大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

砺波 千光寺、瑞泉寺、安居寺

2019-08-28 | 

富山平野の南西部、高岡を流れる小矢部川と庄川の中流域にある砺波市に行った。JR城端線砺波駅からお寺を廻ることにした。城端線は29.9k、駅数13(起終点駅含)の地方交通線だという。実際の電車停車駅は何度数えても14、不思議に思っていたら新高岡駅は北陸新幹線駅に含まれ、城端線の駅としてはカウントしないという。北陸新幹線駅新高岡駅への連絡口扱いでは何か可哀そうになる。
頼成の森のある天狗山西北の麓、芹谷にある千光寺に向かう。頼成で「らんじょう」と読ませる。砺波は農家一軒一軒が離れて村を形成し、それぞれが屋敷林を備えている。これを「かいにょ」、漢字で垣饒(かきにょう)がなまったものだという。砺波、頼成の地名の成りたちが想像もつかない。
 
千光寺は真言宗の寺院で山号は芹谷山、大宝三年(703)、天竺の僧法道上人の開基と伝わる。
 
 
 
 
 
同じ寺名の尾道の千光寺が大同元年(806)の創建なので、芹谷の千光寺はかなり古い。北陸三十三ヵ所観音霊場第二十八番の千光寺は越中真言の古刹で、ご本尊は銅造観世音菩薩立像で三十三年に一度しか御開帳されない秘仏で次回は2039年だという。戦国時代から何度か火災で焼失、江戸時代中期までに順次再建されている。
南砺市井波にある瑞泉寺を訪ねる。
 
 
関東では瑞泉寺というと、鎌倉二階堂にある臨済宗瑞泉寺(嘉暦二年(1327)、夢窓疎石開山)を思い描いてしまうが、井波の瑞泉寺山号は杉谷山、後小松天皇の勅願所として綽如上人により明徳元年(1390)、建立されたという。「後小松帝勅願所而本願寺第五之法綽如上人之開基也」。寺造成のさい、霊水湧出の端あり、よって寺号を端泉寺と名付けたと云う。楼門は宝暦十二年(1762)、火災により焼失、文化六年(1809)に完成させたもので、正面の「波に龍」は京都の前川三四郎の作だという。瑞泉寺前の参道(八日町通り)に沿って多くの木彫りの店がある。
 
 
 
  
瑞泉寺本堂再建のおり京都本願寺より、御用彫刻師・前川三四郎が出向き、このとき地元大工らが三四郎の彫刻の技法を学んだのが井波木彫りの始まりと言われている。
 
寛政四年(1792)瑞泉寺勅使門菊の門扉、両脇に彫刻した「獅子の子落とし」は地元大工・番匠屋九代七左衛門の代表作で、狩野派風な図柄で浮き彫りの技法が駆使され、日本彫刻史上の傑作とされている、とは井波彫刻共同組合の説明にあった。
庄川扇状地の砺波平野を時計回りに最後に辿り着いたのが南砺市安居の安居寺(あんごじ)で、ここの地名を地元の人に尋ねたが、「やすい」なのか「やっすい」なのか聞き取れなかった。
 
 
 
 
 
安居寺は斉明天皇二年(656)、地主地蔵尊を奉祀したことを起源とし、養老二年(718)、インド渡来の善無畏三蔵、陰暦の4月16日から7月15日までの90日間、夏安居(げあんご)の修行を行ったことに因んで寺名としたという。三蔵は仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のことで、西遊記の玄奘三蔵は数ある三蔵法師の一人だという。三蔵法師が大勢いるとは知らなかった。山号は弥勒山、高野山真言宗の寺院で、江戸時代には加賀藩の祈願所として栄え、北陸三十三観音霊場の第二十七番札所となっている。

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高岡 極楽寺から妙国寺へ

2019-08-21 | 

高岡新西国三十三観音札所四番札所だという博労町の極楽寺を訪ねた。
 
 
あとで高岡諸寺院由緒聞合帳をみてびっくりした。高岡に同じ山号を持つ極楽寺が二ヶ寺あり、一瞬、訪ねたお寺を間違えたかと思った。安養山守山極楽寺と安養山富山極楽寺、守と富の一文字違いの浄土宗のお寺で、いずれも前田利長の高岡築城の折、それぞれ守山、富山から富岡に移転し、守山極楽寺、富山極楽寺と呼んでいるという。聞合帳に安養山富山極楽寺は慶長年中、富山より高岳へ引越、坂下町に居住したとある。一方、安養山守山極楽寺は後醍醐天皇第八王皇子宗良親王(越中宮佛眼明心法親王)を牧野郷に迎え後醍醐天皇の三回忌に一宇を創建し、自ら開山とし号して安養山極楽寺と名付けという。その後、牧野から守山の西海老坂に移ったが、前田利長が関野を高岡と改称して移城、それに伴って高岡に移ったのが守山極楽寺で、安養山富山極楽寺は南朝方の郷士が宗良法親王を開山に勧請して創建された寺だという。
 
