大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

三島の名号塔

2021-04-30 | 東海道沿線

静岡の三島駅北口から真北約1.5kにある耳石神社にいった。

耳石神社は幸原地区の氏神で祭神は国狭槌尊、三嶋大社西側を北に甲州に向かう佐野街道の三島幸原より裾野伊豆島田に至る旧道に面し、耳病を治す神社として古くから知られている。

社殿の左右に石が置かれていて、向かって左側が古くからある耳石で、右側の石はバランスを取るために祀られ、三島の七石と呼ばれる石の一つだという。耳石はかなり大きな石で、富士山の爆発で飛んできたのだろうか。この神社には唯念の六字名号を探しに来た。本殿の後ろに馬頭観音を始め色々な石仏や墓石が並んでいた。

唯念六字名号塔

覚誉上人碑があった。

右 小田原の誓願寺本堂横の寛文五年(1665)建立の笠付行蓮社覚誉上人名号塔

石仏は明治になってからの神社合祀により一か所に集められたのだろうか。神社の鳥居に変わったしめ縄がかかっていた。棒状のしめ縄を初めてみた。耳石にかけてあったしめ縄は普通のヨリ(左綯い)で作ってあった。

境内に枯れたような大きな幹のスダジイの御神木があった。

御神木に静岡県神社庁の認定証の発行があるとは知らなかった。

三島駅に戻り、北口にあるという木食観正碑を探す。駅前にそれらしき碑はなかったが、google地図に、新幹線沿い約300m西側に小浜山刑場供養碑とあり、刑務所の塀沿いの道みたいな所を進むと四基の石碑があった。

右から南無妙法蓮華経(王澤日遥?)の題目塔、名号塔、妙法蓮華経碑、木食観正碑
 


市の説明に「「この石碑は、江戸時代三島代官所小浜山刑場で斬首の刑を執行したところに建てられていた供養碑である。刑場は宝暦九年、韮山代官所の併合の後も幕末に至るまでそのまま使用され、その後は葬祭場ができるまで火葬場としてその姿をとどめていた。供養碑は昭和四四年東海道新幹線三島駅の建設現場に当たり現在地に移転したものである。なお、旧位置は南方約40mの新幹線下り走行線付近と推定される」とあり、処刑場は幕末まで使用され、明治に入って跡地は一時期火葬場として使用されたという。木食観正は天明四年(1784)、三十歳で剃髪して仏門に入り、雨乞い、火伏せ、病気平癒などの、庶民の現世利益の要求に応える加持祈祷の行で、多くの信者を集めた。木食観正が三島に滞在したのは、文政二年(1819)の事だという。小浜山刑場の供養碑として木食観正碑が元から在ったのだろうか。

小浜山は富士山噴火の時、流れ出た溶岩流の末端の高まり部分で、三島駅の南側にある旧小松宮彰仁親王別邸の所有者が転々とした後、三島市が購入、公園となっている楽寿園から北口の三島北高校付近までを小浜山と言ったという。楽寿園の中に江戸時代に完成した数奇屋造りの様式を備え、京風建築のすぐれた手法を現在に伝える明治期の代表的な建造物の楽寿館がある。以前にこの建物の中で家人が敷居に足を突っ掛け、国宝級の襖を破きそうになって、冷や汗をかいた。しばらくの間、三島には立ち寄らなかった。楽寿園の南側、「小浜のみち」通りにある木食観正之碑を訪ねた。

昭和四十八年とある木食観正上人碑護持会の説明板に「過ぐる日偶然一部壊れた碑を発見、茲に、有志相計って再建安置し云々」とある。惜しいのは、何時、何所で、どのようにして見つけたのか、何も表示されていないのが残念だった。

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小田原の六字名号塔

2021-04-23 | 小田原

関本の龍福寺にあった徳本六字名号塔は小田原では数が少ない。慶応三年(1867)、徳本五十回忌に刊行された知恩院七十六世、増上寺七十世で初代浄土宗管長に就任した行誠の編纂「徳本行者伝」によると、諱は徳本、号は名蓮社誉弥阿弥。宝暦八年(1758)、紀州日高郡志賀庄久志の生まれだという。唯念が寛政元年(1789)生まれなので、約三十年の開きがある。徳本行者は江戸後期の代表的な捨世派(念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達の総称)念仏聖で文政元年(1818)、六十一歳小石川の一行院で亡くなっている。ちょうど唯念が恐山や羽前の月山、湯殿山、羽黒山を登り修行していた頃である。享和三年(1803)、四十六歳で初めて関東下向。文化十一年(1811)、増上寺称誉典海の招請を受け関東に下向する。十一代将軍家斉実母慈徳院の御悩を平療、江戸でも評判は高く、以後、文化十四年に至るまで、関東諸国の各地を廻っている。文化十一年秋、巡教遊化のため伊豆相模を巡り、小田原の心光寺を訪れている。

心光寺門前の徳本六字名号塔

心光寺は新編相模風土記稿に「月窓山護念院と号す。浄土宗京都知恩院末、文安元年(1444)僧門栄起立す(松蓮社貞誉と号す)、當寺元は小田原古新宿町(山王川右岸海寄り)に在り、寛永七年(1630)回録の後、当所へ移れり」とある。この心光寺門前に徳本六字名号塔があった。中世以降の浄土宗では宗門における長老、学頭などの指導者を能化者と呼び、この能化者が何々蓮社という法号を用いるようになり、蓮社号は浄土念仏実践の団体・信者を蓮社と呼んでいる。増上寺、弘経寺、鎌倉光明寺六十世を経て、元文三年(1738)、知恩院四十九代住職に就いた称誉は号を名蓮社称誉円阿としている。小田原では唯念六字名号塔が多い。気が付かなかったのか徳本六字名号塔は少なく、国府津より西大友に至り、曽我、金子、などを経て十文字の渡(酒匂川と川音川合流附近)を渡り古田島、千津嶋、怒田、苅野を通り矢倉沢関所前の矢倉沢往還道に合流する甲州古道に面した小田原梅林の中心地の曽我にある東光院の門前に徳本六字名号塔がある。


