大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

静岡臨済寺東軍招魂之碑

2010-09-30 | 會津
静岡駅の北口から麻機(あさばた)街道を北上、葵区大岩に駿河の戦国大名
今川氏の菩提寺で歴代当主の位牌が安置されている臨済寺がある。

 

元会津藩士林三郎惟純の菩提寺、静岡市沓谷の蓮永寺に寄ったあと
このお寺に行った。ここの仁王門の扁額「大龍山」が川慶喜の筆に
なると知ったのは、東京に戻ってからだった。

時代劇に出てきそうな石段を登ると「勅東海最初禅林」と扁額がある
国重要文化財の本堂が見えてくる。本堂の前の敷き詰められた白石が
目にしみる。



この本堂に通じる階段の途中に戊辰の東軍招魂之碑がある。
将軍、大坂城を奪われ江戸に逃帰り恭順して待つと書き、伏水での
戦いに敗れ、戦死者の祭祀を未だ出来ないでいるのを悲しみ、
寺島造酒之助が中心になって明治十八年三月、東軍死者之魂の碑を建立した。



この碑に出てくる名は寺島造酒之助、林繁樹、市川愛助の三名。
鎌田(寺島)造酒之助は元静岡藩士で、戊辰後小城藩預りで謹慎、
甲州の市川愛助は寺島氏の弟子。寺島氏が招魂之碑建立で相談したのが
甲州で共に修習生として学んだ林繁樹。この林繁樹ははっきりしないが、
伊豆の地方史によく出てくる会津藩士林繁樹ではないだろうか。
慶応年間会津藩士人名録に五百石御鉄砲物頭林繁樹として記載がある。

西伊豆松崎の大沢村戸長だった依田佐二平が自宅内に私塾大沢学舎を
設立したのが明治三年五月、この時教師に招いたのが旧会津藩士の
大島篤忠で同じ松崎で私塾を開いていた旧会津藩士林繁樹をも大沢学舎に
招き、のち林繁樹は公立小学校の教員となっている。

(明治13年に伊豆松崎に建てられた岩科学校)


戊辰後、西郷頼母、山口磐山、林繁樹、大島篤忠と旧会津藩士が西伊豆で
教壇に立っているが、いずれも元会津藩士で戊辰後、静岡藩士となった
林三郎惟純の手引きによるものではないだろうか。

東軍招魂之碑
戊辰之事一成一敗是非従生焉然審察其情有則未易遽
論者余尤悲其戦敗身死長為不祭之鬼者之志也顧當時
伏水啓□旧大将軍奪大阪城而東帰恭順待 命而諸思
幕府者所在挙兵以同回復事竟不成死之者数十百人矣
嗚咏徳川氏三百年之覇業一朝顛覆而欲維持之扮既墜
雖名分或錯然忠勇壮烈使人感奮興起視之彼臨危笱免
趨剰遺義之従天淵不啻也寺島造酒之助素仕幕府戊辰
国変戦而失右手後移静岡與林繁樹授徒甲州之学頃者
相謀将竪石於静岡大岩村臨済寺以招東軍死者之魂甲
之南巨摩郡有市川愛助者従学寺島氏慷慨好義聞二氏
之挙捐貲助之且乞余銘銘曰

 七尺之身 殺以成仁 幾多志士 委骨戦塵
 是非休論 維忠維存 駿有佳池 爰招厥魂
明治十八年三月十七日
  駿河河島維観撰文 東京市河三兼并篆額
  甲斐市川愛助建石    渡邊善一刻

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元会津藩士林三郎惟純

2010-09-18 | 會津
東京谷中の佛心寺にもと麹町にあった麹渓塾の松平慎斎一族の墓域がある。
慎斎は号、稱は謹次郎、名は義□(甬に戈)。昌平坂学問所書生寮に入るまで、
この麹渓書院で学んだのが会津藩士秋月悌次郎、のち、この麹渓塾の塾頭に
なったのが会津藩士の林三郎だった。



  

この佛心寺松平家の墓域から3・4mのところに林惟純(これずみ)
(明治廾九年三月卅一日歿)とその横に小さな林奇男(くしお)
(明治廾九年九月十八日歿)の墓碑がある。奇男は林惟純の長男で、
十五歳のとき東京で没している。

 

戊辰直前、京都で会藩の兵を訓練していたと自叙伝で述べている江原素六は、
幕臣で戊辰後、沼津兵学校の教授となり、のち、東京の麻布学園を創立者した。
「江原素六先生伝」の維新当時の話として「余は蟻川塾に在って、屢々麹町麹渓塾
に出入せり、其塾長に会藩人にして林三郎という極めて温厚篤實なる君子人あり、
京都及び諸藩の情報を得るに少なからざる便利を得たり」。

