大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

英連邦戦死者墓地

2012-10-23 | その他

神奈川県横浜には「山手外人墓地」、「根岸外人墓地」、「中華義荘」、「横浜英連邦戦没者墓地」の計4ヶ所の外国人墓地があり、その1つ、保土ヶ谷狩場にある英連邦戦死者墓地にいった。
 
 
この共同墓地は戦中、日本国内で亡くなった英連邦の 陸・海・空軍戦没者の墓地で、墓地内に一歩入って日本初の陸軍墓地、旧真田山陸軍墓地との違いに愕然とする。
 
 
この墓地の維持管理はイギリスに本部を置く英連邦戦死者墓地委員会が英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、インド、パキスタンの諸国に代って行っているという。
墓地入口の記帳所に置いてある英連邦戦没者の墓委員会のパンフレットによると、1942年、シンガポール陥落後、日本軍は捕虜を日本に移送し始めたという。公文書では捕虜と俘虜という言葉を使用していて、日本陸軍では主に俘虜を使用しているが、文書上の使用区分は判らなかった。公文書館に陸軍俘虜情報局(昭和20年6月30日)による俘虜収容所別収容一覧が残っている。国内は函館、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡の7か所、外地に2ヶ所、計9ヶ所の本所を置き、その下に分所、派遣所、分遣所を設置している。この資料では国内34709人、外地69346人、合計104055人の収容人員とあるが、他の資料、軍抑留者人員調査によると人員合計90527人となっているが、内地・外地収容者の正確な人数把握は資料の破毀隠滅もあり難しい。(俘虜情報局17年12月現在俘虜収容状況では12万7千5百71名)。東京俘虜収容所本所は当初、品川にあったが大森に移転し、昭和18年8月、品川の施設は東京俘虜収容所付属病院となった。東京本所は大森の埋立地で今、平和島競艇場として使用されている。平和島という地名の由来がこれで解った。横浜の俘虜収容所は東京本所の第二分所として中区の横浜野球場を利用したが、戦局の激しさが増した昭和19年5月にこの分所は閉鎖され、収容者は地方の収容所に移動させられている。横浜の英連邦戦死者墓地はイギリス区、オーストラリア区、カナダ・ニュージーランド区、インド区、戦後区(戦後に死亡した者)の5ブロックに分かれていて、その国にゆかりの樹木が植えられているという事であったが、気が付かなかった。ほとんどの墓碑には日本の墓の家紋のように部隊章が刻まれていた。

インド区                       戦後区
 
オーストラリア区                  カナダ・ニュージーランド区
 

部隊章
Royal Engineers 王立工兵隊   Royal Army Service Corps 王立陸軍運送隊
 
Royal Air Force 王立空軍            Royal Artillery 王立砲兵隊
 
Royal Signals 王立通信隊    155 (Lanarkshire Yeomanry) Field Regiment  第155フィールド連隊
 
The Royal Regiment 第18 偵察連隊あとロイヤル装甲隊 The suffolk regimentサフォーク連隊
 
The middlesex regiment ミドルセックス連隊     The royal regiment
 
The royal ramy ordnance corps ロイヤル陸軍兵器隊     Craftsman R.E.M.E
 
Royal air forceロイヤル空軍   The argyll and sutherland highlanders サザーランドハイランダーズ連隊
 
The sherwood foresters シャーウッドフォレスタ連隊     H.m.s sultan 潜水艦
 
The royal scots ロイヤルスコッツ連隊      Volunteer defence corps 香港ボランテア防衛隊
 
Koninkrijk der nederlanden オランダ王国 The royal northumberland fusiliersノーサンバーランド連隊
 
Singapore royal engineers シンガポール陸軍工兵         Fireman s.s.aust
 
The bedfordshire and hertfordshire regimentハートフォードシャー連隊
Hong kong dockyard defence corps  香港ドックヤード防衛隊
 
The army dental corps 陸軍歯科隊    The cambridgeshier regiment ケンブリッジ連隊
  
Royal n.z. navy ニュージーランド海軍      Royal armoured corps 第三王立騎兵連隊
 

横濱外人墓地


参考
笹本妙子著「連合軍捕虜の墓碑銘」
アジア歴史資料センター


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いわき欣浄寺 小姓塚

2012-10-09 | 掃苔

いわき平欣浄寺に戊辰役戦死者、筑前藩士の墓碑を見にいった。無縁仏となった墓碑を集めた一画に異質な墓が一基あった。その墓には小姓青山九八郎と刻まれていた。この墓が元文三年(1738)の百姓一揆と共に平藩内藤家の大事件であった、延宝八年(1680)に起きた小姓騒動の首謀者の一人、青山九八郎の小姓塚とも呼ばれる墓碑だった。
 

