伊勢原上粕屋にある洞昌寺太田道灌胴塚は、七人塚から歩いて二,三分のところにある。
寛政重修諸家譜、清和源氏頼光流太田系図、資長(入道号道灌)「両上杉隙あり、山内顯定、扇谷定政が兵威を揑かんがため、人をして道灌を讒せしむ、これより定政、道灌をうたがい、七月二十六日相模国糟屋の舘において殺害せらる。年五十五、法名道灌、其地糟屋庄秋山洞昌院の裏山に葬る」とあり、洞昌院は新編相模国風土記稿に「蟠龍山公所寺(公所は寺邊の字なり)と號す(津久井縣根小屋村功雲寺末)開山崇旭(長禄二年三月十五日卒)中興陽室照寅(天文八年七月二日卒)開基は太田左衛門大夫持資入道道灌(文明十八年七月二十六日卒、法名洞昌院心圓道灌)なり。釈迦を本尊とす。寺領三石の御朱印は、天正十九年賜りしが、寛永六年九月九日、火災に罹り、烏有せしを以て、十九年再び賜ふ(岡田淡路守重治推挙す)」とある。太田道灌墓、風土記稿に「五輪塔(高三尺五寸許)傍に古松二株(一は囲一丈六尺、一は一丈)あり。按ずるに、石塔の様當時の物にあらず、後世建し物と見ゆ、下村浅間社別當大慈寺にも、道灌の墳墓あれど、當院に埋葬せし事其證(寛永系譜其文下に註す)あり、道灌は太田備中守資清の子にして、左衛門大夫持資(初資長)と稱す。長禄元年、武州江戸、及川越岩槻の三城を築く。(寛永譜曰、資長、源六郎、左衛門大夫、剃髪して道灌と號す、歌人、相州の人なり。長禄元年、千代田、斎田、寳田三氏の家臣に命じて、城郭を江戸、川越、岩槻に築く)道灌軍法に精きを以て、世に師範と稱せられ、屢軍功あり。(曰、道灌常に古今諸家の兵書を読て、軍法の道に達し、能く城郭の地を知る。此故に世に軍法の師範と稱す、若年の時より、数度軍功あり)扇谷上杉修理大夫定正に属して用いらる、故に関東の諸家大に服し、関西の諸将も、其風を慕ふ者あり。又和歌を好む(曰、道灌もとより扇谷修理大夫定正が招に應じて、関東八州を以て是を指揮す、定正深く是に任じて、萬大小となく、道灌に問きく、是に依て関東の諸家、心を道灌に寄せずと云者なし、関西の諸大将も其風を聞て靡き従ふ者又多し。道灌父が風俗を慕ひて、和歌を好む、加之諸子百家の史傳、并に本朝二十一代集等の書籍を集め貯て、平生のもてあそびとす、其詠ずる所の家の集十一巻、其類を分て、砕玉類題と號す。按ずるに、今道灌の家集と云は、慕景集と名づけ、僅に一巻あり、残闕なるか)云々」また「文明十八年七月、讒言に依って、當所定正の館(館蹟の事下條にあり)にして誅せられ、當院に葬す。(寛永譜曰、七月廿六日、相州糟屋定正が館に入て卒す、五十五歳、秋山上糟屋洞昌院に荼毘す)」とある。太田道灌の墳墓に近づくとトタンで造られた六角錐の蓋をかぶせた古切株が二つ墓の前に在った。
風土記稿にある図には両側に大きな松がありその間に五輪塔が描かれている。墓に近づいてびっくり。五輪塔が宝篋印塔に替わっていた。徳富猪一郎が大正十五年四月にここを訪れ「今は向かって右則の松は、只だ枯株のみを剰まし、其の左側のは、堂々として天を衝いている云々、而して五輪塔の代わりに、今は宝篋印塔がある」と書き残している。大正十五年にはすでに宝篋印塔に替わっていたことになる。
墓域の横に数多くの宝篋印塔、五輪塔が並べられていた。極楽寺跡から移設された石塔群だという。