 
極楽寺に神仏習合の名残で境内に八の宮稲荷社、本堂には熊野権現様がお祀りされていて、なにがごちゃごちゃしたお寺さんだった。馬喰町から利屋町(とぎやまち)にある大法寺に向かう。
 
 
富岡は古い町名が残って利屋町も何と読むのか分らなかった。寺のH・Pによると「海秀山高岡大法寺は亨徳三年(1453)、京都大本山本圀寺第九世妙勝院日曉聖人の弟子、栄昌院日能聖人が、越中国開教の命を受け、越中国放生津(現在の富山県新湊市)の地に本圀寺布教所として開創された寺院である」という。(注:亨徳の年号はないので享徳の間違い。享徳三年は1454年)。放生津から守山、富山に移転後、慶長年中に高岡へお供したという。この大法寺、とりわけどうというお寺では無いと云ったら怒られてしまうが、この寺の門前に大変貴重なものがあったのに見逃してしまった。大法寺の門前左側に建っていた汚い木柱が入らないように山門の写真を写した。この木柱が明治時代初期の交通枢要地に木標を建てて管内諸街道の起程とする里程調査のために定められた道路元標の富山県里程元標「高岡」で、北陸街道の一つの基点となっていたもので、復元木柱の里程元標は全国でも数基しかなく後で分ってガックリした。
大法寺のお隣の龍雲寺に寄る。入口に大きな「高岡之新西国第一番霊場」の石標がある。
 
 
 
射水郡高木城主龍雲入道は射水小杉に高木山龍雲寺を創建、慶長年中高岡の瑞龍寺内の拝領地に移ったが、瑞龍寺再興用地に召上げられ現在の利屋町に移転したという。万葉線という私電に一度乗りたくて、龍雲寺から一番近い片原町の駅に向かう。
 
道路に青いペンキで長方形に塗り、中に「電車のりば」と白いペンキで書かれているのが電車の停留所だったので驚く。この停留所の前にあったのが守山から高岡に移転した妙国寺で、この妙国寺は本陽寺、立像寺、本光寺、妙伝寺の五個寺組頭役だったという。
 
 
また高岡の西方丘陵にあった一向衆寺院、西方八ヶ寺(本陽寺、本光寺、妙国寺、長蓮寺、法光寺、妙伝寺、大法寺、立像寺)の一ヶ寺でもある。境内に「勤皇志士山本道斎追墓□」があった。幕末に頼三樹三郎が高岡の片原町医者山本道斎の書堂牛馬堂に身を寄せ「牛馬堂記」を残している。高岡のお寺を駆け足で回った。慶長以前に関野にあったのは、総持寺、本陽寺、浄土寺の三箇寺で、ほかの寺はすべて慶長年間かそれ以降に移転、または新しく建立されたお寺だという。ただ総持寺と瑞龍寺との関係が、今一つ分らなかった。

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高岡 総持寺・林洞寺・東漸院

2019-08-14 | 

前田利長の菩提寺、瑞龍寺の西北に石仏が並んでいるお寺、総持寺があったので行ってみた。
 
 
総持寺の山号は衆徳山、高野山真言宗のお寺で、ここのH・Pによると「当山は創建当時、今の高岡市石堤の地にあったといわれ、前田利長(加賀藩二代藩主)守山在城の節は祈願所となり、高岡城移住の時、利長の意向により、慶長年間に現在地に移ったとされる。当山二十二世快雄和尚は、慶長十四年(1609)時の利長公高岡城築城の際、利長公より、当時関野と呼ばれたこの地の新たな命名を依頼され、中国の詩経の一節により「高岡」と名付けた人物である」とあった。ここの像内に正平八年(1353)卯月三日金剛位禅恵、仏師幸賀並ニ頼真等の銘がある「木造千手観音座像」は昭和12年、国の重要文化財に指定されていて、一年に一度11月15日に御開帳だという。このお寺にはもう一つの「秘仏」がある。薬師如来像で普段は厨子の中に納められ、五十年に一度の開帳だという。高岡諸寺院由緒聞合帳によるとこの厨子蓮台は玉泉院(織田信長娘で前田家長室)の寄進で、薬師如来像は三輪明神之作だという。由緒聞合帳によれば、むかし寺中より出火し縁起等焼失している。高岡城の地祭、並びに端龍寺建立の節、地祭を仰せつけられ、千手観音は越中那古の海より上がり給わったものだともいう。
 
