大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

卓袱料理 長崎花月

2010-12-28 | 
長崎を代表する料理と思い、長崎ちゃんぽんにするか卓袱料理(しっぽく)にするか
迷ったが、やはり卓袱料理の花月に行くことにした。しかし、昔、我家で使っていた
四本脚のちゃぶだいが、漢字で卓袱台と書くとは思いもよらなかった。



長崎には初めて行った。大通りは別として一歩裏側にはいると
道は狭く情緒にあふれていた。思案橋から福砂屋の前を通り、その先に
かなり雰囲気のよい石造りの古い建物があった。よく見るとこれが
交番だった。この丸山町交番の左側に狭い「花月」の入口が見えてきた。





長崎丸山町は延宝年間(1673~)の時代、日本有数の花街で傾城屋が
三十軒、ジヨロジが三百三十五人その内タヨシ六十九人居たと云う。
坂本龍馬も通ったという丸山町にある料亭花月に興味津々で入った。



通されたのが「春雨の間」。一瞬、食材の春雨とも思ったが、余計な
事を聞かなくてよかった。タイル貼りの床に和風の天井がある日本で
最初の洋間だそうで、しばらく天井の見事さに見とれる。
食事はこの洋間の横にある座敷でとった。





中国料理同様に円卓を囲み、大皿に盛られた料理を各々が自由に
取り分け食べるのが卓袱料理の基本と説明にあったが、大皿から仲居さんが
小皿に取り分けてくれるので好物だけ食べると言う訳には行かなかった。

卓袱料理では最初に出てくるのがお鰭(おひれ)という吸い物で、料亭の
女将が挨拶をして「お鰭(おひれ)をどうぞ」と声が掛らないと食事を始め
られないのが作法らしい。大女将の丁寧な御挨拶を聞いている間、吸い物が
冷たくならないか気になる。

御鰭…吸物

造り刺身

前菜

紫豆の蜜煮

バスティー

パイ生地を崩して小分けする(具はフカヒレ)     白味噌吸物

大鉢と中鉢(豚の角煮)

中華風スープと香の物

水菓子果物と梅椀お汁粉


二年前、京都宇治の黄檗宗大本山萬福寺の門前に元大本山萬福寺塔頭の
白雲庵と名がついた普茶料理の店に行った。ここの料理は簡単にいえば
二汁六菜を基本とした中国風の精進料理が黄檗普茶料理。卓袱料理の
精進料理を撰んだのが黄檗料理とも聞いたが、料理の趣旨は異なるようだ。

お庭の見える、御二階の大きな広間を見せて貰った。



長崎滞在時間は5時間しかなかったが、大女将や仲居さんも加わり、幕末話に
花が咲いて、お昼にお店に入って出てきたのが2時半、まったりとした時間を
過ごさせて貰った。


史跡料亭 花月
095-822-0191
長崎県長崎市丸山町2-1

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会津の和人参

2010-12-24 | 會津
幕府が薬用人参の栽培を奨励した和人参はオタネニンジン(御種)とよばれ、
セリ科の普段手にしている食用ニンジンとは全く別物で、朝鮮人参は朝鮮から
輸入した薬用人参で、対馬藩が一手に輸入販売していた。

他方唐人参は、長崎を通じて輸入される薬用人参であり、必ずしも
中国産とは限らないが十七世紀の後半から輸入が開始された。朝鮮種の
人参が日本で栽培されるようになったのは徳川吉宗の代であり、享保十三年
(1728を)、対馬藩より献上された人参生根八本、種子六十粒を翌年、
幕府が野州日光地方で生育成功させたのが始まりだと言われている。

幕府は元文三年(1738)、朝鮮人参種種子を希望者に下げ渡し、培養の方法を
初めて公開したが、栽培に成功した者は極めて少なく、宝暦二年(1752)、
野州日光で人参を栽培成功していた農家は三軒だけだった。

