八戸にウニを目当てに行った。八戸駅に4時間掛かって12時前に着く。宿に荷物を置いて1日運行9本の八戸線本八戸駅から種差海岸駅に向かう。青森県は弘前を中心とした津軽、半島部の下北、三八上北に三分している。幕末は盛岡藩領、弘前藩領と二分し、明治初期には斗南藩が立藩した。
八戸は東南部馬淵川下流三角州にある。八戸駅から本八戸駅まで5・6kとかなり離れている。街中、アップダウンがない割には、側溝の水量が多く、流れの速さに驚く。本八戸駅前に八戸城本丸跡で三八城公園があった。以前、八戸駅に来た時、駅の近くに根城跡という史跡があった。小さな町に城跡が二つもあって驚いたが、根城南部氏、八戸南部氏の城跡で、何れも南部一族(盛岡南部氏)だという。途中、ウミネコの繁殖地でもあり蕪島にある蕪嶋神社は2015年に焼失し、現在、20年春の一般公開を目指して社殿再建中で周りを幌で覆われていた。
お目当ては種差海岸にある波光食堂。種差海岸駅に降りてビックリした。駅前の商店はすべてシャッターが降りていて人の気配が全く感じられないゴーストタウンみたいなところだった。駅前の郵便局で風景印を貰う。その先に車が何台か止めてある飲食店が見えた。若い人が暖簾を潜ったらすぐ出てきた。かなり混んでそうなので、先に昭和12年に国の名勝として指定された種差海岸を見に行くことにした。
種差の地名はアイヌ語の、長い岬「タンネエサシ」から来ているという説が有力だという。文化庁の解説文によれば「八戸市ノ太平洋ニ面スル東海岸ニ在リ海■ニハ堅キ安山岩及其ノ角礫岩ヨリ成レル大小無數ノ危岩怪岩參差トシテ横ハリ海岸線ノ出入亦頗ル變化ニ富ミテ或ハ怒濤狂瀾ノ激スル釜ノ口、繩掛岩、白島、高岩、辨天崎等ノ岩角島嶼トナリ或ハ日沙ニ磯浪ノ打寄スル種差大須賀深久保等ノ沙濱トナリ火山灰ニ掩ハレタル背面ノ斜面ハ軟草地ニ敷キ鈴蘭、磯百合、■瑰、濱菊等ノ美花點ジ又うみねこ多數渡來シテ大ニ景致ヲ添フ」とある。残念ながら花の季節ではなかったのか、モグラの穴とタンポポぐらいしか花が咲いていなかった。天然芝の自生地で名勝に指定されているのかと思ったら、海岸に横たわる大小無數の危岩怪岩と磯浪が怒濤狂瀾と打寄せる沙濱が対象だという。火山灰に掩はれたる斜面と火山岩は1億3千年前ごろの大規模な海底火山の活動によってできた蕪島と同じ時期なのか、現在でも活火山である十和田火山によるものか、どの噴火によるものか不明だが、延喜十五年(915)の十和田火山の噴火は,過去2千年の間に日本で起こった噴火のなかで最大規模だという。十和田火山と八戸の距離は約50k、火砕流だと時速100kにもなるという。30分で覆われてしまうことになる。噴煙をあげている箱根大涌谷から自宅までわずか13k、恐ろしくなる。時間を潰してから波光食堂に行く。
テーブルと奥に座敷がある。食事は終わっている6、7人のグループが二組いて、お互い、ほかのグループに負けないよう、怒鳴り合うようにしゃべっている。聞いているとそれぞれ他の人の話を全く聞いておらず、一人終わると全く関係ない話を始める。やっと勘定になった。一人ずつ支払いだという。始めの人が、「なに食べたっけ、アハハ」だって。屈託なく元気なのが羨ましい。
京都渉成園から西に真っすぐ進むと烏丸通にぶつかり、正面に東本願寺御影堂門が見える。
お東さんとも呼ばれる真宗大谷派東本願寺の正式名称は真宗本廟、お西さんの浄土宗本願寺派西本願寺は龍谷山本願寺という。大谷大学は東本願寺の学寮、龍谷大学は西本願寺の学寮がそれぞれの母体だという。古来、浄土教系の宗派を広く一向宗と呼んだ経過もあり、一向衆による一向一揆、時宗と、一向宗ふくめての宗名論争もあって宗徒でもないと、どこがどう異なるのか判別するのが難しい。織田信長と本願寺第十一世顕如が石山本願寺で戦った石山合戦で天正八年(1580)和議が成立したが、顕如長男教如は抗戦を続け、顕如と対立した。顕如の後を一旦は教如が引きついたが、豊臣秀吉により隠退処分をうけ、顕如三男准如に宗主を譲らされた。秀吉の死後、徳川家康に土地の寄進を受けた教如は慶長九年(1604)、御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。以後、東本願寺は徳川幕府との結びつきが強くなった。
鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍は東本願寺派御坊をたどり当時、南大阪にあった会津領を目指したのではないだろうか。そこから親藩である和歌山藩を頼ったが受け入れられず、結局、秘密裏に和歌山加太から船で関東に逃れている。一度は東・西の本願寺を訪ねなければと思いつつ、いつも素通りだったので今回、初めて訪ねた。
東本願寺は江戸時代、四度の火災に見舞われお堂は国宝指定されていないが、西本願寺は御影堂、阿弥陀堂、飛雲閣、書院、唐門など建造物が国宝指定されている。雨も降っていたせいか東本願寺には参拝者も少なく、ひっそりとした境内が広く感じる。昭和の換地処分地積では東本願寺が二万二千五百九十七坪、西本願寺が三万三千八百五十二坪と京都のお寺さんの中では大きい方で、因みに京都では仁和寺の処分地積十四万九千坪が一番の広さだった。国宝に指定されている唐門は、本願寺唐門、豊国神社唐門、大徳寺唐門の三件だけで、本願寺唐門は昨年、昭和58年(1983)以来34年ぶりに開けられたという。この門は、その見事さに日の暮れるのも忘れると云うことから「日暮の門」とも呼ばれ、伏見城の遺構とも伝わるという。この唐門へは、大学のキャンパスみたいな所を通って行った。龍谷大が此処にあるのをしらなかった。文学部だという。少し学生を眺めていようと思ったが、大学のガードマンがこちらをみているので止めた。
昭和8年、日本を訪れ3年間滞在して日本各地を回り、桂離宮を褒めたたえ、日光東照宮を酷評したドイツの建築家ブルーノ・タウトが本願寺唐門を見て、何と言うだろうか。江戸幕府から明治政府に政治機構が変われば、前時代に評価の高かったものも評価を下げる。絢爛の反対は質素である。タウトが来日した1933年はナチスが政権を握った年でもある。タウトはナチス政権への恐れからか独裁的な政治的権力者にたいする嫌悪感が強く、独裁時代の価値観の否定からその美意識も否定するのではないだろうか。日本と西洋では宗教観や死生観、自然に対する意識の違いもあり、歴史的伝統と価値観、伝統の基盤・原点をどこに置くかでも美的感覚は異なる。素人は精巧な職人の造形と艶やかさに庭園とは別の驚きを持つ。残念だったのは西本願寺唐門を訪ねた時は、雨がザーザー降りで、色彩豊かな建築物を見るときは真っ青な空の時に見たかった。
京都駅中央口(烏丸口)から歩いて10分ほどにある渉成園は真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地にあり、御本山の御別邸にて、周囲にカラタチ(枳殻)が植えられていたことから、世の人これを枳殻(きこく)御殿と呼び、また御本山の正東にあり東殿と呼んでいた。タクシーで渉成園へと云ったら知らなかった。東本願寺の枳殻邸で始めて場所か通じた。京都の人は枳殻邸のほうが通りがよいのだろうか。
現在地は徳川家光から東本願寺第十三代宣如上人に寄進され、その隠居所とした。安政五年(1858)の火災、元治元年(1864)の蛤御門の変で焼失し、現存のものはすべて明治以降に再興されたという。入口に「一人500円以上の庭園維持寄付金をお願いしています」とある。入園料ではなく寄付金としたところが観光京都の知恵の凄いところだと感心する。頂いたパンフレットというか、豪華な小雑誌「渉成園」に案内のある、園内十三景と諸建築、名物・景物の場所を見てから園内を廻らないとこの庭園の良さが理解できないかも知れない。そもそも渉成園十三景なるものを知らないで廻ったのが失敗だった。この十三景が何時頃から言われ出したかはっきりしないみたいだが、文化十年(1813)、源之凞が「渉成園十三勝」を詠じた。文政十年(1827)、ここを訪れた頼山陽が「渉成園記」に渉成園十三景を記載し、渉成園の名が世に知れ渡るようになった。入口にあった園内案内図に頼山陽は廻ったと思われる順番(①滴翠軒 ②傍花閣 ③印月池 ④臥龍堂 ⑤五松塢(塢は小さい土手の意)⑥侵雪橋 ⑦縮遠亭 ⑧紫藤岸 ⑨偶仙楼 ⑩双梅檐 ⑪漱枕居 ⑫回棹廊 ⑬丹楓渓)に番号を付けてみた。③④⑤は印月池の西岸から眺め、⑦から⑧を見て、⑪から舟で北の⑫の船着場向かっている。⑨偶仙楼は再建されておらず、印月池に浮かぶ南大島の④臥龍堂は小さな鐘楼堂のことを指し、現在は礎石が残るだけだという。
① ②
③ ④
⑤中央侵雪橋の右側 ⑥
⑪
⑫
昭和11年(1936)に「江戸時代初期庭園ノ特色顯著ナルモノ」で著名なる庭園として国の名勝に指定されている。
園内に虚子らの句碑があった。 右、大谷句佛の句碑