後年、専修大学初代学長となった彦根藩士相馬永胤は幕末ころ、父と
共に江戸定府の部屋住みであったという。その「相馬永胤伝」に、
「当時ノ余ノ希望ハ、大ニ和漢ノ書ヲ読ミ、広ク天下ノ士ニ交リ国家ノ為
メ、大々的活動ヲ為スニ在リタレハグズグズシテ藩邸内ニ居ルヲ好マズ、
父ノ快諾ヲ得サリシモ家庭ヲ出テ藩邸ヲ去リ、麹町六丁目谷ニ在リタル
教授所ニ入学スルコトニ決心セリ。此教授所ハ聖堂ノ分校ノ如キモノニテ、
松平謹次郎ト云漢学者カ担当セラレシ所ニテ、当時同人ハ死去セラレ、
名義上大嶋某ト云人カ教頭ナシドモ其実元会津藩士ニシテ、当時幕臣トナリタル
林三郎ト云人カ教務上ノ事ヲ担任シ居リタリ、此人ハ温厚徳実ノ漢学者ニテ、
又、勝安房ノ手下トナリ、幕府ノ為メ幕府ト会津トノ間ニ種々周旋ヲ為シ、
天下ノ事情ニ通シ居ラレタルヲ以テ、余ハ、此人ヲ信頼シ最初教授所ニ
寄宿セシモ後、同人ノ私塾ニ入リ教授所へハ通学セリ」と。

昭和63年、熊本大学に寄託された肥後細川家幕末維新期史料の調査が行われた。
主に江戸で入手した情報を書留めた「尊攘録 探索書元治元年 機密間」に
緊迫した会津藩の様子が出てくる。

元治元年四月二十九日聞取、秋月悌次郎より、諸侯帰国、幕府基本不立、
「諸藩ハ迚も幕府ハ頼ニ不被致云々」、「御威光衰へ候」と嘆息の話を聞く。
五月十三日聞取、大樹公帰府につき、会津藩歎息の事
六月十三日聞取、京都浪士召捕の件を会津藩より聞込。
六月十四日聞取、幕閣内紛を京に報ずるので、会津藩内部で異論があり、
今日迄使を出さず。
十月六日聞取、御進発御模様の儀、「今六日会津藩林三郎、竹本甲斐守様江罷出」、
これは、第一次長州征討で徳川 慶勝を長州へ進軍させた話だと思われ、林三郎が
会津藩公用方として活躍していた時期。

文久三年頃に勝海舟と会っていた会津藩士は公用方の小野権之丞、野村左兵衛、
松坂三内、大砲方御雇勤中沢帯刀。この頃、海舟門下だった坂本龍馬の名も頻繁に
出てくる。

海舟日記に林三郎の名がでてくるのは慶応二年(1866)になってから。
同年六月九日「会藩林三郎、尾州之水野彦三郎来る、西国之形勢且御所置を問う、
別ニ答ふる処あらす」と素っ気なく答えているが、同月二次長州征伐始まり、
廿二日井伊、榊原家大敗走にて、後筆にて関東決議甚不可を将軍江其理言上、
秘密之事也と筆を加えている。廿三、廿四日に海舟は会藩公用人手代木勝任に
愚存を伝え、廿五日船で京に着き、会家に一書を送っている。何を伝えたのだろう。

慶応四年、鳥羽伏見の戦いの直後、林三郎は秋月悌次郎、広沢富次郎を
伴って勝に会っている。明治二年正月四日には林三郎来訪とある。この
ときの江戸東京博物館史料叢書「勝海舟関係資料 海舟日記」の注には林惟純
(駿府藩使番幹事役附属)となっており、いつの間にか駿府藩に仕えていた。

戊辰後、旧幕臣で組織(会長榎本武揚)された「同方会」の会報に、
明治二年二月調の静岡藩職員録が載っていた。
幹事役 勝安房、幹事役附属 林三郎と記載があり、勝の手足となって
働いていたことがうかがえる。同時に記載のある寄合衆林又三郎の名の下に
惟純と書込みがなされていた。この事が、三郎が静岡学問所と関わりが
あるように勘違いしてしまった。

会津藩大砲隊長林権助の子も林又三郎、林 羅山の通称が又三郎、上野
忍ヶ岡に建てた学問所先聖殿はのちの昌平黌と発展したが、林又三郎
(学斎、諱昇。兄は林鶯渓)は林大学頭家の当主で、前田一郎著
「駿遠へ移住した徳川家臣団」によると林惟純の履歴は、慶応元年
昌平校大学頭、慶応四年江戸表寄合頭とあった。

昨年、西伊豆の旧会津藩士を調べた時、この林三郎と林又三郎の
職歴が混ざって混乱してしまった。林又三郎が会津院内の忠恭霊神
(八代容敬公)碑の撰文をした林昇と気が付いたにはだいぶ後の事だった。

