大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

御香宮東軍戦死者名簿

2008-07-26 | 會津
京都伏見に御香宮神社がある。

この御香宮に、戊辰戦役三十年にあたる明治三十年五月に
「戊辰之役東軍伏見鳥羽淀八幡に於て戦死及殉難者人名簿」
が奉納された。

明治四十年に一部修正され、以降調査がなされ
大正十五年に完成されという。最終人員二百八十三名とあるが
一部重複がある。

会津藩士に係る人名は江戸藩邸で屠腹した軍事奉行
神保修理を含めて百二十九名の記載がある。


明治四十年に建立された黒谷会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑に
記載があり、御香宮戦死及殉難者人名簿に記載のいない者、

有(在)竹清蔵、有竹五郎太、服部幸次郎、水野牛次郎、
安藤牛助(安藤丑助と重複か)
町野源三郎(五月一日磐城白河戦死)
町野源次郎(八月二十一日会越後五泉在戦死)
以上7名

御香宮戦死者名簿に記載があり、黒谷会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑に
記載のない者。

秋山鉄次郎、石井甚吾、伊深金治、柏村重兵衛門、桐川市太郎
久米新助、倉沢豊三郎、佐々木悦次郎、佐藤源三、沢田富之助
諏訪弘三、高畑平蔵、寺沢兵庫、中田伝蔵、中村謙(健)治
野田清次郎、林駒之助、水野兵吾(庫)、矢ヶ崎五郎太、吉田留八、
神保修理
以上21名
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京都黒谷会津藩墓地

2008-07-14 | 會津
明治三十九年、京都黒谷の会津墓地の保存改修と
伏見淀鳥羽に於ける戦死者の氏名碑建設の義損金募集の
経緯が記載されている資料が残されている。


募金趣意書
京都黒谷の丘老松鬱として茂り翠陰の蔽ふ所墳墓ならざるなく
而して其の清掃せられて繍洒しへきものあり。

然るに紫雲石の後方に一区あり、敢て狭少ならさるも累々たる
碑石多くは傾斜し甚しきは其礎石さへも散逸して草茅徒らに蔓り、
恰も無縁塚の観をなし人をして轉た凄愴の情を起さしもるものあり、
之を会津墓地と称す。

此墓地や、旧会津藩京師守護職の時代に開かれ、彼の元治甲子の役九重を
守護して朝敵を撃退せし際、名誉の戦死を遂けたる我近衛将士を埋葬せる所なり。

明治維新に至り順逆名を異にし、一藩殆んと瓦解の不幸に遭ひ
藩人四方に離散したる結果、此黒谷墓地の如きも之を願みるの暇なく、
自ら其荒廃に委するの外なかりしか。

茲に会津小鉄と称する故上坂仙吉氏あり、曾て我藩の恩義を受けたるを徳とし、
独力其酒掃に任し忌日毎に香花を供して幽魂を慰め多年之を怠らさりしか、
往年不帰の客となれり。

その後、矢ッ車大西松之助氏、小鉄の志を継き、西雲院の住職家田真乗師等と
心を協せ力を合せて墓地の清除並に忌日の法要を営み、在京阪神等の旧藩人を
會して忠魂を追吊し来り、漸くにして今日の現状を保つを得たり。

先年家田住職其他縁故者の発起に依り、年々追吊の法會を執行して、
永く祭祀を絶たさる計画を立て、義損金募集の挙ありしも不幸にして
其目的を達する能はす以て今日に至れり。

我等旧藩人たるも、王事に殉したる我父兄の忠魂毅魄を留むる
此黒谷墓地を等閑に付して其荒廃に帰する豈に我等の心ならんや、
况んや旧藩の碌を食まさる人にして尚此義侠を以手て墓地を保存し
祭祀を営み来りしに対し中心慚愧の念なき能はず。

尚ほ前記黒谷墓地の外、鳥羽伏見等に於ける慶応年間の戦死者を埋葬せし
各墓地は次第に埋没して其形跡を絶たんとする恐あれは、此際を期し
之に修理を加へ永く保存するの必要を認め併せ之を決行せんとす。

