昭和十八年六月十七日 郡寛四郎 八十六歳
昭和十八年六月二十日に執り行なわれた郡寛四郎告別式当日、若松市長高山輝義に
よる弔詞が朗読され、会津史談会報二十四号にその全文が記載されていた。
吊詞
茲に郡寛四郎翁ノ葬儀ニ列シ謹ンデ翁ノ英霊ニ告ス
翁ハ会津藩ノ家老萱野権兵衛長修氏ノ三男ニシテ厳父ハ戊辰戦役ノ責ヲ身ニ負ヒ藩侯ニ代リテ自刃セラレタル人又令兄長正君ハ九州豊津ニ於テ会津士道ノ面目ノ為メ十五歳ノ少年ヲ以テ潔ク割腹萬丈ノ気ヲ吐キタル人ナルハ世間周知ノコトニシテ武士亀鑑トシテ萬人ノ讃歎景仰措カザル所ナリ 翁ハ会津ノ名門ニ生レ此ノ尊キ血ヲ稟ケテ人トナリ戊辰戦乱ノ際ハ漸ク十一歳ノ幼年ニ過ギザリシガ所詮国破レ家亡ビ具サニ辛酸ヲ嘗メテ成長セラル後東京ニ出デ旧幕臣石渡家ニ寄寓シテ東京高等商船学校ニ学ビ第一回卒業生タルノ栄冠ヲ得直チニ三菱汽船会社ニ入リ始メテ活躍ノ首途ニ上ラル其後会社ハ合併シテ日本郵船株式会社トナリ大正六年七月職辞スルニ至ル迄實ニ二十有六年其間内外航路ノ運航ニ當リ日清日露ノ両役ヲハ始メ幾多重要任務ヲ遂行シ勲五等雙光旭日章ヲ賜リ又従軍徽章記念章等名誉ノ記章表彰ヲ受ヶラレタルコト頗ル多シ 大正十四年功成リ名遂ヶテ故山会津ニ帰リ自適ノ生活ヲナシ居ラレシニ一朝二豎ノ冐ス所トナリ遂ニ八十六歳ヲ一期トシテ溘焉長逝セラレシハ哀悼痛惜洵ニ惜カサル所ナリ 翁ヤ資性剛直廉正真ニ会津武士ノ典型ニシテ戊辰当時唯一ノ生存者トシテ市民一同ノ敬仰スル所ナリシニ今突如翁ヲ失フハ實ニ寂寞ノ至ニ堪ヘズ然レトモ翁ガ人トナリシ変乱ノ往時ヲ顧ミ今昔聖代ニ於ケル松平御一門ノ御繁栄ヲ始メ今日ノ現状ヲ見レバ今昔ノ感深キモノアリ翁又以テ之ヲ慶福シ瞑スルニ足ルモノアラン我等後進亦益々奮励努力邦家ノ為メニ奉公ノ誠ヲ效シ併セテ郷党ノ為メニ盡瘁センコトヲ期ス茲ニ御冥福ヲ祈リ蕪辞ヲ呈シテ弔辞トス 昭和十八年六月二十日若松市長 高山輝義
ここに出てくる旧幕臣石渡家とは枢密顧問官を勤めた石渡 敏一の父、石渡栄治郎の
家で郡家との結びつきは分からないが寛四郎十四歳の時にこの家に寄宿している。
石渡家は代々武右衛門を名乗り、御船手組に属し、選抜され長崎で航海術を学び、
幕府海軍で勝安房にも認められ、軍艦の長にも栄進した。明治になって栄治郎は郵便
汽船会社を創立している。明治五年、寛四郎はこの会社の蒸気船妊婦丸に乗組んだ。
ちなみにこの会社持船の成妙丸が後に三菱商船学校の練習船となっている。
栄治郎に見込まれた郡寛四郎は栄治郎の娘、登美と結婚している。登美の姉の釜は
三菱商船学校幹事から教授となり校長代理まで務めた松山温徳と結婚、長女錫は
教育者の鈴木耕水に嫁ぎ六男の虎彦は郡寛四郎の養子に入っている。栄治郎は
郵便蒸気会社が三菱に正式に合併される二ヶ月前に亡くなったが、旧会津藩士や
その子弟が三菱商船学校や三菱社に多く入っているのも、この石渡家との関係が
大きく影響したものと思われる。
東京白金興禅寺、会津善龍寺の郡家墓碑、
萱野家・郡家の家紋「くくり菱紋(括菱紋)」
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