洞昌寺の北にある厚木七沢の大山の麓、実蒔原は山内、扇谷の両上杉勢が戦った古戦場跡、この集められた石塔群は兵どもの夢の跡なのだろうか。
小田急伊勢原駅から大山ケーブルに向かう途中に上粕屋神社がある。昔は糟屋庄上糟屋村と呼ばれ、今は伊勢原市上粕屋と表記されている。この地で殺された太田道灌と何らかの関係があるかと太田道灌の胴墓に行く前に訪ねた。
神奈川県神社庁のHPにある上粕屋神社(山王社)に祀られている御祭神をみてびっくりした。大山咋神、大穴牟遅神、若山咋命、伊弉諾命、速玉男命、事解男命、伊弉冊命、菊理比売命、泉道守命、日本武尊、天穂日命、大己貴命、少彦名命、事代主命、三穂津姫命の神が祀られている。何をお願いしても聞いて貰えそうな気がしてきた。神社庁記載の上粕屋神社由緒によれば「本神は勧請年月日不詳であるが、大同・弘仁の頃近江の国の日吉神を当所に移し勧請したと申し伝へる。又、風土記稿によれば、天平年中僧良弁の勧請なりという。元禄四年辛未十月十五日、社殿を再建し、山王権現と称した。当時徳川幕府朱印高壱石五斗であった。明治二年六月、日枝神社と改称し、当時の例大祭は三月三日で、競馬神事、神楽を奉納し、六月二十二日と十二月二日には年の市を執行した。明治六年発酉七月、字和田内鎮座の熊野神社 (朱印高二石)と、字石倉上鎮座の白山社を合祀し上粕屋神社と改称した。更に、昭和三十九年四月、字峯岸鎮座の御嶽神社を、昭和四十一年十月、字秋山鎮座の五霊神社を合祀して現在に至っている」とある。新編相模国風土記稿に上糟屋村山王社の記載があった。「天平年中、僧良辨(大山寺開山)ノ勧請ナリト云。小名山王原ノ鎮守ナリ。例祭六月廿二日(毎年十二月廿日、社地ニ年ノ市立リ)幣殿、拝殿、神楽殿等アリ。社領一石五斗ノ御朱印ハ前(天正十九年十一月・1583)ト同時ニ賜フ。槻ノ大樹(囲二丈餘)ヲ神木トス」とある。
「槻」が読めなかった。訓で「つき」、欅の古名だという。上粕屋神社の北、約400mの所に伊勢原市が上杉館跡と指定した史蹟がある。今は原っぱだけなので訪ねなかったが、風土記稿に「高見原、村ノ中程ニテ廣十町、□四町許ノ地ナリ、古戦場ナリト云。今都テ白田トナレリ、此邊ニ古塚廿六基アリ、当時戦死ノ者ノ塚ナルベシ」また「文明十八年(1486)七月、上杉修理大夫定正、太田道灌ヲ誅セシ時、上杉民部大輔顯定、合力トシテ高見原ノ出馬スト。サレド合戦アリシトハ見エズ」とあり「両上杉氏合戦アリシ高見原ハ上州ノ地ニテ当所ニアラズ」としている。
参道の脇にある山王原公民館の隣に七人塚があった。
入口に環境省・神奈川県の説明板があり「江戸城の築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌 謀反あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客により暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした道灌の家臣7名の墓で「七人塚」と伝えられています。この塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に7つ並んでいましたが、明治の末に開墾するとき一つ残された伴頭のものといわれ、今でも七人塚と呼ばれています」とあった。環境省・神奈川県の説明板があるのは、この上粕屋地区に土地区画整理があったのか、これから始まるのだろうか。道路整備や区画整理などで、相模の武士たちの古塚がどんどん無くなっていくと思うと悲しい。
