大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

函館 護国神社と南部藩士墓地

2023-03-04 | 掃苔

函館の官修墳墓がある函館護国神社に行った。


社殿向かって右奥にある官修墳墓は、五十六基の墓碑が三列に並び、その後ろに海軍墓碑一基、戊辰薩藩戦死者墓一基、松前藩個人墓一基がある。海軍墓碑は篆額に「明治戊辰己巳海軍戦死者弔碑」とあり、甲鉄艦、朝陽艦、春日艦、飛龍艦各艦の戦死者名が刻まれている。新政府軍は箱館戦争が終った明治二年五月、市内大森浜で招魂祭を行い、現在地に兵部省により招魂社が創建された。昭和14年3月、内務省令により函館招魂社は函館護國神社と改称された。戦後、一時「函館潮見丘神社」と改称されたが、昭和29年11月、社号が函館護國神社に復した。

鳥居の近くに高田屋嘉兵衛の弟・金兵衛が公共工事として市民に海中から引き揚げさせの庭石としていた巨石「亀石」の一部だという招魂場の碑があった。
舟見町にある旧官修墓地に向かう途中、函館山ロープウェイ山麓駅前の坂道が南部坂と書いてあった。


坂をすこし下ると石垣があり、超モダンなモニュメントが見えたので何だと思ったら、NHKの放送記念碑だった。碑に「JOJO、VKVK」と書いてある。説明に「JOVK、こちらは函館放送局」、VK発祥の地だとある。見方が間違っていた。「JOVK」は函館無線局の識別符号(コールサイン)だという。ちなみに「JOAK」は、NHK東京ラジオ第一放送のコールサインだそうです。その横に南部藩陣屋跡の説明板があった。


寛政十一年(1799)、幕府は松前藩より蝦夷地の支配権を取り上げ、直轄地とし、南部藩と津軽藩に箱館守備を命じた。翌年、伊能忠敬が蝦夷地を測量している。文政四年(1821年)、幕府は蝦夷地の直轄をとき、松前藩に支配権を戻し、南部藩と津軽藩の警備兵を撤収させた。寛政年中より文政五年六月の箱館引払まで松前、箱館、蝦夷地等場所にて病死、溺死、海上往来での死者など多くの犠牲者をだした。藩主は箱館高龍寺にて供養を行うため志村善右衞門・久慈市右衞門を遣わし、沙門偉運が誌し、侍臣立花勝視書の石碑を建て、弔ったという。舟見町の延命山地蔵寺前の外人墓地の隣に南部藩士の墓地がある。説明板に「寛政11(1799)年幕府は東蝦夷地を直轄地(5年後には西蝦夷地も)としてその経営に乗り出し、蝦夷地の警備を南部・津軽の両藩に命じた。両藩はそれぞれ500名ほどの藩士を派遣して警備に当たることとなった。南部藩は元陣屋を箱館に置き、根室、国後、択捉に勤番所を設け、その任に就いた。その後、文政4(1821)年に蝦夷地は松前藩に返還されたため、両藩士たちはそれぞれ帰藩したが、安政元(1854)年に再び蝦夷地が幕府の直轄地となると、再び東北の諸藩に蝦夷地の警備と開拓が命じられた。南部藩は箱館から幌別(現登別市)までを担当、600余名が勤務していた。しかし、幕府が倒され明治新政府が誕生すると、箱館に箱館府が置かれて蝦夷地の経営を担当することとなり、東北諸藩の蝦夷地詰の人々は帰藩していった。この間、多くの南部藩士が事故や病気で異郷の地に倒れた。函館で弔われた人については明治39(1906)年から盛岡出身の有志で慰霊を続けてきたが、墓石や碑が散在し荒廃していくのを憂い、昭和12年にこの地に集めたものである。現在、この墓地には、12名の藩士が祀られている」とあった。天保五年(1833)、霊を祀り碑を建て供養したという高龍寺の南部藩士供養碑は見つけられなかった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 宮本小一と柳川熊吉の事 | トップ | 函館七面社脇戦死者墳墓地 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

掃苔」カテゴリの最新記事