大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

山家の会津藩士

2011-07-11 | 會津

昨年は京都で乗継ぎ山陰線で約1時間、綾部駅に降り立った。午前中は調べ物で綾部市の図書館へ。午後にやっと1つ京都寄りの山家駅(やまが)へ向かった。無人駅である山家駅前の殺風景にビックリする。この年は京都で知人と待合わせした為、由良川の橋から山家の空気を吸っただけで京都に戻った。

 

 

幕末この山家は谷氏山家藩1万石、山家東山町の旅館「若松屋」の主人が克明に書き残した管生家文書「維新前ヨリ見聞記」は、鳥羽伏見の戦いに敗れた小浜藩主従や会津藩士の通過を「会津の侍とて十四,五人洋服に剣銃を持たる者手前に宿を取る。中に壱人抜身の槍を枕元に立かけ足音を聞と直に眼を開け実に凄き有様」とその緊張感を生々しく伝えている。鳥羽伏見の戦いの時、京都会津藩邸にいた藩士の一部は大坂に逃れたが、全員が大坂、和歌山の加太に逃れられたとも思えず、日本海側から会津に向かった藩士の足跡を探していたが、三,四年前にこの管生家文書の存在を知った。

今年、はからずも丹波笹山の歴史に造詣の深い「家紋 World」の播磨屋さんから連絡を戴き、山家の会津藩士に関して綾部の知り合いの方に色々話を聞いて頂いており、史談会の方や郷土史家の先生を訪ねましょうとお誘いを受け、渡りに舟とお願いすることにして綾部に向かった。地方史によれば慶応四年、幕府側として鳥羽伏見で戦った小浜藩士は「銘々勝手次第」と小浜に引き上げた。園部から草尾峠、又、堀尾峠、大栗峠と色々な峠を越え若狭側に落ち延びたことが伝承話として残っている。綾部駅で播磨屋さんとその友人で山家にお住まいの95さんと落ち合い資料などを頂き、山家に向かった。

 

昨年、山家で由良川の流れの速さと両岸の深さに驚き、とても徒歩では渡れないと思っていたが、昔は渡し場があったという。早速連れて行ってもらった。27号線沿いの由良川に架かる上原つり橋のちかくの肥後橋の真下が渡し場跡だった。

  

渡し場跡と京都府自然200選の1つで断崖のような立岩

 

上林谷の史談会のAさんを訪ね、いろいろな話と会津藩士が泊まったといわれる若松屋に案内して頂く。山家ではかなり大きな屋敷だったらしく、その家は明治時代の面影をのこしているという。今は山家城址公園・谷霊神社となっている谷氏山家藩の山家陣屋址にいく。ここからの景色と云い、山家の町並みを見ているとタイムスリップしたような不思議な感覚をおぼえた。(右 若松屋)

 

 

最後に無理を言って陣屋跡から上林川の大町の分岐点まで行って貰った。左に行けば管坂峠から舞鶴、右は堀越峠から若狭小浜への道、どちらも昔からの街道筋、どの道筋を通って会津にもどったのだろう。

 

播磨屋さんには綾部駅まで送って頂いた。今回、播磨屋さん、95さん、山家の方々に大変お世話になってしまった。歴史を通して各地の方々とお話で出来て新しい知識も得て、また刺激されるのは嬉しいできごとだった。

 

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会津藩士 三淵隆衡

2011-07-01 | 掃苔

30年前に出版された牧野登著「紙碑・東京の中の会津」に三淵家のお墓の写真が載っていた。三淵隆衡は戊辰の戦いで会津藩の責めを一身に負って自刃した会津藩家老萱野権兵衛の弟で明治三十三年に亡くなっている。5,6年前、三淵家の墓を探しに新宿正受院を訪ねた。

  

この正受院は明治二十六年十二月五日旧会津藩主松平容保公薨かり、九日にこの正受院に仮葬されのち大正六年六月九日に二子の子と共に会津院内に移されている。

このお寺の鐘楼の奥が嘗ての松平家の墓域で、その場所には大正七年に建てられた会津の野村家之墓があった。この野村家之墓から一段下ったところにあるはずの三淵家のお墓を探したが見つからず、お寺に確認したが若い御坊さんで要領えず、ガッカリして戻ってきた。今年、沼津の明治史料館で知った白虎隊士で中央大学の創立者の一人でもある西川鉄次郎の葬儀が昭和七年六月に小田原の興徳寺で行われた事が判った。      右 野村家の墓域

  

興徳寺へは箱根登山鉄道の箱根板橋駅から行く。ところが乗換の小田原駅で戸惑う。

 12番線:伊豆箱根鉄道、36番線JR東日本、1314番線JR東海、710番線:小田急、711番ホームが箱根登山鉄道 、書くとスッキリするが、実際はJRに挟まれて私鉄の番線があり、しかも7・8番線小田急線の端に711番箱根登山鉄道のホームがある。小田原駅での乗換はかなりウロウロしてしまった。箱根板橋駅は小田原から1駅で小田原城の西南にあり、5・6分で興徳寺に着く。

  

 

興徳寺の墓域は思ったより小さく会津藩士を探しに来たと伝えるとお寺でもビックリしていた。残念なことに西川家という名の檀家は見当たらないということであった。色々話をしているうちに、この奥のお寺の下に偉い裁判所の人が住んでいたと教えてくれた。そこが西川鐡次郎の静養した家かと考えて訪ねてみた。この家は古い大きな屋敷だったが表札がなく、どなたが住まわれているのかは判らなかったが、上手に霊壽院という曹洞宗のお寺があり、ここの墓域に入りこんだ。

左 興徳寺               右 霊寿院

 

 

 

本堂の横に立派な三基の墓があり中央にあったのが三淵家の墓。「紙碑・東京の中の会津」に載っていた写真のお墓がそこにあった。ビックリしてしばらくたたずんでしまった。

初代最高裁判所長官、三淵忠彦は三淵隆衡の長男。

 

コメント (7)
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