大佗坊の在目在口

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安楽寺久松俊勝宝筺印塔から鵜殿長照墓所へ

2023-12-16 | 掃苔

西郡の四大寺の一つだという安楽寺に向かう。西郡の四大寺とは蒲郡の五井町の長泉寺、清田町の安楽寺、蒲郡町の天桂院、上本町の長存寺で、安楽寺は。三河十二本寺のひとつともいう。三河十二本寺と云うのは三河地方にある十二の浄土宗西山深草派寺院の総称で京都中京区の浄土宗西山深草派総本山誓願寺に次ぐ中本山の格式を持つ寺だと云う(蒲郡の安楽寺、岡崎の法蔵寺、崇福寺、圓福寺、浄珠院、大林寺、梅園誓願寺、西尾の不退院、桂岩寺、養國寺、養寿寺、恵験寺の十二寺)。蒲郡市観光協会公式サイト「安楽寺」の説明にまぼろしの西郡四大寺とあり、何が幻なのか解らなかったが、西郡四大寺とか三河十二本寺という呼び名は、地元での認知度は高いのだろうか。


安楽寺は山号を楠林山、院号は和合院、浄土宗西山深草派寺院で、応永十五年(1408)開基は本山龍芸上人。本尊は天台宗勧学院別院和合院の阿弥陀。勧学院が衰退し、その荒堂より楠林の精舎に移し、旧号並べ楠林山和合院とした。永禄五年(1562)、上ノ郷城主鵜殿氏の一族敗死の後、その戦功により尾州阿古居城主久松佐渡守長家(俊勝)が西郡城を賜り、之により安楽寺を菩提寺と定めたという。水野忠政の娘、於大は松平信元に嫁ぎ、広忠の長男竹千代(後、家康)を生んだが、兄、清水信元が今川氏に離反し、織田氏に属したため信元に離婚され、のち久松長家(後、俊勝)と再嫁した。本堂に安置してあった伝通院の位牌は、残念なことに平成27年(2015)10月の火災で焼失してしまったという。


仮の建物の近くに久松俊勝宝筺印塔があった。この安土桃山時代の久松俊勝宝筺印塔と江戸時代建立の安楽寺山門は市文化財に指定されている。安楽寺から西に5~600mの所に上ノ郷城跡があり、さらに西に400m位の先に鵜殿長照墓所が地図に載っていた。さほど遠くないと寄ってみた。ミカン畑に囲まれていて目印もなくたどり着くのに大変だった。


蒲郡市博物館のパンフレットに鵜殿長照墓所は神ノ郷町西門前又十墓地だとある。又十とは名前なのか、地名なのかよく判らなかったが、西門前の東側は東門前という地名になっている。城の北西に久古山正行院がある。三河国宝飾郡誌に「往古は久古山妙了寺と称し鵜殿家菩提寺なりし処永禄五年鵜殿落城の際廃頽し釈迦堂の名のみ存せりしを延宝六年二月再興し久古山正行院と号す」とある。さらに長応寺跡の項に「往古は久古山妙了寺の末寺にして永禄五年焼失により時の僧日応上人江戸皆咎門内(現日比谷)へ移転し其後芝高名輪に移り現今芳荷山長応寺と云これなり長応寺は鵜殿家代々の菩提寺にて七堂の寺なりし由なりと云」とあり、西門前には妙了寺末寺の勝光坊が永禄五年に焼失により廃寺となるとの記載もある。長応寺が具備すべき堂塔、七堂を全て備えていた寺だとすればかなり大きな寺だったと思われる。鵜殿長照墓所は旧長応寺の境内の中だったのだろうか。鵜殿長照は今川氏の武将鵜殿長持の嫡男で、桶狭間の戦いのとき大高城の城代で、この城に兵糧を運びいれたのが松平元康(後の家康)。桶狭間の戦いの後も今川方に属していた長照は松平勢と争い、永禄五年(1562)、家康勢に長照の上ノ郷城を攻められ落城、長照は討死、長照子の氏長と氏次は捕らえ、その後、駿府に送られていた家康の室築山殿と子信康との人質の交換となった。

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