外塀に寺を取り巻く様に安置している六十六部の石仏は昔の国名、六十六国を廻国し納経する聖を意味し、六十六体の石仏を納めたもので、現在は半分ほど残っているという。外側の石仏を眺めていて、ここの山門と境内にある建物の位置が微妙に歪んでいるように思えた。瑞龍寺から北側の道を廻るようにいくとJR城端線の踏切があり、その先に総持寺の裏門というか東側の門がある。正門は北側にある。念のため総持寺と東側の門を結んで延長してみた、前田利長墓にぶつかった。本堂と正門の延長上には高岡城の大手門があった。町を歩いていると方向感覚が少しずつズレていくような不思議な感覚にとらわれる。総持寺は巡れば西国三十三観音霊場を巡礼したのと同じご利益があるといわれている高岡の新西国三十三観音札所の二十八番札所です。
瑞龍寺四箇寺と呼ばれた塔頭寺院、東漸院、亀占庵、林洞庵(今林洞寺)、法性寺の内、今残る林洞寺、東漸院を廻った。城端線に沿って林洞寺に向かう。途中、だいたい1時間に1本しか運転していない城端線の電車が横を通過した。なにか珍しいものに出会って徳をした感じになる。
 
 
 
林洞寺は総持寺の南にあり、高岡新西国三十三観音の十一番札所となっている。
東漸院は瑞龍寺の南側にあり、瑞龍寺の塔頭寺院の筆頭であった寺院で高岡新西国三十三観音札所場の九番札所です。ちょうど瑞龍寺を時計と反対周りに一周したことになる。
 
 
高岡城下での寺の加賀藩での正月年頭御作法が「北藩秘鑑」にあった。筆頭が十帖一巻の総持寺、十帖一本が瑞龍寺、繁久寺が中畧の十帖一本、それに瑞龍寺塔頭四箇寺が連なる。総持寺が瑞龍寺よりの寺格が上だったのに驚く。

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高岡 瑞龍寺

2019-08-07 | 

「曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。利長公は高岡に築城し、この地で亡くなった。加賀百二十万石を譲られた義弟利常は、深くその恩を感じ、時の名工山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山とされた。造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要した。当時、寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。国の重要文化財として、指定されている建造物は、総門、山門、仏殿、法堂、明王堂(現僧堂)、回廊であり、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている」。長々と瑞龍寺のサイトから引用させてもらった。
 
  
仏殿、法堂、山門は平成9年(1997)、国宝に指定されて、昭和3年から平成9年にかけて、総門、禪堂、回廊、高廊下、大茶室が国の重要文化財に指定されている。
 
 
文化庁の解説に「延享三年<一七四六>に山門と回廊の前半部分及びその脇にあった禅堂などが焼失したが、江戸時代後期にほぼ旧状の配置で再建され、 山門は創建時の大工山上善右衛門(加賀藩御大工)の後裔にあたる大工が建てたもので、禅宗様の手法になる三間一戸の二重門であり、古式な手法をもつ。鳥蒭沙摩明王堂(旧禅堂)や高廊下、回廊は伽藍を構成する重要な要素である。当寺は大規模な曹洞宗寺院の中でも、整備された伽藍配置をもっともよく残すものの一つであり云々」とあった。法堂の左手回廊に外に出られるところがあった。なにがあるのだろうと向かうと、石廟が五基並んでいた。
 
 
前田利長宝篋印塔
 
前田利家                 織田信長
 
織田信長側室               織田信忠
 
国指定重要文化財僧堂
 
 
前田利長は本能寺の変後、織田信長父子の分骨を迎えてその霊を慰めたと伝えられ、利長の菩提寺瑞龍寺を造営したとき、開山広山恕陽禅師が利長父子も加えて同じ形式の五基を建造したのが,この石廟で、向かって右から前田利長(高岡開祖)、前田利家(加賀藩祖)、織田信長(利長室玉泉院父)、織田信長側室(正覚院・利長室永姫生母)、織田信忠(信長嫡男)の五人の霊廟だという。前田利長墓と瑞龍寺、それを結ぶ八町道、みな向きがバラバラで気になっていた。織田信長親子の石廟がいつ造られたかわからないが、八町道の延長上に瑞龍寺山門があり、さらに延長するとこの石廟にぶつかるのではないだろうか。瑞龍寺山門と法堂を結ぶ線が東西軸から五度北に偏っている。利長墓所と瑞龍寺石廟を結ぶ参道が八町道という事になる。そうすると利長墓所の正面は何処を向いているのだろうか。5度傾いている瑞龍寺中心線と利長墓所からの延長線と直角に交わる延長178.8kmの先にあったのが、前田氏発祥の名古屋荒子城、高岡城と利長墓所を結んだ200km先にあったのが岡崎城、利長祖父の菩提寺、能登七尾の長齢寺を結ぶと高岡城を通る。高岡城と瑞龍寺の延長上、266km先にあったのが大坂城、前田一族の居城だった越前府中城(現越前市役所)と瑞龍寺を結ぶ延長上に高岡城がある。これはGoogleマップの距離測定での計測と高岡城の正中点が不明で、利長墓所と瑞龍寺と比べて高岡城の面積が大きく、遠方から利長墓所、瑞龍寺を通過させると、おおかた城にぶつかるという欠点はあった。金沢でも城の向きが不思議に思っていたので、金沢城小立野口から真っすぐ延びる小立野通の234km延長先にあったのが静岡駿府城、金沢城の真南に伊勢神宮内宮(経度0.065度差)があった。加賀百万石と言われた金沢藩も創成期には色々な所に気を使い存続に大変だったのだろう。

