大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

身延 養珠院と浄光院

2015-02-18 | 掃苔

身延の下部温泉に何十年ぶりにいった。下部温泉には前回は甲府から、今回は富士駅から特急に乗っていった。
 
特急も指定席はガラガラ、地元の人に聞いたら「桜の時期は混雑するけどそれ以外はね~」と笑っていた。もっとも身延線は単線なので特急と普通列車で下部温泉駅までだと35分程度しか差がない。下部温泉駅の降客はたったの4名。駅前にあった観光案内所が閉鎖するのも納得する。
 
今は常駐のタクシーも無く、昼時だったので駅前の食堂で時間を潰して旅館に迎えに来てもらう事にした。食堂では地元の消防団がビールを飲みながら食事中で帰りに消防自動車で事故を起こさなければいいがと余計な心配をする。
翌日、身延に行くと云うと旅館の係の人が身延山に行く途中の大野と云う所から毎日旅館に通っていて、大野のお寺に徳川家康側室の墓があると教えてくれた。身延駅で山梨交通のタクシーに乗って大野にある側室の墓に寄りたいと云うと「ああ、お万の方ね」と直ぐ分かった。
 
 
このお寺は大野山本遠寺と云い慶長十三年(1608)、徳川家康公の側室お万の方(養珠院)、開山は身延山第二十二世日遠上人で宗義の本門寿量から「本」、日遠上人の「遠」を取って本遠寺と称し、日蓮宗の別格本山として発展したという。養珠院は寛永三年(1626)に仏殿を建立し、子の初代和歌山藩主徳川頼宣が明暦元年(1655)、堂宇を建立した。幕末の慶応三年の火災で建物の多くを焼失し本堂と鐘楼堂が僅かに残ったという。運転手の方がご住職がいれば本堂のなかを見せてもらえるとご住職を探してくれたが生憎不在で中を見ることは出来なかった。
 
養珠院墓域入口の石柱は一枚岩で出来ていた。
 
家康の側室でお万の方(養珠院)は紀伊徳川家藩祖である十男徳川頼宣と水戸徳川家藩祖、十一男徳川頼房の二男子の生母で承応二年(1653)、江戸紀伊徳川家上屋敷で亡くなっている。池上本門寺の紀伊徳川家の墓域内に養珠院の墓もあるが、亡くなった承応二年八月二十九日に遺言により本遠寺に運ばれ本葬されたと言う。そういえば、静岡の蓮永寺に会津藩士で戊辰後、静岡藩職員となった林三郎惟純の墓を探しに行った時にお万の方の墓がこの蓮永寺にもあった。
上段 池上本門寺     下段 静岡蓮永寺
 
   
今回は保科正之の生母であるお静の方(浄光院)のお墓を訪ねるのが目的で、日蓮宗総本山身延山久遠寺に行った。浄光院の墓域は久遠寺本堂に向かう仁王門を表からみて左側の西谷参道から入り、日蓮聖人御廟の拝殿横の篤信廟に祀られている。
 
 
 
日蓮聖人御草庵跡奥にある篤信廟は徳川家康公側室養珠院、水戸徳川光圀公母堂・久昌院、丹後宮津京極高松公母堂寿光院、会津保科正之公母堂浄光院の墓域となっている。
  
 
左 養珠院墓域       右 浄光院墓域 
  
浄光院墓碑銘 
寛永第十二年乙亥 浄光院法紹日恵霊 九月十七日 
会津 孝子 従四位上左近衛少将 源朝臣正之奉祀 
顕妣神尾氏以天正甲申生于相州小田原城下卒于信州高遠□五十有二歳

浄光院は寛永十二年信州高遠で亡くなり、同地の長遠寺に埋葬され、寺名を浄光寺と改めた。浄光院の遺言により慶安三年(1650)、身延山久遠寺に改葬された。浄光院の父は神尾伊予栄嘉、小田原北条氏家臣だったとある。神尾という姓はどのように読まれ、また伊予栄嘉もなんと呼ばれていたのだろうか。
    

神尾一族と大姥局の事

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京都 吟松寺から正伝寺

2015-02-10 | 

鷹峯の光悦寺から西に2・3分歩いたところに崖みたいな下り坂に出た。地図ではヘアピンみたいな道だと思っていたらとんでもなかった。あとで聞いたら京都でも一,二を争う急な坂だという。坂の手前にあったお茶屋さんで休憩してから吟松寺に向かう事にした。この急坂に古道長坂口と表示があった。
 
 この街道は長坂から杉坂に至る丹波街道の登り口にあたり、八瀬、今道の下、東寺口、法性寺、鳥羽、七条口、長坂口と京の七口の1つに数えられ古代から秀吉が政権を握るまで関所を設けていたという。坂を下り紙屋川(天神川の上流部)に沿って4・5分歩いたところにひっそりとお目当ての吟松寺があった。
 
お寺の方が山門のまえで落葉を掃いていた。紅葉の季節には大勢の人が来て大変だったという。お庭を見せてもらいたいと云うと、うちは檀家寺で観光寺でないので何もないですよと言われた。庭は苔も綺麗で手入れが行き届いていて観光客を入れたら一遍に荒れてしまうだろうなと思いながらしばらくの間、庭を眺めていた。
 
 
  