 
磐城平藩は関ヶ原の合戦のあと鳥居氏最初の藩主となったが、最上氏の改易により出羽山形22万石に加増移封され、あと磐城平に入った藩主が内藤政長で、その三代藩主が内藤義概、義概の長男は義邦(早死)、次男義英は廃嫡、晩年の子義孝が四代藩主となり、五代藩主は義孝次男義稠が継いだが若くして亡くなったため、廃嫡となった義英の長男政樹が六代藩主となった。三代藩主内藤義概から六代藩主内藤政樹が大規模な百姓一揆などにより日向延岡に転封された延享四年(1747)までの僅か七十年位の間に起きた出来事だった。小姓騒動そのものは、三代平藩主内藤善概のとき、延宝八年(1680)四月、小姓頭山井八右衛門を確執のあった小姓たちが山井八右衛門夫婦を斬殺した事件で、内容については「磐城史料筠軒稿本」(以下稿本)や「内藤侯平藩史料」(以下藩史料)に小姓騒動として記録が残っていた。小姓騒動を「稿本」は三代藩主左京亮義概の項に附録として松賀族ノ逆謀、小姓騒動、六代藩主備後守政樹の附録として松賀一族滅亡を記載して一連の事件として扱っている。内藤家記録に色々な参考資料を加えて編纂した「藩史料」の小姓騒動項目の前には浅香十郎左衛門牢舎す(旧記)とあった。一連の混乱は、三代平藩主家内藤善概の家老松賀族之助は妻を善概に差出し、生まれた子を藩主の子とし、内藤大蔵と名付け、やがては大蔵が藩主となるよう松賀一族が画策する。善概は晩年の子三男義孝を藩主とするため次男義英を廃嫡させ重臣浅香十郎左衛門を讒訴により切腹させた。この時期に小姓が小姓頭を討取る事件が起きた。「藩史料」は密聞書という資料も加えてこの騒動が書かれている。志賀伝吉著「平藩小姓騒動誌」に藩史資料「密聞書・御小姓騒動一件」の記載があった。「藩史料」小姓騒動は「密聞書・御小姓騒動一件」と殆ど内容は同じで、「藩史料・密聞書」と「稿本」も、粗筋はほぼ同じですが、騒動に加担した小姓の人数、氏名が異なっている。「藩史料・密聞書」は山本金之丞、篠崎友之助、山口岡之助、井家九八郎、大胡勝之進の五名。「稿本」では松井源二、篠崎勝之進、松浦吉弥、松川粂之助、瀧本三弥、青山九八郎の六名となっている。「藩史料・密聞書」の篠崎友之助と井家九八郎と「稿本」の篠崎勝之進と青山九八郎の二名が似たような姓名となっている。「藩史料・密聞書」も「稿本」も九八郎が事件後、頼ったのが安藤平八(七百石)であり、井家九八郎と青山九八郎は同一人物だと考えられる。延宝八年閏八月の内藤家分限帳には井家、青山という家臣の家は無く、事件後、家は断絶したか、または何かの立障りがあり偽名を藩史に記録して家名を存続させたのかもしれない。義概の次男で廃嫡となった義英の子、政樹を義孝の養子として六代藩主となった時、松賀一族が六代藩主の毒殺を図り、その陰謀が露見して松賀一族は失脚滅亡した。しかし、藩士同士の対立も激しく、毒殺の話も松賀一族を失脚させた後の作り話だったかも知れない。

