静岡駅の北口から麻機(あさばた)街道を北上、葵区大岩に駿河の戦国大名
今川氏の菩提寺で歴代当主の位牌が安置されている臨済寺がある。
元会津藩士林三郎惟純の菩提寺、静岡市沓谷の蓮永寺に寄ったあと
このお寺に行った。ここの仁王門の扁額「大龍山」が川慶喜の筆に
なると知ったのは、東京に戻ってからだった。
時代劇に出てきそうな石段を登ると「勅東海最初禅林」と扁額がある
国重要文化財の本堂が見えてくる。本堂の前の敷き詰められた白石が
目にしみる。
この本堂に通じる階段の途中に戊辰の東軍招魂之碑がある。
将軍、大坂城を奪われ江戸に逃帰り恭順して待つと書き、伏水での
戦いに敗れ、戦死者の祭祀を未だ出来ないでいるのを悲しみ、
寺島造酒之助が中心になって明治十八年三月、東軍死者之魂の碑を建立した。
この碑に出てくる名は寺島造酒之助、林繁樹、市川愛助の三名。
鎌田(寺島)造酒之助は元静岡藩士で、戊辰後小城藩預りで謹慎、
甲州の市川愛助は寺島氏の弟子。寺島氏が招魂之碑建立で相談したのが
甲州で共に修習生として学んだ林繁樹。この林繁樹ははっきりしないが、
伊豆の地方史によく出てくる会津藩士林繁樹ではないだろうか。
慶応年間会津藩士人名録に五百石御鉄砲物頭林繁樹として記載がある。
西伊豆松崎の大沢村戸長だった依田佐二平が自宅内に私塾大沢学舎を
設立したのが明治三年五月、この時教師に招いたのが旧会津藩士の
大島篤忠で同じ松崎で私塾を開いていた旧会津藩士林繁樹をも大沢学舎に
招き、のち林繁樹は公立小学校の教員となっている。
(明治13年に伊豆松崎に建てられた岩科学校)
戊辰後、西郷頼母、山口磐山、林繁樹、大島篤忠と旧会津藩士が西伊豆で
教壇に立っているが、いずれも元会津藩士で戊辰後、静岡藩士となった
林三郎惟純の手引きによるものではないだろうか。
東軍招魂之碑
戊辰之事一成一敗是非従生焉然審察其情有則未易遽
論者余尤悲其戦敗身死長為不祭之鬼者之志也顧當時
伏水啓□旧大将軍奪大阪城而東帰恭順待 命而諸思
幕府者所在挙兵以同回復事竟不成死之者数十百人矣
嗚咏徳川氏三百年之覇業一朝顛覆而欲維持之扮既墜
雖名分或錯然忠勇壮烈使人感奮興起視之彼臨危笱免
趨剰遺義之従天淵不啻也寺島造酒之助素仕幕府戊辰
国変戦而失右手後移静岡與林繁樹授徒甲州之学頃者
相謀将竪石於静岡大岩村臨済寺以招東軍死者之魂甲
之南巨摩郡有市川愛助者従学寺島氏慷慨好義聞二氏
之挙捐貲助之且乞余銘銘曰
七尺之身 殺以成仁 幾多志士 委骨戦塵
是非休論 維忠維存 駿有佳池 爰招厥魂
明治十八年三月十七日
駿河河島維観撰文 東京市河三兼并篆額
甲斐市川愛助建石 渡邊善一刻
今川氏の菩提寺で歴代当主の位牌が安置されている臨済寺がある。
元会津藩士林三郎惟純の菩提寺、静岡市沓谷の蓮永寺に寄ったあと
このお寺に行った。ここの仁王門の扁額「大龍山」が川慶喜の筆に
なると知ったのは、東京に戻ってからだった。
時代劇に出てきそうな石段を登ると「勅東海最初禅林」と扁額がある
国重要文化財の本堂が見えてくる。本堂の前の敷き詰められた白石が
目にしみる。
この本堂に通じる階段の途中に戊辰の東軍招魂之碑がある。
将軍、大坂城を奪われ江戸に逃帰り恭順して待つと書き、伏水での
戦いに敗れ、戦死者の祭祀を未だ出来ないでいるのを悲しみ、
寺島造酒之助が中心になって明治十八年三月、東軍死者之魂の碑を建立した。
この碑に出てくる名は寺島造酒之助、林繁樹、市川愛助の三名。
鎌田(寺島)造酒之助は元静岡藩士で、戊辰後小城藩預りで謹慎、
甲州の市川愛助は寺島氏の弟子。寺島氏が招魂之碑建立で相談したのが
甲州で共に修習生として学んだ林繁樹。この林繁樹ははっきりしないが、
伊豆の地方史によく出てくる会津藩士林繁樹ではないだろうか。
慶応年間会津藩士人名録に五百石御鉄砲物頭林繁樹として記載がある。
西伊豆松崎の大沢村戸長だった依田佐二平が自宅内に私塾大沢学舎を
設立したのが明治三年五月、この時教師に招いたのが旧会津藩士の
大島篤忠で同じ松崎で私塾を開いていた旧会津藩士林繁樹をも大沢学舎に
招き、のち林繁樹は公立小学校の教員となっている。
(明治13年に伊豆松崎に建てられた岩科学校)
戊辰後、西郷頼母、山口磐山、林繁樹、大島篤忠と旧会津藩士が西伊豆で
教壇に立っているが、いずれも元会津藩士で戊辰後、静岡藩士となった
林三郎惟純の手引きによるものではないだろうか。
東軍招魂之碑
戊辰之事一成一敗是非従生焉然審察其情有則未易遽
論者余尤悲其戦敗身死長為不祭之鬼者之志也顧當時
伏水啓□旧大将軍奪大阪城而東帰恭順待 命而諸思
幕府者所在挙兵以同回復事竟不成死之者数十百人矣
嗚咏徳川氏三百年之覇業一朝顛覆而欲維持之扮既墜
雖名分或錯然忠勇壮烈使人感奮興起視之彼臨危笱免
趨剰遺義之従天淵不啻也寺島造酒之助素仕幕府戊辰
国変戦而失右手後移静岡與林繁樹授徒甲州之学頃者
相謀将竪石於静岡大岩村臨済寺以招東軍死者之魂甲
之南巨摩郡有市川愛助者従学寺島氏慷慨好義聞二氏
之挙捐貲助之且乞余銘銘曰
七尺之身 殺以成仁 幾多志士 委骨戦塵
是非休論 維忠維存 駿有佳池 爰招厥魂
明治十八年三月十七日
駿河河島維観撰文 東京市河三兼并篆額
甲斐市川愛助建石 渡邊善一刻