不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

醍醐寺塔頭三宝院

2019-01-30 | 

随心院から醍醐寺までは、狭い醍醐道を歩いて20分程度、醍醐寺の塀が見えてから総門まで200m位だがかなり遠く感じる。総門を入り50m位の左側に三宝院がある。
 
三宝院は永久三年(1115)、醍醐寺第十四世座主勝覚により創建、醍醐寺伽藍の仁王門の外北側にあり醍醐寺の塔頭で門跡寺院です。三宝院門跡は、醍醐寺座主を兼ねている。院内建築物のうち、唐門と表書院が国宝に指定、玄関、勅使の間、秋草の間及び葵の間、宸殿、庫裏、純浄観、護摩堂が重要文化財に指定されている。また、ここの庭園が特別史跡 特別名勝として史跡名勝天然記念物に指定されている。

 
 
 
文化庁の説明では「慶長三年豐臣秀吉三寳院ヲ金剛輪院ノ地ニ新營セシ時躬ラ繩張ヲナシ三人ノ庭奉行ヲシテ舊園ヲ改造セシメシモノナリ中央ニ池ヲ置キ三箇ノ中島ヲ設ケ九橋ヲ架シ南方ニ假山ヲ築キ東岸ニ瀧ヲ懸ケ池邊多數ノ景石ヲ配シ當時ノ名石藤戸石ノ如キ池側ニ蟠居セリ杉扁柏廣葉杉椎樫等巨樹繁茂シ清雅ノ裡豪宕ノ風格ヲ有ス」とあり、「慶長三年豊臣秀吉が自ら縄張をなして三人の庭奉行をして修築せしめ、その後義演が庭者に修補させたものである。桃山時代に於ける著名な庭園」とある。唐門は立派なので国宝みたいと感じるが桃山時代の寝殿造りの様式を知らないので建物はどっからどこまでが国宝だかよく分からなかった。三宝院庭園は慶長三年(1598)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら縄張りした庭で、秀吉死後、醍醐寺座主義演が引く継で完成させたもので、造園に関する記録が現存しており、この庭園の価値を高めているという。秀吉は各地から七百本の吉野桜を移植することを決めている。もっとも庭園に着手したのは花見の後だったようである。桜は総門から仁王門に至る「桜の馬場」から「やり山」に続く「三百五十間」(約637メートル)の左右に植えられたという。例によって、庭園を見ても具体的にどの辺が特別史跡で特別名勝なのか分からなかっったが、石が非常に多く配置してあるのはわかった。何でも、藤戸石を主人石に用い、その他大石三個をたてた。この藤戸石は永禄十二年(1569)、織田信長が足利義昭の新邸営造のとき細川右馬頭の庭園から運搬させ、その後、秀吉のため聚楽第に運ばれていたもので、人夫約三百人でこの大石を三宝院作園のため運ばしたという。
 
 
国宝の表書院の前に「賀茂の三石」と呼ばれる石がある。

向かって左の石は、賀茂川の「流れの速いさま」を、中の石は「川の淀んだ状態」を、右の石は「川の水が割れて砕け散る様子」を表しているという。何時、誰が「賀茂の三石」と呼びだしたのだろうか、あと百年も経てば園内の大石にもっともらしい名前が付けられているのだろうか。庭園の鑑賞力に欠けているせいか、パンフレットを見るまで、藤戸石や賀茂の三石に気が付かなかった。そこで昭和十二年文部省発行の名勝調査報告記載の三寶院庭園平面図に色を付けてみた。庭の南東に滝があるのが初めて気が付いた。三宝院から外にでると、菊と桐の四つの大きな紋には金箔が施された唐門(勅使門)がある。
 
いやに綺麗だと思ったら、平成二十二年、約1年半をかけ、往時の姿に修復したものだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山科 随心院

2019-01-24 | 

藤原定方墓から小野駅の反対側にある随心院に向かう。ゆっくり歩いて20分程度で隨心院に着くが、山科という土地は京都の街中とは全く異質の趣を感じる。三方を山に囲まれ、南に口を開け、京都街中と距離はたいして離れていないにも拘らず、バスもあまり見かけず、山科は京都の孤島みたいな感じを受ける。町名が細かく分れていそうなので、因みに町名を数えたら300以上あった。その中で御陵(みささぎ)と付く町名が30、勧修寺が29、小野が10あった。全国の宮内庁治定陵墓は851、陵墓参考地46、陵墓地で459ヶ所あるそうですが、山科区に宮内庁治定陵墓が十八陵あった。地名からしてもう少し多いかと思ったが案外、少なかった。
 