米倉一族菩提寺の一つ、足柄上郡井ノ口村(今の中井町)にある米倉寺(べいそうじ)は編相模風土記稿に「井宝山ト号ス(大住郡堀山下村蔵林寺末)、開山宗高。古ハ鳳安寺ト号シ、今ノ地ノ乾方二アリ。寛永ノ頃、時ノ地頭米倉平大夫繁次(慶安二年十一月死ス。法名光屋院心叟浄本。按ズルニ寛永譜及重修譜重種ニ作ル、サレド当寺寛永中ノ鐘銘ニモ繁次トアレバ、是非ヲ決シ難シ)此地ヲ寄附シ堂宇ヲ爰ニ移シテ再興シ、今ノ寺号ニ改メ、父丹後守信継(法名米倉寺乗法道心寛永十三年四月八日卒、寛永譜及ヒ重修譜ヲ参考スルニ信継初六郎右衛門ト云。丹後守宗継ガ三男ニシテ兄主計助忠継ガ養子トナリテ家ヲ継キ天正十八年御入国ノ後、甲斐国釆地ヲ当国ヲ遷サレ此地ヲ知行スト云)ヲ開基トス云々」「米倉丹後守信継墓、本堂ノ後丘ニ在、此余子孫ノ墳墓数基アリ」とある。
米倉寺の米倉一族の墓は、米倉丹後守種継・平太夫繁次・権平まで三代の墓で、一枚墓石・五輪塔・宝筺印塔などは、三百数十年もの風雪に耐え米倉一族墓石、供養塔十基が中井町指定重要文化財となっているという。寛政重修諸家譜に「平大夫重種以下系嗣ヲ詳ニセズ。米倉丹後守昌由ガ今ノ呈譜ニ、逸見黒源太清光ガ男奈胡十郎義行ガ三代弥太郎信継ヨリ米倉ヲ称ス。重継ハソノ十代ノ孫ナリトイウ」と安永六年(1777)生まれの米倉昌由により幕府に呈譜されたが、「平大夫重種以下系嗣ヲ詳ニセズ」とある。重継の子信継が八十九歳、その孫政継が九十四歳の長寿にして、系譜を繋げたのではないだろうか。米倉重継の名が残るのは、竹を束ねて縄で縛って銃丸を防ぐ楯とした竹束を考え武川衆として戦功をあげたことに拠る。武川衆というのは、甲斐国志に「武田五郎信光ノ末男六郎信長ト云者忠頼ノ家蹟ヲ継テ一條氏ト号ス其子八郎信継ノ男時信一條源八ト称シ甲斐ノ守護職ニ任セラル男子十数輩アリ武川筋ノ村里ニ分封シテ各其地名ヲ氏号トス祖孫繁栄シテ世ニ武川衆ト号セリ」とあり、青木氏、柳沢氏、横手氏、山寺氏、宮脇氏、米倉氏、折井氏、入戸野氏など戦闘集団の武川衆がいる。このなかで大名となったのは柳沢氏と米倉氏だけで、この柳沢家と米倉家は婚姻関係で結ばれている。米倉信継の嫡男永時(清経)の妻は柳沢吉保の祖父信俊の娘で、柳沢吉保の子忠仰は米倉昌照の養子となり六浦藩四代藩主を継いでいる。米倉寺の説明では米倉丹後守種継・平太夫繁次・権平まで三代の墓があるという。米倉家の墓域には、四基の宝篋印塔と三基の五輪塔、二基の板碑型石塔と石佛一基があった。
いずれも文字が摩滅して判読できなかったが、板碑型石塔一基の上部に米倉院とあったので、この板碑が米倉種継(米倉院殿無常道心居士)の板石塔婆なのだろうか。端の宝篋印塔の台座にかろうじて正月十六日と判読できるので米倉永時の四男で重種の後を継いだ昌継の供養塔か。重修譜には繁次と権平の名がない。重修譜によれば信継(種継)の遺蹟を継いだ重種とその子も平太夫を名乗っている。平太夫繁次と重種、種勝と昌継はそれぞれ別人なのか同一人物なのか、また米倉寺に墓があるという権平とは誰なのかよく分からなかった。
