大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

伊勢原 大慈寺太田道灌首塚

2020-03-11 | 掃苔

大慈寺は新編相模国風土記稿に「法飴山ト号ス、開山覚智、中興開山東勝、中興開基太田道灌(文明十八年七月廿六日卒、法名大慈寺心圓道灌、按ズルニ此寺号ヲ称スルハ当寺ノミニテ上村、洞昌院及系譜等皆洞昌院ヲ号トス)ナリ。按ズルニ先住東陽ガ詩文中遺稿中ニ當寺小鐘ノ序銘アリ、是ニ拠レバ古ハ鎌倉ニ在シテ道灌コノ地ニ移シテ再興シ其叔父周厳ヲ請ジテ中興開祖セシナリ」とある。道灌墓は大慈寺の横を流れる小川に沿って100m位のところにある。


同じく道灌墓は風土記稿に「村西白田中ニ在、五輪塔三基(中央一基は長四尺、左右ノ二基ハ少ク低シ)並ブ。中央ノ一基、則チ道灌ノ印ナリ(左右二基ハ詳ナラズ)傍ニ榎ノ大樹(囲八尺六寸)立リ。毎年七月太田氏ヨリ禮奠アリ。大慈寺持」とある。散歩していた人に小川の名を聞くと渋田川だという。道灌の墓が二基ある事を尋ねると、上糟屋で殺された道灌の首を家人が川に隠したのが下糟屋に流れついて、祀ったのだという。何となく辻褄は合っている。道灌墓は緊急避難場所にも指定されているみたいで広場の端にポツンとあった。 



自慢するわけではないが、太田道灌についてあまり知らない。山吹の一枝の話と下剋上を恐れた主君に殺されたことぐらいである。山吹の話は江戸中期の逸話集、常山紀談は「七重八重花はさけどもやまぶきのみのひとつだになきぞ悲しき」と載せている。元歌は後拾遺和歌抄の一首、醍醐天皇の皇子、兼明親王の作「ななえやえはなはさけども山ぶきのみのひとつだになきぞあやしき」の結句、「あやしき」を「悲しき」に変えている。東尚胤著の「頼山陽」に山吹の一枝の逸話の漢詩「弧鞍避雨入芽茨 少女贈吾花一枝 少女不言花不語 英雄心緒乱如絲」が載っていた。「少女言はず、花語らず」というフレーズは何処かで使いたくなるような美しい言葉だと思う。また、新渡戸稲造著(矢内原忠雄訳・岩波文庫)、「武士道」の勇・敢為堅忍の精神で「危険もしくは死の脅威に面しても沈着を失わざる者、例えば差し迫る危険のもとに詩を誦み、死に直面して歌を吟ずる者、かかる人は真に偉大なる人物として吾人の賞嘆するところであり」として、信ずべき史実として伝えられるところによれば、江戸城の創建者たる太田道灌が槍にて刺された時、彼の歌を好むを知れる刺客は、刺しながら次のごとく上の句をよんだ、「かかる時さこそ生命の惜しからめ」、これを聞いてまさに息絶えんとする英雄は、脇に受けたる致命傷にも少しもひるまず「かねてなき身と思いしらずば」と下の句をつづけた。太田道灌を死に直面しても沈着を失わない者の例として取り上げている。新渡戸稲造が信ずべき史実としたのはどんな資料だったのだろうか。そういえば岡谷繁実編纂、百九十二名の人物列伝「名将言行録」に太田道灌、死に臨み和歌を詠ず、其歌曰、「昨日まで まくめうしわを 入れ置きし へむなし袋 いま破りけむ」と辞世の句を載せている。この話もどこから引っ張ってきたのだろうか。辞世の句が何首もあっては困る。絶命の時に叫んだと言われる「当方滅亡」が短くて最後の言葉としてはまだ良いような気がするのだが。

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