茲に下名の者発起して、広く同人諸君に訴へ、此名誉ある会津墓地を
修理保存して、其祭を永遠に伝へんとす。是れ我等の先人に対する
義務なるを以て諸君が欣んて賛成義損せらるるを信し、
敢て此計画を以て諸君に計り其成就せんことを冀ふ。
                      
一、黒谷墓地工事は、地均し及石碑の傾き等を直す。
二、周囲の土止め及生垣を設ける。
三、入口の位置を中央に移し新たに門柱を建設する。
四、伏見淀鳥羽に於ける戦死者の氏名碑を建設する。
五、同墓所の道しるべ石標を設ける。

此の時の五百八十五名による義捐金で明治四十年三月に建立されたのが、
今黒谷会津藩墓地にある鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る
「会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑」です。



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空也門中

2008-07-09 | その他
東京向島に百花園と言う花やしきがある。ここに1つの茶筅塚が残っている。

「おりたらん 草の錦や 花やしき  黙翁」
柘植黙翁は徳川の家人で祐筆をつとめ、茶道を好み千家の門に入った人。

この碑陰に関東空也門中として大勢の名が刻まれていた。
一周忌に門人達が師の遺志を継いで建てた碑で、最初に華族高輪松平、
二番目に一圓庵不白の名がある。

一圓庵不白は江戸千家七世蓮々斎で、上野池之端に移築した茶家を
一圓庵と云い、東都における不白流茶道の家元として江戸千家七代を名のっている。

「空也最中」で有名な銀座の和菓子屋の創業者が関東空也衆だったと
記述した本があった。関東空也衆ってどんな集団だったのだろう?
和菓子屋空也も創業は上野池の端、江戸千家に和菓子を納めていたのだろうか?

この花やしきに、もう1つの空也門中とある碑陰がある。

こちらは鷺流狂言の名手矢田哉の碑、当時能役者は歌舞伎役者に
公に芸を教えることが許されず、矢田哉が九代目団十郎の頼みによって
稽古をして、哉は能舞台を踏むことが出来なかったと云う。

碑陰には九代目団十郎を始、団門直系の新蔵、染五郎、猿蔵の名がある。
弟子でもあった鏑木清方のエッセイ「鷺流の狂言」で、矢田先生の追福会は
供養の空也念仏や狂言数番などの余興で盛大に行われたと書いている。

いずれも門中とあり、明治中頃までは文化人の間で、
空也念仏の集まりは盛んだったと思われる。

今、会津若松の冬木沢八葉寺に空也念仏踊りが残っている。
大正年間に、京都極楽院空也堂鉢たたき系統の空也光勝会から
空也念仏踊りの聖典次第・節回し・動作等を伝授されたという。

光勝は空也が天台宗の比叡山延暦寺で得度受戒して与えられた僧名。
しかし、空也自身はこの僧名を使うことは無かったと言う。
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旧会津藩士佐瀬得所 遺徳之碑

2008-07-03 | その他
芝公園の増上寺に明治十一年一月、
五十七才で没した、佐瀬得所の遺徳之碑がある。


この碑は明治十一年四月に旧門弟の義損より建碑された。
委員は市瀬純次他四名、補助員は玉川堂和助他一名。

得所翁は旧会津藩士にして、書法の大家たりし事は世人の
あまねく知る所なり。翁の没するや子弟慟哭して其墓地を
去らさりしと云う。

この碑は同年四月、前田利嗣、寺嶋誠一郎、中鉢美明、
浦口善養氏等二百有余名が義損して、其碑文は重野成齋選、
翁愛用の大筆をその下に埋めて方丈池の側に建碑した。

現在、碑は増上寺の方丈門左側、慈雲閣と経蔵の間に移されている。
残念な事に、この碑は上部が破損している。30年前出版された
本には、破損部分は碑の裏に置かれていると書かれていた。

今、碑の裏の2mほど離れた藪中、経蔵裏側に破損部分が放置してある。
二年前、増上寺の社務所で、この碑のことを知っている人は誰もいなかった。

資料も揃った。増上寺の社務所に行こうと思っている。
破損部分が只の石と間違われて破棄される前に!!
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