 
山科区小野御霊町にある随心院は、号は牛皮山曼荼羅寺、開基は仁海僧正、真言宗小野派の大本山で、伝承によれば、仁海が弘法の道場を求めて、諸国を巡錫し小野の草庵で母の聲を聴き、母の因縁により牛に生まれ来れるのを覚り、その牛を求めて同居した。まもなく牛は死したが、母なるを以て懇ろに弔い、その皮に大曼荼羅を描き、此の曼荼羅を本尊として一宇を建立し、牛皮山曼荼羅寺と号したという。鎌倉初期の説話集「古事談」では、「仁海僧正、父ハ上野上坐(宮道惟平?)ト云ケリ。死之後僧正之夢ニ牛ニ成タルトミヘクレバ、其牛ヲ買取テ被労飼之間。又夢ニ所役無クテ罪カロマズトミヘケレバ、田舎ヘ遣テ時々被仕ケリ。牛斃後得脱之由又有夢告之云々」とあり、母と父が入れ替わっている。母と父では何か違いがあるのだろうか。また、「仁海僧正は鳥を食べる人なり、僧房に住む雀をえもいはず取り、件の雀をハラハラとあぶりて、粥漬のあわせに用いるなり。しかりと雖も、験ある人なり、仁海は大師の御影には違はず」という逸話が残る。伏見稲荷の雀の丸焼きを思い出した。
 
 
 
随心院は真言宗小野六流の一つ、随心院流で著名な寺院で中世には衰微退転したが、江戸時代の初めに小野流の根本である曼荼羅寺の旧跡に再興された。「随心院は小野小町の旧跡にして小町の地蔵は當寺什寶の一なり。小町は出羽郡司小野氏の女にして、容色天下に比なし」とは大正二年山科村出版「山科探訪」の記載にある。小野小町は平安時代前期の女流歌人で六歌仙,三十六歌仙の一人で多くの伝説が残るものの、その正体はまったく分かっていない。世阿弥が手を加えた「通小町」(原作は観阿弥作 四位の少将)は、深草少将の百夜通いの物語で、小野小町は深草少将が毎晩届ける榧の実で通った数を数え、百夜目(九十九夜目?)に深草少将は雪の中で凍死してしまう。その深草少将ゆかりの榧の木が随心院駐車場横の仁海僧正の供養塔の後ろにあった。
 
 
深草少将は架空の人物で、墨染の欣浄寺が深草少将の邸宅跡だという伝承があるという。欣浄寺という名のお寺は懐かしい。十数年前、鳥羽伏見の戦いで、千両松で戦死した新撰組井上源三郎の首を埋めたという、今は廃寺になっている欣浄寺址を探して淀納所をうろついたのを思い出した。ネットを見て驚いた。井上源三郎の首塚が墨染の欣浄寺にあるという。何時できた話だか判らないが、こんな与太話も三十年、五十年言い続けると伝承として本当の話として残っていくと思うと恐ろしい。醍醐寺に向かう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山科 宮道神社・藤原定方墓

2019-01-16 | 

勧修寺納経所でもある仏光院の南側に小さな神社があった。
 

宮道神社(みやじ)と言い、京都市の説明によると「古代、宇治郡を本拠とした豪族の宮道氏ゆかりの神社で、寛平十年(八九八)に創建され、宮道氏の祖神である日本武尊・稚武王を祀る。その後、宮道弥益、宮道列子、藤原高藤、藤原定方、藤原胤子等が合祀され、宮道大明神・二所大明神とも称されている。本殿は明治二十三年(一八九〇)に再建されたが、平成十二年(二〇〇〇)五月、社殿等の再整備に併せて「由緒碑」も建立された。宮道弥益は創建当時の山城国宇治郡(現・京都市山科区もその一部であった)の大領(郡司)であり、弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁ぎ、生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。母の死後、醍醐天皇は弔いのために弥益邸宅跡を寺にして、勧修寺となった。高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。なお、高藤と列子のロマンスについては「今昔物語集」にも残されており、この列子の話が後に「玉の輿」のモデルになったとも言われている」とある。「玉の輿」の語源は色々あるみたいですが、藤原高藤と宮道弥益の女列子との出会いが今昔物語集の「高藤内大臣語」に記されている。紫式部は,この二人の出会いを参考に源氏物語の「明石の君」を書いたといわれている。
  
宮道神社崇敬会による由緒碑によれば「高藤の後裔は、勧修寺流藤原氏として朝廷で枢要な地位を占め、また宮道氏は、武家・寺家蜷川氏としてともに繁栄、活躍した」という。会津にも三浦氏流蜷川氏(いなかわ)があるので何とも言えないが一休さんに出てくる蜷川新右衛門は宮道氏と何らかの関係があるのだろうか。亡くなった演出家の蜷川幸雄は藤原一門ということになる。藤原高藤と豪族宮道弥益の女列子との間に生まれたのが定方で醍醐天皇の叔父にあたり、住いが三条坊門小路北面にあったため、三条右大臣と呼ばれた。藤原定方の女と藤原雅正の子為時の娘が紫式部で定方は式部の曽祖父にあたる。
勧修寺の東南にある小高い鍋岡山北麓の京都府道35号線に勧修寺下ノ茶屋町という京阪バス(竹田駅行)のバス停がある。ここから山側10mも入った所に三條右大臣墓碑と墳墓(藤原定方墓)がある。場所は仏光院で教えてもらったが、問題はこの墓域に私有地を通らないと入れず、しかも墓に通じる土地にリードに繋がれた中型犬が。インターホーンを鳴らしても不在みたいで、どうしようかと迷っていたら近所の方が横を通れば大丈夫ですよと教えてくれた。
 
