琵琶湖の東側にある天台宗寺院、いわゆる湖東三山(西明寺、金剛輪寺、百済寺)を巡ったあと、滋賀の近江八幡市と三重の四日市を結ぶ八風街道(今の国道421号)の途中、愛知川(音無川)と堂後谷がぶつかる山裾、日本コバという珍しい山の南麓に愛知川に沿うように境内がある臨済宗永源寺派大本山である端石山永源寺を訪れた。
康安元年(1361)、近江国の領守佐々木氏頼が、この地に伽藍を建て、寂室元光禅師を迎えて開山され、瑞石山永源寺と号し、中世戦乱期に兵火により山上の寺院悉く焼失したが、江戸時代中期に中興の祖とされる一糸文守禅師(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇や彦根井伊氏の帰依を受けて、伽藍が再興された。愛知川に掛けられた橋が旦渡橋、堂後谷に掛る大歇橋を渡ると羅漢坂の石段になる。
数えた訳ではないが、この石段、120段あるという。途中の岩山に石仏が奉安されていて、すこし不気味に感じる。
石段を上りきると、左側に井伊家の墓所がある。墓所には後で寄る事にして、総門から山門を潜る。庫裡の横に郵便ポストが設置してあった。境内に郵便ポストがあるのを見たのは比叡山延暦寺以来だった。方丈や法堂できびきびと作務を行っている若い修行僧が印象的だった。
井伊氏の墓所は慶長七年(1602)、井伊直政の死去により墓所として創建され清凉寺(初代直政、三代直澄、五代直通、七代直惟、八代直定、十一代直中、十二代直亮の歴代七藩主)、江戸における菩提寺として彦根藩領にあった豪徳寺(二代直孝、六代直恒、九代直、十代直幸、十三代直弼、十四代直憲の六藩主)、四代藩主直興は永源寺南嶺慧詢に帰依したため、側室と共に永源寺に葬られている。
寛政重修諸家譜に直興の子は十二人、側室も十一名の記載があった。家譜に残らない側室も居ただろうから、これでは羨ましいと言うより、藩主も日夜、大変だなと云う感じが強い。直興側室で五代直通、六代直恒、七代直惟の生母と陽光院、四人の側室は東京豪徳寺に埋葬されている。永源寺の井伊氏墓所で確認出来たのは三基の墓石だけで、直興と二人、どの側室が埋葬されているのだろうか。
百済寺に着いて、お寺のパンフレットを貰って驚いた。くだら寺と云うとばかり思っていたが、ひゃくさい寺と仮名が振ってあった。
本堂に続く参道の入口にある赤門の両脇には石塁があり、門自体は小作りながら堅固な山城みたいな構えとなっていた。境内案内図に参道を挟んで七百坊跡、二百坊跡、百坊跡とあり、話半分としてもかなりの僧侶がいたことになる。赤門からの参道
受付のある本坊喜見院から本堂に行くのは、庭園から脇参道を行くのがなだらかな坂で楽だといわれた。途中の石段のところで仁王門から降りてきた女性に聞くと本堂はまだ距離があるという。やはり大回りしている脇参道をいく。なだらかな坂道でも西明寺、金剛輪寺を巡った後なので、かなりきつい。百済寺の山号は釈迦山、推古十四年(606)に聖徳太子の発願により百済からの渡来人のために創建されたと伝えられている。
百済寺のH・Pに百済国について面白い記事が載っていた。「百済は、BC18年に高句麗から分離独立し、現在のソウル近辺に成立し、当初は「伯済」と書いて 「ハクサイ」と呼ばれていました。5世紀代の国王が、「伯」の文字は左右非対称で弱弱しいため、「イ(にんべん)」を跳ね上げて左右対称の安定した「百」の文宇にすることで国家も安定するだろうとの願いを込めて「百済」に改名したといわれております。(発音は同じく「ハクサイ」)」とあった。「百済寺は、推古十四年(606)に創建された近江の最古級寺院であり、その位徴は北緯35.1度線上に存在します。この線上には、西に向かって、太郎坊(八日市)…比叡山…次郎坊(鞍馬山)…百済(光州)があり、東に向かっては荒子観音寺…熱田神宮がほぼ同一線上に並び、百済僧「観勒」(日本最初の僧正)は、推古十年(602)に来日し、百済寺創建のための選地・方位決定等に大きく関与した様子が伺われる」という。なるほどね~という感じ。