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いわき平 官修墓地

2012-10-04 | 掃苔

磐城郷土史に昭和初期、磐城郡町村所在の官修墳墓の記載がある。本書によると磐城郡内の泉、植田、勿来と平に胡麻沢、長橋、堤ノ内、禰宜の4ヶ所、高久に官有墳墓地、小名浜が蛭川、明神前、小湊の3ヶ所、磐崎龍勝寺、神谷大円寺、草野沢帯、大野脇の計15ヶ所の官修墓地の記載があった。平長橋町の十九坪を除いて、いずれも六坪から一坪と小規模だが地目は官有墓地、官有地第2種地、民有地、共同墓地,民有墓地、民有畑と様々。官修墓地の制度は、戊辰戦で西軍が各地に転戦した際、各藩の士卒でこれに従軍し、戦病死した者の遺骸がそれぞれの地に埋葬されたので明治七年これを慰霊すべき旨の仰出があり、翌八年内務省所管のもとに定額の修繕費(墳墓一ヶ所について六円二十五銭)等を支出して国に於いて祭祀することとなった。同十五年には西南ノ役の戦没者の墳墓もこれに加えられた。官修墓地の管理には監守者を置き、開設の沿革、域内の坪数並びに地種、埋葬人名表を記載する各墓地の明細帳調製の制度ができたが、昭和二十年八月の終戦により、同年十二月連合国最高司令部から政教の分離と神社の国家管理廃止等を厳重に指令してきたため、「護国神社及び官修墳墓」の歳出科目が削除となり、官修墳墓に対する国庫支出がなくなった。官修墳墓の所管省であった内務省も廃止となり、所管する国家機関がなくなった。昭和二十八年四月、文部省調べによると官修墓地の所在は全国で1013所(福島県186所、熊本県164所、秋田県127所)(東海・北陸・信越から北側各県で672所、近畿から西側で341所、計1013所)となっている。
明治四年、社寺上知令により社寺財産について境内地以外は、すべて官有地とされたのが始まりで、国有地である陸海軍墳墓地と異なり、明治初期から寺地内官有地として無償貸付されていた官修墓地は戦後、一定の条件のもと無償還付された。もっとも社寺国有境内地の譲与(無代価払下)処分は明治十一年五月に始まるが、社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の境内地処分は昭和十四年から始まり戦後、全文改正のあと本格的に始まった。大蔵省管財局編「社寺境内処分誌」に戦後、全国の社寺別処分地の明細が記載されている。
以前、官修墓地のあった胡麻沢長源寺と長橋町性善寺、欣浄寺を廻る。胡麻沢の官修墳墓埋葬の薩摩藩の十四名は、大正六年八月、白河に移転して合葬されて、胡麻沢長源寺には薩州藩士の墓石だけが残されていた。
 
 
長橋町性善寺には、広島、因州、岩国、長州、伊州、佐倉諸藩の戦死者二十二名の戊辰役戦歿者之碑があったが、前述の磐城郷土史に記載のある備前藩士の墓碑は確認できなかった。
 
 
同書に長橋町民有地第二種六坪と記載のあった筑前藩士の墓碑は今、古鍛冶町の欣浄寺に移されている。欣浄寺境内の無縁仏の墓域の右側に筑前藩士の墓があったが、この墓域の左端に小姓青山九八郎と刻まれた墓があった。この墓が磐城平内藤藩のお家騒動の序幕となった小姓騒動の首謀者一人の墓だった。
 
 


良善寺 戊辰戦死者追福改葬浄地      いわき欣浄寺 小姓塚

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良善寺 戊辰戦死者追福改葬浄地

2012-10-01 | 掃苔

戊辰戦死者追福改葬浄地には戊辰役「磐城の戦い」による旧平藩戦没者五十四名が弔われている。旧平藩安藤家とその家臣や関係者で組織した平安会により戊辰戦争戦没者慰霊法要が毎年、いわき良善寺の安藤家墓地の後側にある戊辰戦死者追福改葬浄地で行われているという。
 
良善寺山門戊辰磐城の戦い弾痕痕
 

 
舊平藩戊辰殉難者墓地図
  

墓地正面に向かって右側手前より
1、農兵人夫及無縁弔祭碑(久野喜左衛門以下十四名) 2、農兵 久野繁三郎 
3、農兵 青木柳右衛門 4、小野定次郎行周 5、森 祐太郎長久 6、辻 運八郎貞徳 
7、森永留次郎有道 8、加茂安新助 9、太田九郎忠一 10、宮田逸作忠意 
11、鈴木英之助通政 12、永井清之助政醇 13、吉田直之丞久恒 14、林 丑蔵一壽 
15、国府田覚次郎静年 16、三村源四郎常徳 17、北村東七郎脩全 18、渡辺與市利範 
19、本岡賢左衛門直柔 20、山田錬次郎有隣 

正面右側より
21、中村才助久徳 22、山田省吾勝任 23、三田八弥宣隆 24、杉浦三平倫告 
25、松村有輔知善

正面左側奥より
26、鈴木與兵衛彰常 27、下河部鉄太郎行通 28、松本茂平(通称・義一郎)愛通
29、岡本要右衛門忠怒 30、鈴木熊之助定方 31、加治荘蔵季材 32、後藤鉞之助篤吉 
33、平松道太郎志尚 34、殿木篤之助宗精 35、田母神留次(通称・周蔵)直顯 
36、近藤彌市利任 37、猪瀬二郎政直 38、岩佐鋒太郎政平 39、馬場米三郎忠武

手前側
40、野本義右衛門義衛  41、天田平遊          良善寺本堂
 
大正六年、平安会編「旧平藩戊辰殉難者追憶」舊平藩戊辰殉難者墓図参考

いわき平 官修墓地

コメント (2)
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