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高岡 前田利長墓所

2019-08-01 | 掃苔

数年前、金沢市の野田山にある加賀藩主前田家歴代の墓所にいった。
左)野田山前田利長墓           右)前田利常墓
 
ここの墳墓及び碑は平成21年(2009)、国の史跡名勝記念物として指定を受けている。説明に「加賀藩主前田家墓所は、江戸時代、加賀・越中・能登三カ国を領した加賀藩主前田家歴代の墓所であり、石川県金沢市の野田山に営まれた歴代墓所と、富山県高岡市に造営された前田利長墓所の2カ所からなる」とあり、野田山の藩祖前田利正室芳春院(まつ)隣にある前田利長墓以外に高岡市に利長墓があるのを知った。高岡市がどこにあるのか知らなかったが、何時か行ってみたいと思ってから三年経った。
高岡市の前田利長墓所は、利長の三十三回忌に当たる正保三年(1646)、三代利常が利長隠居・終焉の地高岡に造営したものだという。なぜ利長が焼失した富山城のあと高岡に城を築いたか分からないが、この高岡は前田氏本城、金沢城の鬼門に当たっている。前田利長墓所は真北から5度東を向いている。どこに正対しているのだろうか。
 
 
 
利長墓所を訪ねた日は、朝からの雨で靴がビシャビシャになる。水はけの悪い参道には参った。墓所は外堀一辺百間(180m)の正方形(約1万坪)で、二重の堀で囲まれ、中心には、戸室石の二重基壇上に笠塔婆型墓碑が立つ。境内墓の前に「七重の石の塔燈籠あり高さ二十丈余と云丸き石中にあり是を千人釣ノ石と云此燈籠二基大坂よりとりよせられしに一基は故ありて建られず」とあり、大名個人墓として全国最大級の規模を誇るという。野田山の前田家墓所にある利長墓が何時、造成されたか判らないが、三代利常が二代利長に大恩を感じていたことは間違いない。それにしてもなぜ、高岡に利長墓を造営するのに三十年以上の月日がかかったのだろうか。高岡史料に「利長公は以て天下の平定を速ならしめん為、以て百万石の加藩を維持せん為慶長十九年五月二十日高岡城に於て自害を遂げられしなりとは古来我高岡地方に傳ふる口碑なり」との記述があった。口碑とは「石碑のようにながく後世に伝わりのこる」で、こんな話が残っているのを初めて知った。謀反と生涯疑われた利長について、幕府に気を使ったのだろうか。利長三十三回忌の年は第三代前田利常五十三歳、ちょうど利長が亡くなった歳と同じになる。利常、法円寺に於て利長の火葬を行うとあった。この時の利長の埋葬地は法円寺(現端龍寺)、繁久寺(旧地)、現利長墓のうち、どこだったのだろう。加賀藩史料に「正保元年(1644)、高岡瑞龍寺利長(英賢)石塔浅加左京奉行たり」また「正保二年(1645)、前田利常高岡繁久寺に土地五萬参千七百歩余寄進す」とある。一歩は一坪なので五万坪以上の広さになる。ここに墓所壱万坪が含まれるのは分からなかったが、繁久寺は永禄五年(1562)射水郡南條の城主加納中務と云者の発起で、むかし守山に在り、利長在城の折、参拝した寺で利常の命により正保三年(1646)、高岡の利長墓前に移転させ、寺領五十石を与え墓所の墓守供養を命じた。
 
 
墓所から利長の菩提寺まで直道八町あり八町道と呼ばれている。この道も東西の基軸から各5度ズレがあった。利長墓所や瑞龍寺、それをつなぐ参道の八町道を地図上で見ても、それぞれの向きがバラバラで美しくない。念の為、瑞龍寺の総門と法堂を結ぶ線と東西の基軸と比べたら5度北に偏っていた。この偏りはなぜだろうと思いながら瑞龍寺に向かった。

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