会津藩領で人参栽培が始まった時期はハッキリしないが、幕府から御種人参を
譲り受け、また、家老田中玄宰が出雲から人参を移植したとも言われている。
全面的な藩営事業となったのは文政十二年(1829)からで、そのころ、江戸は
金経済、上方では銀経済と分かれており、変動相場制と生産増加による価格変動に
会津藩も悩まされていたようで、この年、藩はそれまで大阪で売り捌いていた人参を
清国への出荷のため長崎会所一括引受を申請している。

天保三年(1832)まで三年以上の交渉が続けられ、毎年一万斤程度の長崎会所
一括引受が成立した。人参の質によっても価格が変動するため、会津産の和人参の
取扱いを任せたのが、それまで領内人参の販売を一任していた大阪田辺屋作兵衛から
独立した長崎田辺屋足立仁十郎だったのではないだろうか。

ちなみに天保三年、会津人参唐方渡しが8711斤、代銀で1059貫609匁、
天保七年、会津人参唐方渡しが9600斤、代銀で672貫480匁となっている。

天保八年から唐方荷物買い上げの代り品として和人参が使われるようになり、
安政始めには、会津藩の人参は三万斤に増産されるようになったが、安政七年
そのための資金三千貫目の前借を会津藩は長崎奉行に申し出ている。これから
幕末にかけて、箱館、横浜での輸出も幕府は黙認したため、長崎会所による
俵物貿易独占が崩れ始めている。

幕末の会津藩士として七百石(御聞番勤肥前長崎表住居)足立監物として
名前が出てくるが、幕末、江戸湾警備、京都守護職等の資金調達で財政難に
苦しむ藩が資金を用立てた御用商人に知行を与え、藩士として召抱えたが、
実態は借金の返済の代りに苗字帯刀を許したということだろう。

現在栽培が続いているのが長野県、福島県、島根県で長野は上田、佐久で
日本の全生産量の7割、福島会津が2割、島根八束で一割弱、群馬、岡山で
ほんの僅かに生産されている。長野、会津、島根が江戸時代から生産が続いて
いるのは、これらの地方の気候風土が栽培に適していたこと、しっかりした
販路を持っていたと思われる。

この会津藩御商人だった足立家墓所を長崎祟福寺に訪ねた。

祟福寺第一峰門(国宝)

三門

大雄宝殿(国宝)



足立家墓域

足立智義(仁十郎)     右 足立監吾



参考文献
近大薬学部「薬用人参」
川島祐次「朝鮮人参秘史」
長崎市史
長崎談叢六十九輯本馬貞夫「会津用達足立家について」
本馬貞夫「貿易都市長崎の研究」
会津史学会「会津歴史年表」
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長崎大光寺 西郷四郎

2010-12-13 | 掃苔
長崎の大光寺に明治十七年五月、旧会津藩家老保科頼母近悳の養子となり、
同二十一年西郷家再興により保科四郎から改姓した西郷四郎の墓所を訪ねた。

この大光寺は慶長十九年、僧慶了が創建、万治三年(1660)現在地の
鍛冶屋町にうつり、一度の火災にも合わなかったが1913年に新しく建て
なおされている。墓地には日本印刷の祖本木昌造の墓がある。

 



 

長崎のお寺の墓域に入って驚いた。多くの墓は塀で囲まれ大きな墓域には門扉
まである。文字が金色で象られた墓碑の横に小さな「土神」(つちがみさま)と
刻みこまれた石碑が祀られ、お寺の墓域でいやに金文字の墓石が目立つと思ったら
卒塔婆をまったく見かけなかった。

 

講道館四天王の一人で富田常雄の小説『姿三四郎』のモデルと云われる志田四郎は
明治十二年保科有鄰が病死した後すぐ保科家の養子になったことになっているが、
その時期や養子にした理由についてはハッキリしていない。

明治二十三年、嘉納治五郎の洋行中に講道館を任せられていた四郎は「支那渡航意見書」
を残して講道館を去り長崎に赴いた。大陸志向の強かった四郎だが講道館を出奔した理由も
大陸に渡った西郷頼母の妹幾与子二男の一瀬熊鉄や妹八代子三男の井深彦三郎らに大きく
影響を受けたと思われるが、ハッキリしていない。
(青山墓園にある井深彦三郎之墓)