上杉龍若丸と神尾氏との関係で、上杉憲政の事績を調べていて信濃の志賀城主笠原清繁と武田勢との戦(小田井原の戦)で笠原を加勢した上杉勢は大敗した。この戦いの中で武田勢甘利衆同心頭の米倉重継という武将を知った。武田家滅亡のあと、米倉重継の子孫が家康に仕え、のちに大名となり金沢八景の六浦に陣屋を構えていたという。神奈川に小田原藩以外に大名がいたことに驚いた。この米倉氏の菩提寺が秦野の蔵林寺だというので出かけた。蔵林寺は小田急渋沢駅からバスで15分位、水無川に架かる吊り橋のある秦野戸川公園そばで水無川の右岸にある。
蔵林寺は新編相模風土記稿によれば「大育山ト号ス。曹洞宗、徳年中開山瑞秀祥禎、当寺ヲ堀山ノ中二創建シ文明年中、今ノ所二移転ス。天正ノ頃飯田道久ト云者中興ス。寛文十三年(1674)九世牧泉養牛カ時、米倉丹後守昌尹再中興セリ云々」とある。昭和43年、秦野市の史跡文化財登録の「米倉丹後守一族の墓地」の説明に「秦野市堀山下にある蔵林寺には、江戸時代の大名米倉氏の墓所があります。現在も初代から15代までの当主一族の墓石20基、石灯籠23基、家老塚1基が残っており、当地には5代昌純と6代昌尹(まさただ)が埋葬されています(他の当主は墓石のみで埋葬は他の寺)。最も古いと思われる墓石は、元禄5年(1692)、昌尹が建立した初代重継、2代忠継の墓石です。昌尹は、祖父清継が徳川家康から賜った領地が堀山下村にあることから、同村の蔵林寺を菩提寺とし、ここに墓所を設けたとみられます。(米倉家系図では、戦国時代、長篠の戦で戦死した重継を初代としています)」とある。寛政重修諸家譜米倉氏系図に米倉昌尹とその父米倉政継(昌純)、堀山下蔵林寺に葬るとあり、米倉一族の墓地は本堂に向かって左手の石段を上がったところにある。
上段中段に蔵林院(昌尹)の墓を中心に十二基の墓、下段には家族墓(?)と家老塚が並ぶ。近世米倉氏の初代は誰とするかはっきりしなかったが、蔵林寺米倉一族の墓地の中心にある米倉昌尹(蔵林院)を初代として、十代昌寿(昌寿院)までの十基と武田甘利勢として天正三年(1575)、長篠の戦いで戦死した宗継(重継)の供養墓(甲)と二代昌明の弟、昌仲(忠直・徳心)の墓(乙)があったが、昌尹の父政継(昌純)の墓は見つけることが出来なかった。
初代蔵林院墓
十代昌寿院墓 右)大育院(遠祖宗継)と浄鏡院(妻)の供養塔
米倉昌尹が蔵林寺を再建したのが寛文十三年(1673)、亡くなったのが元禄十二年(1699)、昌尹の父政継(昌純)が亡くなったのが宝永四年(1707)、九十四歳だったという。逆算すると政継の生まれは慶長十九年(1614)前後となる。寛政重修諸家譜に「平大夫重種以下系嗣を詳にせず。米倉丹後守昌由が今の呈譜に、逸見黒源太清光が男、奈胡十郎義行が三代弥太郎信継より米倉を称す。重継はその十代の孫なりという」とあり、名乗りも、初名、通称、字、諱、諡と複数あり系嗣を特定するのが難しい。系譜も後世に作られたものも多く、米倉一族も呈譜にはかなり苦労したのではないだろうか。相模に有るもう一つの米倉一族の菩提寺である米倉寺に向かった。
注)蔵林寺米倉丹後守一族の墓地略図は米倉昌尹(蔵林院)を初代とした