 
 
 
藤原定方遺徳碑は台座が亀趺で碑銘文によれば、承平二年(932)八月八日六十歳で薨じ、山城国宇治山科郷鍋岡山下に埋葬、享保八年(1723)に一門により墳墓前に遺徳碑を建立したとあった。
同じ鍋岡山に第三十三代勧修寺長吏霊元天皇皇子済深親王、第三十四代勧修寺長吏後伏見天皇十五世皇孫尊孝親王(伏見宮)の墓域と後伏見天皇十九世皇孫晃親王(山階宮)の髪歯塔がある勧修寺宮墓地があったが、時間の関係で寄れなかったのが残念だった。随心院に向かう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都山科 勧修寺

2019-01-10 | 

山科の門跡寺院の勧修寺に行った。やっと読めるお寺だと思ったら、この辺一帯の地名は「かんしゅうじ」で、勧修寺の呼称は正式には「かじゅうじ」だという。勧修寺第四十五代筑波常遍氏がその著書で述べていると云う。古書に振り仮名でも付いていたのだろうか。とは寺の首長である僧をいい、本来は別当・座主などと同格の地位あるいは別名であったが、園城寺・勧修寺では、別当より上位に置かれていたという。にも色々な意味があるものだと感心する。群書類従に勧修寺縁起が記載されているが、仮名交じり文で読むのに苦労する。勧修寺は亀甲山と号し、開基は醍醐天皇、開山は承俊律師。醍醐天皇は母胤子の菩提を弔うため、母の生家・宇治郡の大領宮道弥益の邸宅に伽藍を建立し御願寺としたのが勧修寺で、寺号は天皇の祖父にあたる藤原高藤の謚号をとって勧修寺と名付けた。本尊は醍醐天皇等身の千手観音を安置し、里人は「南山科御殿」或は「御殿」と呼んだと云う。縁起に「この寺未だ造はじめざりける時、渤海国の使、斐裘という人、この国に渡れりけるが、越州敦賀の津に着て、山科をめぐりて、羅生門へ行くとて、南山のかげ道を通りけるが、馬をりて、北に向いて、拝して通りけるを、人その心をしらず、あやしびて問ければ、渤海客申けるは、此処にちかく伽藍出来待べし、地形亀も甲のごとし、佛法の命長久にして、貴人たゆべからず、このゆえに拝する也とぞ申ける」これが當寺建立以前の姿で、山号の由来もここにあるという。斐裘という人は山科の南から羅生門へ向かう途中、どの山が亀甲にみえたのだろう、凡人には、丘陵がみな亀甲にみえてしまう。地下鉄小野駅から真西に約500m位で勧修寺門前の駐車場に着く。駐車場入口に法華千部の石標があるお堂の横に四本の石柱があった。
 
 

愛宕常夜燈の石柱(「火伏せ」の神様の愛宕山山頂にある愛宕神社から広まった愛宕信仰で仁王堂町の燈明講中が建立したものか)。文化元年建立道標(右大津  是より一丁北西、左京道 すべり石越大仏。北 すぐふしみふじ)、天保十四年銭屋八郎兵衛建立道標(大石蔵〔以下埋没「之助旧跡」カ〕)、京都市建立道標(東面 右坂上田村麻呂公墓、山科滑石方面、左深草、小栗栖方面)。銭屋八郎兵衛は西陣で糸商売を営んでいたという。駐車場から山門まで直ぐだと思ったら、時代劇に出てきそうな鉤型の白塀が続く道が山門までえらく遠くに感じる。
 
 
勧修寺は真言宗寺院として勧修寺派を開いたが、その後、他の真言宗宗派と連合、合併を行ったが、明治四十年十月、真言宗山階派として独立を許可された。一時、政府により真言宗各派合同させられたが、昭和27年に真言宗山階派大本山となっている。明正殿とも云う宸殿は元禄年中明正天皇の宮殿を當寺の長吏済深法親王に寄進され建立したものと云われている。正面の懸額は山階宮晃親王に御染筆による。
 
 
明正天皇の生母は二代将軍徳川秀忠の正室江(崇源院)の子、和子です。書院脇に勧修寺型燈籠と呼ばれる大きな傘の変わった燈籠があった。これは水戸光圀の寄進と言われている。
 
 
 
勧修寺の御朱印は、勧修寺南側に隣接する佛光院(勧修寺納経所)で頂ける。この寺は昭和に入り、かつて勧修寺の塔頭があったと伝えられる由緒ある地に、大石順教尼によって再興建立された。
 
 
庫裏脇の大きな甕に最近ではあまりお目に懸れない在来種らしきメダカがいた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする