大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

南足柄 清左衛門地獄池

2021-01-29 | 小田原

極楽寺から地獄池へ向かう途中、狩野公民館の敷地に加藤幾兵衛翁顕彰碑、狩野生産森林組合による愛林碑、富士浅間大菩薩碑の石碑があった。


加藤幾兵衛って誰だろうと思いながらスルーしてしまったが、あとで風土記に「旧家幾兵衛 里生ナリ、加藤ヲ氏トス、先祖織部後清左衛門ト改。文明中ヨリ里正ヲ勤メ今ニ至リテ十四代連綿ス」との記述があり、地獄池の名前の清左衛門と何らかの関係があるのかも知れなかった。もう少し顕彰碑の裏面を見ればよかった。ここから歩いて3,4分で赤い鳥居が見えてくる。池を割るように中央に狩野厳島神社がある。


昔は弁天社と池は御手洗池として風土記稿に「弁天社 御手洗池の中島に鎮座す(池廻り凡六十間許)、池中澄て底あらはに見ゆ中程に水沸騰する所あり、土俗呼ひて清左衛門地獄と云。人池辺に在て清左衛門と呼は、水益沸騰すとなり(按するに足柄下郡底倉村小地獄にも清左衛門地獄と云処あり。又豆州熱海の温泉にも平左衛門地獄と云あり。当所の如きも其類なるへし)この水を延て田間に沃く旱魃にも涸る事なしと云」とある。御手洗(みたらい)と云うのは、神社や寺院で、参拝者が手や口を洗って身を清める所を云うが、団子は諸説あるが、京都下賀茂神社の祭りで、御手洗池の水泡を模して団子を供えたことによるという話もある。では、お手洗いは名詞の「手洗」に、接頭辞「お」をつけて、丁寧に表現したものだという。古くからある造成語かと思ったら存外新しくまだ百年も経っていなみたいです。清左衛門地獄池のある狩野地区は、神奈川の南足柄市と箱根町の境にある箱根山の古期外輪山の明神ヶ岳の北東の末端にあり東側には酒匂川水系狩川、南に谷津川、北に大雄川に挟まれ、無数の沢に湧水があり、町なかの側溝の水量も豊富で流れも速い。この湧水の豊富さに目をつけ、大日本セルロイドが写真フィルム工業化を計画、昭和九年(1934)、フイルム事業を分離し、富士写真フイルム株式会社を設立し、この池のそばに工場建設し、現在は富士フイルムの第二水源地として、工業用水としても利用されている。昭和三十九年には伊豆箱根鉄道大雄山線「富士フイルム前駅」が開設された。昭和60年(1985)、環境庁が選定した昭和の名水百選のあと、平成20年(2008)、環境省が選定した全国各地百ヶ所の湧水・河川(用水)・地下水のなか、平成の名水百選に清左衛門地獄池が選ばれている。
隣に弁財寺があった。


風土記稿によれば「観池山と号す、浄土宗(足柄下郡塔ノ沢阿弥陀寺末)、開山禅誓」とあり、明治期に尼寺となっていたが、戦前、本堂が焼失し無住の寺となった。近年、地域住民によって本堂が再建され、平成27年(2015)、単立宗教法人として登録されている。境内に石佛が多く並んでいた。

一段と大きい石仏は六世天質忍孝尼、一番左端は九世幸運尼の墓だろうか。寛政元年(1789)、狩野の名主らで巳待講を立て、本寺の塔ノ沢阿弥陀寺から蛇形弁財天を10年の期限付きで弁財寺が預かった証文が残されている。天保十二年(1841)成立の新編相模国風土記稿の塔ノ沢阿弥陀寺の項に寺宝として肉身蛇形弁天像一体とあるので無事戻されたようです。弁財天信仰の盛んな地域では、弁財天の縁日である巳の日に弁財天に参詣する講を組織した。弁財寺の境内に巳待講や巳待塔の碑がないか探したが分からなかった。

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南足柄 極楽寺

2021-01-22 | 小田原

鉞担いだ金太郎のふるさと、南足柄の極楽寺から地獄池か、地獄池から極楽寺に廻るか迷ったが、途中でも帰れるように極楽寺から廻ることにした。



このお寺、新編相模風土記稿に記載があるが内容が難しく、解る所を記載すると「上関山ト号ス、臨済宗、鎌倉円覚寺末、庚永三年ノ起立ナリ、開山法忻」とある。庚永の年号を探してしまった。庚永三年は康永三年(1344)の誤記か。起立と創建、同じ意味なのだろうか。開基は今川五郎範国入道心省(法名定光寺殿悟庵心省)、中興開基松田尾張守憲秀(法名極楽寺雲章喜公)とある。極楽寺ははじめ定慧山極楽寺という法相宗の寺であったが、のち百丈山極楽寺と称し禅寺に改宗、二世季高法雲の時、山号を上関山に改めという。大喜法忻が二十九歳の時で、開基の今川五郎範国は大喜の弟になる。康安元年(1361)に大喜は鎌倉円覚寺三十世住持となり、さらに貞治三年(1364)、建長寺住持となっている。後光厳天皇から「仏満禅師」の禅師号を贈られている。松田氏は相模松田郷の国人領主で、伊勢宗端の大森氏小田原城攻略が明応四年(1495)から文亀元年(1501)の間だとすると、上杉禅宗の乱で西相模に進出した大森氏の台頭により、没落した松田氏のどの支族が伊勢氏の家臣となったのだろうか。
秀吉は天正十八年(1590)の小田原合戦のあと、北條氏直を助命し、首謀者として北條氏政、氏照。大道寺政繁、松田憲秀四人の切腹を命じた。北條氏政、氏照は七月十一日に自刃したとされるが、北條氏の宿老であった松田憲秀も田村安栖方にて自刃したと伝わるが自刃の日時、場所ははっきりしない。

極楽寺本堂の裏山にある松田憲秀の墓を訪ねる。裏山への登り口が分からずウロウロしてしまった。


本堂の左手の墓地を巻いて進むと斜めに山に入る道があり、20mほど登った所に四基の石塔がある。左から二基目が開祖大喜法忻(仏満禅師)の寂照塔(供養塔)、風土記稿によれば、法忻は足利尊氏ノ家臣、今川基氏の第三子、鎌倉円覚寺三十世の後、山内の続燈庵を営み、応安元年(1368)九月廿四日、庵の後の岩窟で入定したと云う。
 

開祖寂照塔
応安元戊申年九月廿四日於瑞鹿山中灯菴后岩窟入定偈諸佛降跡所續灯大光明岩上開一室一坐五百生□塔曰祥光
  
四基の右端が松田尾張守憲秀墓と伝わる。風土記稿に「二十五回忌追福ノ為二建テシ物ト云ド、寛永十年五月十一日ノ文字仄カニ見ユ」とある。供養塔と伝わる石塔の文字は殆ど読み取れなかった。
(右)于□□□□喜公居士 (中央)□□五回忌之石塔建立之□ (左)寛永十癸酉□五月□一日□□
天正十八年(1590)から石塔に刻まれた寛永十年(1633)までは四十三年になる。風土記稿も「云ど」と疑問形にしている。松田憲秀の供養塔と伝わる石塔は誰によって、いつ建立されたものなのだろうか。

この墓域の途中にいくつかの筆子塚があった。五基の無縫塔の真ん中、吐月墖(塔)は当山十六世別峯法教大和尚の供養塔。これは極楽寺での寺子屋の教え子(筆子)が師匠を偲んで建立した供養塔です。

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