明治三十三年、四郎は長崎市長だった北原雅長の弟神保岩之助の四男孝之を
養子に迎え、同三十五年、生涯の友となる二本松藩出身の鈴木天眼が長崎で
創刊した東洋日の出新聞に編集責任者として参加する。なお神保岩之助は、
福岡豊津の育徳館に留学中、切腹自刃した郡長正を介錯している。

日露戦争が始まった明治三十七年五月十三日、西郷四郎は東洋日の出新聞社員、
福島熊之助、安永東之助及び玄洋社社員、萱野長知、真藤慎太郎、小野鴻之助、
柴田鱗次郎、福住克己ら八名は特別任務のため陸軍通訳に奏仕官待遇で採用されたが、
鈴木天眼の強い阻止にあって当該辞令書を返却している。のち福島熊之助以下7名は
花田中佐率いる満州義軍に参加している。このとき井深彦三郎は満州軍総司令部で
通訳として特別任務に就いてる。
①右から2人目西郷四郎         ②右から5人目井深彦三郎
 

①JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C09122006300
陸軍通訳に採用の上大本営付被命度移牒(防衛省防衛研究所)
②JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C06040984500、
満州軍総司令部管区軍政署職員表(防衛省防衛研究所)

大正十一年(1922)十二月、尾道にて病死、妻チカの実家菩提寺長崎大光寺の
中川家墓地に納骨された。浜口家はチカの母親中川キンの養女ミネの嫁先。
墓域中央にある山田家というのはどうゆう関係なのだろうか。

 

長崎思案橋郵便局近く、「孫文先生故縁の地」説明、写真左から孫文、鈴木天眼、西郷四郎

 
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六郷満山の旅 熊野磨崖仏から両子寺

2010-12-08 | 
「国東六郷満山の拠点の一つであった胎蔵寺から三百米程登ると、
鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積石段にかかり、この
石段を登ると左方の巨岩壁に刻まれた日本一雄大な石仏は
大日如来と不動明王であり、これらの石仏群が熊野磨崖仏である」と
パンフレットにあった。

日本一雄大荘厳と鬼が一夜で築いた石段という言葉に惹かれて磨崖仏へ。

  

入り口で竹の杖を無料で貸出ししていた。この石段、大した距離では
ないが、乱積の石段には杖は必需品だった。見栄を張らなくて良かった。
登りは20分~30分程かかるが、最後が見上げるような石段になる。
最初は何段あるのか数えていたが、乱積石段はどこからどこまでが一段
なのか分らず、途中で数えるのは断念するというか、急に険しい階段に
なり数える余裕が無くなった。石仏にやっとたどり着くと左側が大きな
不動明王、右側にやや小ぶりな大日如来に圧倒される。

 

ここにも鬼が築いた石段 の伝説が残っていた。
「紀州熊野から田染にお移りになった権現さまは霊験あらたかで、近郷の
人々はお参りするようになってから家は栄え、健康になりよく肥えていた。
その時、何処からか一匹の鬼がやって来て住みついた。鬼はこのよく肥えた
人間の肉が食べたくてしかたないが権現さまが怖くてできなかった。然し
どうしても食べたくなってある日、権現さまにお願いしたら、「日が暮れてから
翌朝鶏が鳴くまでの間に下の鳥居の処から神殿の前まで百段の石段を造れ、
そしたらお前の願いを許してやる。然しできなかったらお前を食い殺すぞ」と
云われた。権現さまは一夜で築くことはできまいと思って無理難題を申しつけ
られたのだが鬼は人間が食べたい一心で西叡山に夕日が落ちて暗くなると山から
石を探して運び石段を築きはじめた。真夜中頃になると神殿の近くで鬼が石を
運んで築く音が聞こえるので権現さまは不審に思い神殿の扉を開いて石段を数えて
みるともう九十九段を築いて、下の方から鬼が最後の百段目の石をかついで登って
来る。権現さまはこれは大変、かわいい里の人間が食われてしまう、何とか
しなければとお考えになり声高らかに、コケコウーロと鶏の声をまねられたら、
これを聞いた鬼はあわてて「夜明けの鶏が鳴いた、もう夜明けか、わしは
このままでは権現さまに食われてしまう、逃げよう」と最後の石をかついだまま
夢中で山の中を走り、一里半(六キロ)ほど走ってやっと平地に出ましたが、
息がきれて苦しいので、かついだ石を放ったら石が立ったまま倒れないのでそこを
立石(速見郡山香町)と呼ぶようになった。鬼はそのまま倒れて息が絶えた。
これを聞いた里人たちはこれで安心して日暮らが出来る。これも権現さまの
おかげと、岩に彫んだ大日さまのお加護であると朝夕感謝するようになった」
(熊野磨崖仏管理委員会のパンフレットから)