勿躰なや祖師ㇵかみこ(紙衣)の九十年
名勝と言われる日本庭園を綺麗だとは思うが、日本庭園に対する理解度が低いせいか、庭園は日本美の典型の一つと言われても、世界一周したわけでもないので他国と比べようもない。各地の名園を訪ねても、綺麗で金を掛けているなと思うが、その良さがよくわからない。時代、時代の造園の思想があり特色が現れるのは当然だし、時代の特色顯著だとしても、古ければ古いほど樹木の成長や枯死による庭の変化、周囲の環境の変化で背景を失い、災害による変化などで日本庭園の本来の主張が少しずつ崩れているのではないだろうか。自然の縮写で小さな自然を大自然と連想させ、自然の美しさ追及するのであれば、自然そのものに立ち会ったほうが感動する。京都は公園を除いた名勝に指定された庭園が26件(個人、団体、法人所有含)と他県と比べてダントツに多い。お寺の庭園が多いのは当然だとは思うが、何故、お寺に庭園が必要だったのだろうか。丸、三角、四角の前で瞑想していては駄目なのだろうか。この辺が理解できないと、どんな名園をみても感動し、その良さを感じる事ができないのだろうか。
栖賢寺と蓮華寺に挟まれて崇道神社がある。参道入口の社標は崇導神社となっていた。入口の京都市の神社説明文は崇道神社となっていたが鳥居の扁額は崇導神社となっている。天皇の諡号に気を使って文字を変えたのかと思ったが京都府神社庁が包括している名称は崇道神社だった。気になったので家に帰って道と導との違いをネットで調べたら「魔道士と魔導士の違いを教えて」というのがあった。ベストアンサーが合っているかは別として、なるほどと感心する。崇道神社と崇導神社の違いも何か深い理由があったのだろうか。
入口の鳥居から本殿まで約100m、鬱蒼とした参道が真っすぐ本殿に向かう。ここは昔、高野社と呼ばれていた。都名所図会に「祭神早良親王、又高野の御霊と称す。土人生土神となす」、「神祇拾遺に云、八所御霊の内崇道天皇山城国高野御霊云々」とある。早良親王は桓武天皇の弟で、桓武天皇の平城京から長岡京遷都責任者の藤原種継が殺された事件の黒幕として乙訓寺に幽閉され、延暦四年(785)、淡路島への流罪途中で憤死した。桓武天皇は早良親王の怨念を恐れ、慰撫するため、延暦十九年(800)に崇道天皇と追称した。社伝では貞観年間(859~877)に創祀されたものという。神職のいない大きな神社で人の気配をまったく感じないと何か不気味な雰囲気になる。
慶長十八年(1613)、この神社の裏山で金銅製の墓誌が発見された。昭和三十六年、金銅小野毛人墓誌として国宝に指定された。
江戸中期の儒者伊藤東涯の随筆「盍簪録」(かっしんろく)に「睿山之西趾有高野村、亦云小野、其東山頂踏之鏗々有声、慶長中、為盗所発乃遇、石槨内有鍮版一枚、長一尺九寸九分、濶一寸九分、有款曰、飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上、背刻曰、小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬、凡四十八字」とある。人が踏むと響く所があり慶長十八年(1613)、村人高村政重が偶々、そこを掘って石棺の中に金牌一枚を見つけた。祟りを恐れてまた元の石棺に収めたが、延宝元年(1673)に銅製墓誌函が作られ、元禄十年(1697)に再び埋納され、明治二十八年、盗難に遭ったが戻され旧地に収められた。大正三年に保存管理のため再び発掘された。現在、京都国立博物館に保管されている。小野毛人は続日本紀和銅七年(714)の項に「中納言従三位小野朝臣毛野薨、小治田朝大徳冠妹子之孫、小錦中毛人之子也」とあり小治田朝とは推古の號で、墓誌にある飛鳥浄御原宮治天下天皇とは天武天皇のことだと云う。小野毛人が葬られたのは丁丑年とあり、これは天武六年(677)と考えられている。朝臣の姓(カバネ)は天武十三年(684)で、朝臣姓を小野氏含めて五十二氏が賜った。毛人(えみし)が葬られた時にはまだ朝臣姓は制定されておらず、また大錦上、小錦中の位は天智三年(664)、冠位二十六階で制定された。続紀では毛人の冠位が小錦中、墓誌では大錦上と格が上がっている。続紀より墓誌の年代が古いのに格が上になっている。この墓誌は何時作られたのだろうか。
大正四年(1915)、近隣の出雲郷雲上里産生神の出雲高野神社、出雲郷の農業神を祀る伊多太神社、小野神社の三社が、高野村惣社である崇道神社に合祀された。