日本国語大辞典に「(百済)をクダラとする由来には諸説あるが、馬韓地方に原名「居陀羅」と推定される「居陀」という地名があり、これがこの地方の代表地名となり、百済成立後、百済の訓みになったという説が最も合理的か」と説明している。百済((ひゃくさい)と音読するのが一般的であるが、日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して(くだら)と呼びならわしている。」と解説する事典もあった。
湖東三山と言われる西明寺(犬上郡甲良町池寺)、金剛輪寺(愛知郡愛荘町松尾寺)、百済寺(東近江市百済寺町)はいずれも天台宗寺院で鈴鹿山系の西側山麓に点在して、寺の造りも似ており、大勢の参拝客で賑わう紅葉の季節を外して、人けのない静かな佇まいの参道をゆったりと本堂へ向かうのも古刹の楽しみ方の1つではないだろうか。
琵琶湖 湖東三山(金剛輪寺)
琵琶湖 湖東三山(西明寺)
西明寺から金剛輪寺に向かう途中、斧磨という地名があった。
おのをみがくと書いて「よきとぎ」と呼ぶと言う。斧の刃に沿って彫ってある溝を樋(ひ)といい、
右面(刃が右向き・表)四本の樋をヨキ、左面(裏)に三本の樋をミキと呼び、合わせて「七つ目」と
呼び、呪術的な意味を持たせているという。斧を「よき」と読ませるもの知らなかったが、
歴史の古い地域を旅すると意外な発見があるものだ。
金剛輪寺の号は松峰山、天平十三年(741)、聖武天皇の勅願で行基菩薩により開山、
国宝の本堂は近江守護職・佐々木頼綱により建立された。三重塔、二天門は国指定重要文化財、
金剛輪寺本坊の明寿院庭園は国の名勝庭園に指定されている。
惣門から本堂に向かう参道の途中に明寿院があり、その先の参道両側にお地蔵が
ズラリと並んでいて、奇妙な不気味さを感じる。
二天門
明寿院はかつて学頭所として使われた建物だったが、昭和52年(1977)の火災で焼失、
その後に再建されたものですが、幕末の安政年間に造られたという茶室「水雲閣」は焼失を免れ、
現在に至っている。
水雲閣
この「水雲閣」は幕末の「赤心を持って国恩に報いる」から名付けたという「赤報隊」
挙兵の場としても知られている。挙兵は山科元行が中心となり綾小路俊実、背後には
松尾但馬(松尾社祠官子で山科元行弟)を通じて岩倉具視がいたとされる。
金剛輪寺が挙兵の場所となったのは、京都門跡院曼珠院の末寺で、曼珠院家人
山本太宰(のち処刑)によるもので、当時多くの僧堂があった金剛輪寺は多人数を
収容するに都合がよかったのだろう。
赤報隊を離れた山科元行は、のちに明治天皇の侍医となった。孝明天皇の死亡が
天然痘によるものと証言したのが、この山科能登介(元行)です。
百済寺に向かう。
琵琶湖 湖東三山(百済寺)
琵琶湖 湖東三山(西明寺)
数年かけて琵琶湖の湖西、湖北を廻った。今回は湖東、湖南のお寺を廻ってきた。
今更だが、貰ったパンフに琵琶湖の由来が書いてあった。この湖は古くから万葉集・源氏物語などに鳰(にお)の海、近江の海、淡海、水海と詠まれていたという。木村至宏氏「近江学概論」によると、14世紀初頭、比叡山延暦寺学僧光宗が「水海の形は琵琶の相貌なり」と観想したという。元禄二年(1689)、原田蔵六の「淡海」に、湖水を琵琶湖と名づくは、竹生島の天女音楽を好み給ふ故、海を琵琶湖になずく」とあり、この頃に名が広まったという。慌てて滋賀の地図を見た。三百年以上も前とは地形も変化しただろうが、琵琶に似ている様な、似ていない様な。竹生島の琵琶を持つ弁財天と密接な関係を物語っているという。琵琶湖の西には延暦寺・園城寺といった大きな寺院が在る為か地域の信仰が暮らしと結びついて寺社仏閣も多い。滋賀県のH・Pによると、国宝・重要文化財の八割が京都市に集中しているのに比べ、滋賀県では大津市でも四割にすぎなく、都道府県別人口10万人当たりの寺院数は全国第1位だという(H20年度)。
琵琶湖の東側、鈴鹿山系西側の山麓にある天台寺院、西明寺、金剛輪寺、百済寺の湖東三山と東近江高野の永源寺を廻った。近江電鉄にも乗りたかったのでJR近江八幡駅から近江電鉄八日市駅からスタートすることにした。
西明寺の号は龍應山、承和元年(834)に三修上人が仁明天皇の勅願により創建、戦国時代に織田信長の焼き打ちにあったが、本堂・三重塔(国宝)、二天門(重文)は火難を免れ、のち江戸時代に興廃していた寺を天海大僧正等の尽力により、望月越中守友閑が復興した。庭園「蓬莱庭」(国指定名勝庭園)は友閑が復興の記念として造園したと伝わる。望月友閑とはどのような人物だったのだろう。