 

古くは人間の力を超えている土木工事を鬼の仕業として、あと一歩で
完成というところで、神が鶏の声を真似して鬼の計画を止めさせる
一夜工事の伝説がここにも残っていた。中世、宇佐八幡の巫女を使い、
神憑きや神降しに託して、神の言として人々に伝えたのだろうか。



    

国東半島のほぼ中央にそびえる両子山から放射状に国東の谷々は海岸へと広がり、
約28谷を六つの里に分け六郷と称し、この両子寺は六郷満山の中では中山本寺として
山岳修行の根本道場に当たり、特に江戸期より六郷満山の総持寺として全山を統括して
きた。ここも仁聞菩薩の開基との伝説が残っていた。



山門に続く石段の参道入口に国東最大級の石造の仁王像が立っている。



  

山門から護摩堂への参道

 

護摩堂で若い坊さんが「申子授け祈願袋」の講話で「子宝に
あやかりたい人は」と説明を始めたら、歳をとった婆さん連中が
ゾロゾロとお堂を出て行ったのには、不謹慎だか笑ってしまった。

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六郷満山の旅 富貴寺から真木大堂

2010-12-04 | 
国東半島には六郷と呼ばれる武蔵、来縄(くなわ)、国東、田染(たしぶ)、
安岐(あき)、伊美(いみ)の六つの郷が開け、ここに多くの寺院が築かれた。
学問をするため本山、修行をするための中山、布教のための末山の三つの
群に分けられ合わせて満山と呼ばれ、国東半島の寺院を総称して六郷満山と
呼ぶようになったと言う。



国東半島では、山岳信仰が、宇佐神宮を中心とする八幡信仰と融合し
神仏習合の独自の山岳仏教文化が形成され、六郷満山と総称され、
天台宗の密教寺院が多く築かれ、盛時には六十五もの寺院があったとされる。
六郷満山は本山、中山、末山の三群に分けられ、さらに本寺(二十八寺)と
末寺(三十七寺)に分けられるという。

宇佐神宮から満山を統括した西叡山高山寺の末寺とされる富貴寺、
本山本寺馬城山伝乗寺の堂宇であったとされる真木大堂を訪ねた。

蕗浦阿弥陀寺(富貴寺)は宇佐神宮大宮司到津家の歴代祈願所とも
ある富貴寺大堂(国宝)は、「蕗の大堂」とも呼ばれている。

富貴寺山門と石の仁王像

 

 

豊後高田の蕗に養老二年(718)に仁聞菩薩が開基したと伝えられる
蓮華山富貴寺、別名蕗寺は平安末期の十二世紀後半に創建された九州
最古の木造建築で、阿弥陀堂形式の大堂は、内部は板敷で、四天柱で
内陣が区切られ、阿弥陀如来座像が安置されている。
(大堂内撮影禁止なので富貴寺パンフレットより)

 