明治三年三月末の静岡藩職員録に小島勤番組之頭、林又三郎。開業方藩政
補翼手ニ附可相勤候、林三郎と別々に記載があった。この時の藩政補翼が
山岡鉄太郎、軍事掛少参事が荏原素六、兵学校頭取が西 周、沼津病院医師
頭取が杉田玄白の義理の孫、杉田玄端であった。

明治二年七月、明治政府は神祇官を復活させ太政官よりも上位に置き、太政官の
下に民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の各省を設置し二官六省制とした。
神祇官の職掌は古代の神祇官元来の職務である祭祀、祝部などに加えて、
新たに諸陵と宣教が加えられた。
太政官公文録に静岡藩の教宣掛として林三郎として名が出てきたが、
静岡学問所の漢学教授としての林三郎の名は見つけることが出来なかった。

産経新聞コラム欄に記載があった林三郎惟純の履歴は、父は源太、
兄は大野原で戦死した林源治(源輔、三石二斗二人扶持二ノ寄合)。
三郎の妻忠子は松平謹次郎の娘、長男奇男から三男まで早世、
四男義人は松平家に養子、五男良材が林家を継承したという。

幕末に江戸や京都で活躍した秋月悌次郎や手代木勝任が会津では疎まれたと
同じように、幕末に活躍した林三郎のことも会津ではあまり知られていない。
やはり、西郷頼母と同じように恭順派だったのだろうか。

林三郎の死後、静岡に戻った林一族の墓域はお万の方の供養塔や勝海舟の
実母と妹のお墓がある静岡市沓谷の蓮永寺にあります。


林一族と 林惟純、室忠子の墓
 
コメント (13)
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上海交易 千歳丸

2010-09-13 | 會津
文久元年(1861)二月、幕府は外国通商貿易を試みるため
外国掛役人に派遣場所、船舶、人員等について問い合せをしている。

外国掛有司は評議の結果、交易の中心であった唐国上海が外国貿易の
模様其他探索の試みや実地商法の見聞に適しており、船舶については
所有の軍艦は今修復中であり商船を派遣し支那と通商条約を取結ぶ
ことを早く決定すべきとしている。

幕府は八月、長崎奉行に対して商船借入其他の段取りを指令した。

文久二年三月、幕府は外国船の傭船より購入を考え、三本マストの
木造帆船アーミスティース号を代金三万四千弗にて買い取り、
千歳丸と改め帆柱に日の丸を掲揚したという。

千歳丸は文久二年四月二十九日、長崎を五百七十二哩先の上海に向け
鎖国後、初の官貿易船として出帆した。

英人は船長ほか乗組員十三名と和蘭商人一名と日本人乗員は、
江戸役人五名、長崎会所役人三名、長崎地役人七名、長崎本商人三名、
従者十九名、従僕四名、賄方六名、水夫四名、計五十一名であった。

御勘定 根立助七郎、 従者(実は会津藩)林 三郎、
同(実は佐賀藩納富六郎左衛門養子)納富介次郎
調役並 沼津半次郎
従者 松本卯兵衛、 従者(実は佐賀藩足軽)深川長右衛門
支配勘定 金子兵吉
従者(実は尾州の人)日比野掬次  同(実は大阪の人)伊東郡八
御徒目附 鍋田三郎右衛門
従者(江戸の人)木村傳之助  同(実は井上河内守殿家来)名倉予何人
英学に付 中山右門太
従者(実は佐賀藩足軽)山崎卯兵衛  同(阿州の人)桜木源蔵
定役 中村良平  従僕 芳蔵
御小人目附 盬澤彦次郎     従者 中牟田倉之助
御小人目附 犬塚三郎     従者(実は長州藩)高杉晋作
吟味役並  森寅之助       従者 長蔵
唐小通詞  周恒十郎       従者 藤太郎
唐小通詞助 蔡善太郎       従者
蘭小通詞  岩瀬弥四郎      従者 岩瀬碩太郎
薬種目利頭取  渡辺與八郎    従者 傳次郎
筆者格   松田兵次郎      従者 卯市
医師  大村藩尾本公同      従者(実は大村藩)峯源蔵
商人 永井屋喜代助    従僕(実は江戸薬種屋越前屋)惣吉
商人 松屋伴吉     従者(実は不卜斎と云う細工人也)甚三郎
商人 鐡屋利助      従僕 佐吉
賄方
嘉市  吉蔵  嘉吉  善吉  清助  兵吉
水夫
(実は薩州藩五代才助)才蔵  (実は薩州藩船手之者)忠之進
八蔵  元次郎