西明寺は紅葉と不断桜が有名だが、最近では、人工的に増やした紅葉や桜を観るよりもシーズンを外したひと気のないひっそりとした佇まいのお寺を訪ねるのが好きになった。不断桜は秋冬春に開花する高山性の桜で彼岸桜の系統の冬桜だという。
中門を入り右手は庭園の入口、不断桜は左手の奥にあった。まだ早く、花びらは殆ど見られなかったが、それでも気の毒に想ったのか、眼を凝らすとやや小さな白色に近い数輪の花びらが咲いていた。
庭園から本堂への道を行く途中、緑のビロードを広げたような苔が綺麗に育っていた。昔、銀閣寺に行った時、「良い苔、悪い苔」が展示されていた。西明寺の苔は多分、「良い苔」の種類なのだろう。
二天門に続く参道の両側は石垣なのか石塁なのか判らなかったが、緑のトンネルを通っているようで、古刹の雰囲気を十二分に味わうことが出来た。
湖東局風景印は天然記念物花の木と湖東三山鈴鹿連峰
琵琶湖 湖東三山(金剛輪寺)
二宮町山西にある西光寺から吾妻山の東側、二宮駅から北、約1kのところに龍潭寺がある。浜松湖北五山の一寺、井伊谷井伊一族の菩提寺龍潭寺と関係があるのかと訪ねてみた。
奥浜松の万松山龍潭寺は臨済宗妙心寺派、二宮の龍潭寺の号は天寧山、開山円佐で小田原浜町の宝安寺末寺で曹洞宗のお寺さんだった。ここに舟形双体の道祖神や庚申塔、三猿板碑があるというので、境内を探しまわる。三猿板版はすぐ見つかったが、道祖神・庚申塔が見つからず、ご住職に聞いたら、本堂の横の池の中だと言う。池の中にあるとは気が付かなかった。
三猿板版は三基あったが、不見、不聴、不言の順番が三基とも異なっている。正しい順番が有るのだろうか。庚申塔と三猿との関係はよく分らないが、南方熊楠は十二支考で「遠紺碧軒随筆」を引いて、庚申の三猿は、もと天台大師三大部のうち、止観の空・仮・中の三諦を不見、不聴、不言に比したるを猿に表わして伝教大師三猿を創めたという。また道家の説に三尸(さんし・人間の体内にいると考えられていた虫)がその宿主の罪を伺察し、庚申の日ごとに天に上って上帝に報告し、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、この夜は寝ないで三尸が体から出ないよう守るというその風がわが国にも伝わり、また三尸は小鬼に類で、それを三猿で表したという。また論語の「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言」(礼にあらざれば視るなかれ、聴くなかれ、言うなかれ)から来たという説もある。
日光東照宮の三猿は左から不聴、不言、不見の順番。
龍潭寺の三猿は三基とも順番が異なるのが面白い。
龍潭寺から妙見神社、大応寺の前を通り、のんびり歩いて15分程度で知足寺に着く。
知足寺山門と本堂
知足寺は新編相模風土記稿に「藍海山花月院と号す、浄土宗(京知恩院末)相傳して、当寺は曩昔、二ノ宮彌太郎朝定(「東鑑」曽我物語等、太郎朝忠に作れり)が居蹟にして、建久の頃、朝定の後室花月尼(河津三郎祐泰が女と云)夫朝定、及び曽我兄弟等の為に、一宇を創し、冥福を修せしと云」とあり、知足寺墓域の西側奥に曽我兄弟と姉花月尼、その夫の二ノ宮彌太郎朝定の墓四基、並んでいる。
左から二宮朝定・花月尼・十郎祐成・五郎時致の墓
曽我十郎五郎兄弟による敵討ちは鎌倉時代の根本史料「吾妻鑑」にも記載があり歴史的事実であることは間違いのないところだが、敵討があったのは安元二年(1176)、吾妻鑑は治承四年(1180)から文永三年(1266)までの幕府の事績を編年体で記しているので、約百年後に吾妻鑑の編纂者は残された史料から曽我兄弟の事件を吾妻鑑に組入れたことになる。
現存する史料に真名本「曽我物語」と仮名本「曽我物語」があり、それぞれ内容に変化を持たしている。真名本が古様を示しているとはいえ軍記物語でもありそのまま事件を正確に伝えているとも思えない。室町時代天文十五年(1546)の書写奥書がある真名本「曽我物語」が一番古い写本とされている。
この妙本寺本は重要文化財で現在、H・P 国立博物館-e国宝、検索、曾我物語(真名本)で閲覧することが出来る。
小田原曽我の城前寺の曽我兄弟と母満江・曽我祐信の墓
相模二宮界隈(川勾神社・西光寺)