冬は雪が積もって大変だという。一度、雪の吟松寺をみられたら最高の贅沢だろうと思う。地図には吟松寺の前の道は鏡石通りとあり、約500m下ると日本庭園のある「しょうざんリゾート京都」についた。一時は食事にあり付けないかと思ったが、やっとここの「わかどり」という店で昼食にあり付いた。
 
  
時間も早かったので、お店でタクシーを呼んでもらい同じ北区西賀茂にある正伝寺に行くことにした。地元のタクシーみたいだったので行先を西賀茂の正伝寺と云うと。ああ正伝寺さんね、珍しいですねと云う。嫌な予感が当たった。「この辺なのだけど」と云いながら道をウロウロ、地図を見せてもハッキリしない。最後はスマホの地図で何とか辿り着く。京都も端にいくとこんな運転手もいるのだと改めてビックリする。どうにかやっと正伝寺の山門に着いた。
 
参道はさすが古刹の趣と思ったら、ゴルフ場のカート道がみえ、慌てて地図を見直すとゴルフ場に囲まれてお寺があるようで何となく不思議な感じがする。
 
日本歴史地名大系「京都市の地名」によると、文永五年(1268)、聖護院執事、静成法師が兀庵普寧の高弟、東巌に帰依し烏丸今出川に恵安を開山として仏殿を建立、亀山天皇が当山に吉祥山正伝護寺の号を賜ったが、比叡山衆徒により破却され、弘安五年(1282)、賀茂の社家森経久の援助により現在地に堂宇を建立、元和元年(1615)徳川家康の朱印を受けて再建されたという。方丈は伏見城の遺構と伝えられ、広縁の天井は伏見城落城のとき、鳥居元忠一党の自刃した血痕が残る廊下の板を使ったものと伝えられる。
 
 

 
血染めの廊下を供養のため天井に張り替えたと云うが、落城した城から廊下を引っ剥がしてきて天井に張り替えたのが、何で供養になるのだろうか。慶長五年(1600)八月伏見城落城のとき、石田三成は城内の建物をことごとく焼き払ったと伝える。今、伏見城の遺構は、石垣は何所何所、門は何所何所、建物は何所何所と数多くの伏見城の遺構が色々な処に移されて使われたと伝える。それとも、豊臣政権が崩壊して慌てた神社仏閣側が伏見城取り壊しのとき、寄進を願い出て安堵を願ったものなのだろうか。
 

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京都鷹峯 圓成寺(岩戸妙見宮)・光悦寺 

2015-02-04 | 

鷹ヶ嶺の地名は、伝承では毎年鷹が来て雛を産んだので、その山を鷹ヶ嶺と称したと云うが山州名跡志には「鷹峯は千束(光悦寺西)西北に在り、この所西南に沿って三峯あり、第一天峯、第二鷲峯、第三鷹峯、由来未考で鷹峯を今地の名とす」とあり、ハッキリしていない。
天ヶ峯(左) 鷲ヶ峯(右) 鷹ヶ峯(下)
 

源光庵の隣が鷹峯小学校、その西隣に圓成寺がある。日蓮宗本満寺派、山号は清雲山。寛永七年(1630)、本山満願寺日任上人の開創と伝える。境内にある妙見堂に妙見大菩薩を安置しており、霊巌寺(今廃寺)の妙見菩薩を一条家の懇情により再興し祀ったと伝える。山州名跡志によれば吉祥山の後、西北の峰に古に土地の人が「めけん堂」という妙見菩薩の堂あり、この峰に毎年七月十五日の夕、聖霊会の送火を船の形に燈し、大勢の人が見物したという。今、吉祥山正傳寺後の峰(西加茂舟山妙見山)で西方寺と船形万燈籠保存会が中心に毎年8月16日に「船形万燈籠」の送り火が行われている。
圓成寺境内の「痔の神」として秋山自雲を祀った祠があった。始め浅草本性寺に祀られたが、分祀され全国に広まったというが、痔の神様をみたのは始めて。
寺奥の墓域に鷹峰在郷軍人会が明治四十二年に建立した男爵三好成行(旧長州藩士)筆による忠魂碑があった。「山内写真撮影を禁ず」と書かれた立て札があり写真はすべて山門から写した。
 
 
  
圓成寺と旧丹波街道を挟んで日蓮宗、大虚山光悦寺がある。
 
 
元和元年(1615)、本阿弥光悦が徳川家康より鷹ヶ嶺の土地を与えられ、一族、諸工匠と共に移り住んだという。本阿弥家の先祖位牌所を光悦死後、本法寺日慈上人を開山に請じて寺院に改める。本阿弥家は熱烈な法華信者で当時一流の芸術家の多くが日蓮宗の信者であったこともありこの地に集住している。割り竹を菱形に組み、割り竹の束をのせた頂部をゆるい曲線を描く垣根が有名な光悦垣だとは知らなかった。本阿弥光悦は江戸時代初期の書家、 陶芸家、芸術家で書道は寛永三筆の一人と称され、刀剣の鑑定、研磨 、浄拭(ぬぐい)が家業だったという。
三巴亭(左) 了寂軒(右) 大虚庵(下)
 
 

歌碑二つ
山二つ かたみに時雨 光悦寺
紅葉せり 徒(つ)らぬき立てる 松の幹 
   
本阿弥一族の墓
 
  

光悦寺から長坂を下って吟松寺に向かう。

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