セリ
作業開始から日数七十八日ニシテ奉仕総人員五千二百二十一名ナリ

この奉仕人員には、若松各小学校、実業女学校、会津中学校、商業学校
の生徒二千四百七十七名が含まれている。

仮完成となった15年春、会津を旅してこの工事を見た東京朝日新聞の
楚人冠が紀行文「会津の旅」を3回に分けて新聞に連載を始め、
その中でこの飯盛山白虎隊墳墓拡張工事を非難した。 (続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津弔霊義会

2010-05-02 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (5)

自刃した白虎隊士が飯盛山に改葬されたのが、明治7年(1874)、
同17年に墓域を造成して合葬の墓碑を建て、十九士各々の墓石と
なったのが墓域を拡張した明治十三年で、そこは、裏側の登り道で
今の洞門からさざえ堂を上がる細い登り道だったという。

戊辰の戦いの後、埋葬禁止令が解除になったのは2月24日のこと、
「御城中ニ而戦死者屍官軍方ニ而阿弥陀寺江差遣葬置候処、
此方ニ而御願達之上当二月二四日以来御城内江羅出、引続キ
御城中之屍、不残同所ヘ改葬、夫ヨリ郭内外之仮埋之場所ヨリ
取纏、都合千二百八十一人改葬取計如図戦塚ヲ出来候事」とある。

会津戦死者埋葬改葬方が残した記録、戦死之墓所麁絵図(そえづ)
が残っている。

「阿弥陀寺、天朝ヨリ諸寺院中の土ヲ集、壇ヲ築、二月中如此
出来ニ及、王垣東西三間、南北四間弐尺、壇高サ七尺弐間一尺五寸四方
遥拝所、明治二年三月八日九日官軍所ヨリ大施餓鬼致候事」

そのあと、阿弥陀寺で八宗合同の大施餓鬼が行われた。
「戦死の壇東西四間余南北拾弐間、高サ四尺 七月五日六日七日 
八宗大施餓鬼供養致候事」

こんな状況のあと、戦死者慰霊の各団体が組織されたが、財団法人
会津弔霊義会が認可されたのは大正6年のことだった。

昭和53年、弔霊義会戊辰殉難追悼録に弔霊義会の目的が
記載されている。

本財団ハ戊辰ノ役会津戦死者ノ霊魂ヲ祭祀スルヲ以テ目的トス
その為の事業として以下の各号を定めている。
一、阿弥陀寺並長明寺・飯盛山ニ於ケル戦死者墳墓ヲ永遠ニ維持スルコト
二、会津地方ニ散在スル戦死者遺骨ヲ阿弥陀寺ニ合葬スルコト
三、飯盛山所在ノ白虎隊戦死者ニ関スル建造物ヲ永遠ニ維持スルコト
四、戦死者の祭典ヲ行フコト
五、前各号ノ外特ニ必要ト認メタル事業

戊辰の戦いから110年後の昭和53年(1978)、弔霊義会は
戊辰殉難追悼録を発刊し、弔霊義会本来の目的として、

「建造物・墓地の整備と維持管理に努力し、そして清浄化を図り
御霊の安らぎを期すること。さらに定期、臨時の祭典は勿論のこと、
常時参拝者の幸便を図ることを重要視すること。先人の遺徳に関心を
深めると共に、後人には蒙を開くための処置を講ずること」とし、
奇形奇観を求める、一般観光地と異なって、精神的(霊場)観光の種と
見るべきで、受け入れ側としても当然、物見遊山的な態度が主体に
ならないことが必要であると自戒している。

大正6年法人設立後、弔霊義会では2つの大きな建設事業が計画された。
1つは、阿弥陀寺の明治7・8年に建立され古化した戊辰殉難拝霊堂の
再建。もう1つが飯盛山の白虎隊墳墓の拡張工事であった。

白虎隊墳墓は明治2年埋葬許可が下り妙国寺に仮埋葬、同7年飯盛山に改葬し、
17年に造成完成した白虎隊の墓域をさらに33年拡張したが、それでも
まだ狭まかった。

東京帝大史料編纂官の花見朔巳編「男爵山川先生傳」によれば、

大正12年7月、たまたまこの墓域を訪ねた東都の実業家(東武電鉄社長)、
根津嘉一郎氏が感激してその英霊を慰めたいと山川健次郎氏を訪問し
「白虎隊士の墳墓はなんとかせざるべからず、会津の先輩とも何とか
御相談したし」との申し出があり、協議の末、14年10月、根津氏主催の
会合を催し、根津氏よりの9千圓の出資と山川氏より千圓の寄付に会津関係者等
の寄付を仰ぎ、総額2萬8千圓で飯盛山墓所を改良することになった。(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする