戊辰の一月、大坂を脱出した藩主に追いつこうと、御宸翰を携えた会津藩士神保修理・浅羽忠之助一行は長谷から初瀬本街道を通り、松坂、津、四日市を抜け、桑名に着いた。ここ桑名でも藩主に会う事が出来ず、桑名の会津藩定宿に藩士が乗り捨ててあった駕籠を使い、東海道を下り、熱田宮宿に向かった。天保十四年(1843)、東海道宿村大概帳によると、桑名宿の本陣数二、脇本陣数四、旅籠百二十と数では東海道で一,二の規模を誇っている。江戸時代の大塚本陣、駿河屋脇本陣はそれぞれ今、料理旅館船津屋、料理旅館山月として残っている。もっともこの事が分ったのは旅行から帰ってから。桑名の七里渡し跡で車を待っている間、傍にあったのが料理旅館山月、そのときはこの旅館山月が脇本陣跡だとは思いもよらなかった。神保修理・浅羽忠之助一行は定宿の亭主から荷物を運んでいた会津藩定才領の塚原広治がこの騒乱で尾張宮宿に戻ったと聞き、急いで宮宿に向かった。会津藩の定才領がどのような職責なのかよくわからないが、藩諸職班席で云うと、定才領は免許小頭格大和柿白鼠半襟の位で、下位に廻漕米を扱う廻米才領の職制がある。塚原広治は廻米を取り扱う才領(宰領・才量)の小頭だったのかもしれない。修理・忠之助一行は宮宿で塚原広治と面会し、各十両ずつの路銀を借り、昼夜急ぎ十五日には江戸藩邸に着いている。
桑名宿七里渡しの船場は本陣用、一般用、他に廻米用、問屋場用など四ヶ所があったという。七里ノ渡しは木曽川や揖斐川の広々とした河口の渡船場だと想像して来たので、防波堤の囲まれた渡し場跡をみてビックリした。
昭34年(1959)の伊勢湾台風の後、高潮対策工事のため、渡船場と道路の間に防波堤を築いたという。旧城隅櫓石垣の突角一部は、原形を復元、旧位置に辛うじて残したというが、気が付かなかった。
防波堤の間から富士山みたいな山が見えたが、桑名から富士山までは約190k、障害物がなければ可視範囲内だがデジカメに写る距離でもなく、まさか対岸にある「なばなの里」の乗り物「アイランド富士」の富士山でもなさそうだし、どこの山が写っていつのだろう。東海道は桑名宿と宮宿の間、海路七里の渡船と定められ、時間は3~4時間掛かったと思われるが、対岸の尾張の熱田宮宿の七里の渡しに、電車を使って一時間程で着いた。宮の渡しは、運河でもある堀川と新堀川の合流点に「時の鐘」と「常夜燈」が造られていて、宮の渡し公園となっていた。
ここも昔の面影は全く消えていた。この公園の前に古い家屋があったが、脇本陣格の旅籠屋丹羽家ということであった。
帰り、熱田神宮によってから、一路、江戸にむかって東海道を下る。
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シーイングのいい日にはよく見えます(^^)
七里渡しの防波堤の開口部からは真東から30度~
40度程度しか写せず、どこの山かと思っていました。
かなり遠くの山まで見えるものですね。
ありがとうございました。