寛永鎖国いらい始めて官船による貿易渡航に佐賀藩、薩州藩、大村藩、
長州藩、会津藩と多くの藩士が身分を変えて各自其々の目的で乗船していた。

佐賀藩士、中牟田倉之助伝で「閲し来って所感尠なからず。幕吏の
一行に雄才大略の人無きことは其一なり。何の所以なるかを知らず。
従者に各藩有為の士の多きことは其二なり。此行が重要視せられたりし
こと以て察すべきか」と初の官貿易船の乗員について述べている。

千歳丸の積荷のなかには会津産和人参二千五百近が含まれていたが、
上海における貿易は全て和蘭の貨物として和蘭領事館を通して行ったため、
荷の保管料や売買手数料、それに高い税金により貿易としては利益が
出なかったようだ。

会津藩士林三郎は長州藩高杉晋作、薩州藩五代才助、佐賀藩中牟田倉之助
たちと七月十四日に長崎に帰港するまで同行していたことになる。

このあと、慶応二年六月から会藩林三郎の名は勝海舟の「海舟日記」に
頻繁に出てくるようになる。戊辰後、静岡で西郷頼母など西伊豆に行った
旧会津藩士が会っていた林三郎がこの人だった。    (つづく)
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白虎隊士西川鉄次郎

2010-09-08 | 會津
静岡藩に関連するある会津藩士を探していて、斗南藩からの
留学生、白虎隊士西川鉄次郎が沼津兵学校附属小学校で
学んでいたことを知った。早速、沼津兵学校の蔵書が多い
沼津市明治史料館にいった。






沼津市明治史料館資料(通卷第75号)によれば、西川鉄次郎は
会津藩御書簡所物書六石五升二人扶持西川俊治(鐡之助)次男で
戊辰の戦いで白虎寄合二番隊に属して越後を転戦している。

戊辰後、明治二年正月九日十一日十三日若松を発し東京に
護送された旧会津藩士のなかに西川鐡次郎と兄彦太郎の名があった。
謹慎後の明治三年西川一家は斗南の下北郡田名部村に移住したが
鉄次郎は同年七月に静岡藩沼津兵学校附属小学校に留学している。

鉄次郎がどうゆう繋がりで静岡に留学できたかハッキリしないが、
西郷頼母、山口昌隆、大嶋篤忠が頼った元会津藩士で戊辰後、静岡藩に
召し抱えられた林三郎の力になるのかもしれない。

史料館資料によれば明治四年、大学南校に入り、同八年九月本科に進学
開成学校(大学南校の後身)で法学を学び、明治十一年七月、東京大学法学部
(開成学校の後身)を卒業している。

国立公文書館にその当時の記録が残っていた。
「卒業生ノ員数ハ法学科六人理学部科学科七人土木工学科三人合セテ
十六人ナリ乃チ前学年ヨリ多キ事十三人トス」「法学ニハ西川鐡次郎、
藤田隆三郎、河上謹一、畠山重明、野村□(鉨?)吉、本山正久、、、、
即チ皆能ク定期ノ過程ヲ履ミテ考試ヲ完ウセシモノナリ」
西川鐡次郎等卒業の後、東大法学部生徒数は全学年で三十六人だった。
(法学部三十六人、理学部百二人、文学部十九人、惣生徒数百五十七人)

この時(明治十一年七月之調)の東京大学物理学第一級受持教員に、
旧会津藩士山川健次郎がいる。地理学第四級受持教員に赤羽四郎の名が
あるが、同姓同名の旧会津藩士か、はっきりしない。

西川鐡次郎は卒業後、外務省に入り英国公使館書記生として赴任、その後
内務省に転出、文部省を経由して明治十八年判事に任官され、以後裁判官を
勤め、明治三十九年長崎控訴院長に任命されている。

「中央大学は1885(明治18)年7月、東京府神田錦町に、英吉利法律学校として
創立されました。創立者は、増島六一郎、高橋一勝、岡山兼吉、高橋健三、
岡村輝彦、山田喜之助、菊池武夫、西川鉄次郎、江木衷、磯部醇、藤田隆三郎、
土方寧、奥田義人、穂積陳重、合川正道、元田肇、渡辺安積、渋谷慥爾の18人の
少壮法律家たちでした…」と中央大学のサイトに記載があった。
東京府に提出された英吉利法律学校設置願の「本校設置ノ目的」では、
「邦語ニテ英吉利法律学ヲ教授シ、其実地応用ヲ習練セシムルニアリトス」とある。

この中に東大法学部第一回卒業生の白虎隊士西川鉄次郎と学年同期の藤田隆三郎が
加わっている。藤田隆三郎は西川鉄次郎が函館控訴院長同時代に名古屋控訴院長を
務めていた。出身校の創立者の一人が元白虎隊士だったとは驚いた。
コメント (2)
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