大堂左手には笠塔婆が数基と国東塔、大堂廻りに古い石塔が残っている。
国東塔は京大の天沼俊一博士が明治45年、大堂を修理のため富貴寺を
訪ね、境内で変わった石塔を目にしてその後、国東半島各地に同形式の
石塔が多数分布していることを知り、所在地にちなんで「国東塔」と命名
している。



 

富貴寺の本堂篇額と山門

  

真木大堂
六郷満山六十五ヶ寺のうち本山(もとやま)本寺として三十六坊の
霊場を有した最大の寺院であった真木大堂の名で知られる馬城山
伝乗寺跡は豊後高田市田染真木にあり、現在本堂とは別に新造された
収蔵庫内に阿弥陀如来座像、大威徳明王像、不動明王像、二童子立像、
四天王立像の計九躯の平安仏を伝えている。真木大堂には伝乗寺の
各寺坊が衰退したので、今、各堂の本尊をこの一堂に集めたという。
(大堂内撮影禁止なので真木大堂パンフレットより)

 

本堂横の旧堂に皇室菊花の御紋章があり御下賜由来があった。
鎌倉時代、蒙古来襲に鎌倉幕府は異国降伏の祈祷を命じ、六郷満山の
学問所であった馬城山伝乗寺で、異国降伏の大祈祷長期が行われた。
その恩賞として菊花の御紋章が下賜されたという。



 
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六郷満山の旅 宇佐神社

2010-12-02 | 
大分国東半島の中央にそびえる両子山からの谷筋に沿って
六つの郷が開け六郷と呼ばれた。宇佐神宮の八幡信仰の影響を
受けて神仏が習合した文化が栄え、国東半島の寺院を総称して
六郷満山と呼ぶようになったと云う。

国東の旅は全国に四万社もある八幡様の総本宮、宇佐神宮から
スタートした。扁額のない一の鳥居を抜け参道は九十度曲がり、
神河の寄藻川を渡ると二の鳥居があり、この脇には武内宿禰を祭る
黒男社がある。黒男とは南の人を指し、隼人のことといわれている。
ここに「マムシ・スズメバチ注意」こわい看板があった。
みだりにウロウロするなとの注意書きか!



 

右(宇佐鳥居と西大門)

 

西大門の手前に大きな樹があり、一人の女性が手を添えてお願い事を
していた。早速同じように真似をして色々お願いをして本社に入ったら
もっと大きな楠の樹があってこちらが本物の開運パワースポットの
ご神木でガックリする。

 

 

本宮は八幡大神、比売大神、神功皇后の順番で祀られていて、拝殿所が
三ヶ所も在り、後ろ側に大元神社が見える所にも賽銭箱が。大元神社がある山を
眺めてしまったので ここでもお賽銭をいれる。宇佐神宮での拝礼の作法は
「二礼、四拍手、一拝」。この拝礼作法は出雲大社と宇佐神宮だけみたいだが、
起源は不明らしい。



 

宇佐神宮奥宮 大元神社遥拝所
「左手奥に見える山が、宇佐嶋とも呼ばれる御許山(馬城峰)です。
宇佐神宮発祥の聖地として摂社大元神社が鎮座し、現在でも毎月の
祭祀が厳修されています」と説明にあった。
(宇佐神宮の奥宮である大元神社には拝殿はあるが本殿はなく、鳥居の
奥にある三個の巨石が神体で、霊地として禁足の地となっている)
左(ご神木)
 

大昔に鬼が石段を九十九段目まで積み上げたとき、大神が邪魔をして
百段目を作らせなかったという伝説がある百段。



上社から案内どおり若宮脇の道を下るとまた社殿が。ここは上宮の
分を鎭祭した下社だという。 説明に上社だけだと片詣りとなり下社も
お参り下さいとあった。 言葉は柔らかいが、なにか神様に威かされて
いるような気がして、ここにもお参りした。困難な願い事も二度詣りで
かなうという信仰なのだろうか。

 



祭器具等を納められた高倉から神橋を渡って元の参道にでた。
スズメバチやマムシに会わずにホッとして宇佐神宮を後にした。

 


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