東光院は風土記稿に「瑠璃山南谷寺と号す、古義真言宗(国府津村宝金剛寺末)、古は剱澤川の東に在しが(旧地は陸田を開き寺畑と字す)文禄二年中興恵誉今の地に移すと云」とある。現在は真言宗の宗派のひとつ、清荒神清澄寺を大本山とする真言三宝宗のお寺です。参道に笠付六角柱の六面地蔵があった。

六面地蔵はどこかで見たことが在ったが思い出せなくて、10年分のお寺の石仏の写真を見返しても分からなかったが、小田原藩の処刑地だった北條稲荷神社近くに行ったとき、扇町にある小田原藩のもう一つの処刑地跡に建立された地蔵が六面地蔵だったのを思い出した。

小田原 扇町

秀学六字名号塔については手持ちの写真を見直したらいくつか有った。
東町の昌福院門前(安政六年:1859)、


上多古公園内(安政五年:1858)の秀学六字名号塔と石仏群

小田原、山北には
秀学、行幹、祐天、覚誉などの六字名号塔が残っている。

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唯念名号塔

2021-04-16 | その他

最近、養老孟司著の「死の壁」を読んだ。序章の「バカの壁」の向こう側で、人生でただ一つ確実なことは「死ぬこと」だという。また、「人間は変化しつづけるものだし、情報は変わらないものである。というのが本来の性質です。ところがこれを逆に考えるようになったのが近代だ」という。「私は私という思い込みが強くなると「変わった部分は本当の自分ではない」という言い訳が成り立ち、あの時の自分は本当の自分ではなかった」という論理が展開できるようになる。なるほどと思うが、凡人は情報が無いと不安になる。死んだ後の自分自身の情報は当然であるが本人には全く分からない。死という結末は解っていてもそのあとが気になる。そんな折、南足柄市にある足柄道を歩いた。バス便もなく、タクシーの配車も断わられ、仕方なく歩かざるを得なかった。小一時間、歩いて出会ったのは女性1人と庭から外を眺めていた年寄1人だけだったが、それ以上に出会ったのが野仏、石仏、路傍神などの多くの石造物で、なかでも気になったのが「南無阿弥陀仏」の六字名号塔。「南無阿弥陀仏」は、どんな人でも救うのが阿弥陀如来の願いだという。「南無阿弥陀仏」の念仏で救われるならば、蜘蛛の糸にすがらなくて済むかなと都合の良いことを考えたりもする。名号とは辞典によると仏陀や菩薩の称号をさすとある。「南無阿弥陀仏」の六文字を阿弥陀如来の名号だという。「南無不可思議光如来」の九字名号、「帰命盡十方無礙光如来」の十字名号もあるというが、残念ながらまだ見たことがない。六字名号塔があるのを知ったのが小田原に転居してからで、今まで九字名号、十字名号を見ても気が付かなかったのかも知れない。足柄古道を歩いてみて、南足柄の弘済寺へ入る小道にある唯念名号塔と関本の龍福寺境内にある名号塔との文字の書体が異なるのに気が付いた。
足柄弘西寺(地名)の唯念六字名号塔と花押

関本龍善寺の
徳本六字名号塔と花押

それまで名号の書体はみな同じだと思っていた。今まで撮った写真を見直してみた。唯念、徳本、秀学、裕天と結構、出てきた。唯念、秀学については殆ど史料が残っていない。秀学についてはどこの誰だか全く分からなかった。唯念の念仏講の信者によって建てられたのが唯念六字名号塔だという。
伊豆修善寺と小田原曽我別所の唯念名号塔

小田原東町昌福院と伊豆河津称念寺前の唯念名号塔

明治十六年発行、垂水良運編纂「明治往生傳」によると、唯念行者は肥後国八代郡の生まれで、文化三年(1806)十七歳の時、下総行徳村徳願寺誓誉弁端和上より剃髪染衣し受戒、弟子となった。布教活動のため諸国行脚し、文政年間に武州高尾山、富士山に登り念佛修行し、天保四年(1833)より再び、富士山の麓奥ノ沢にて草庵を結び、籠居念仏を行う。明治七年(1874)静岡県庁の特薦に依り教部省より新たに滝沢寺の号を賜い、駿河国駿東郡御厨上野村奥ノ沢の瀧澤寺開基師となり、明治十一年内務省より、龍澤山唯念寺と号すべし指示があったという(現在地、駿東郡小山町上野)。 明治十三年八月、九十一歳で入寂、逆算すると寛政元年(1789)の生まれという事になる。駿東郡上野は酒匂川上流、鮎沢川のさらに上流の須川左岸にある。酒匂川流域の唯念の念仏講も多く、相模や駿河の活動地域の唯念六字名号塔が多く分布しているという。

 
小田原荻窪の市方神社境内、扇町足下神社前の唯念六字名号塔に何れも蓮華講中とあるので、小田原近辺の唯念の念仏講は蓮華講と呼ばれていたのかもしれない。

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