大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

カ―キ色 千住製絨所技師大竹多気

2011-05-21 | 會津

カ―キ色はインド語で泥色またはきたない色という意味で、現地人が白色の生地を牛糞で染め使用しているのを見て英国人が白地の軍服を染めようとしたがなかなか成功せず、ようやく鉱物染料を使用してカ―キ色の染色に成功した。更にクローム材と鉄材を使用することにより進歩し、米独仏一般に軍用被服にカ―キ色を採用するようになり、1900年前後にオランダ系移民の子孫であるボーア人とアフリカ南部の植民地支配権を巡って英国とに起きたボーア戦争で英軍のカ―キ色の軍服は非常に好結果をもたらした。

 

このカ―キ色の軍服は二千メートル以上の距離では日光の反射を避けて空気と同色になり敵からの狙撃から逃れられることが当時のインド、アフリカの植民地での活動が多かった国の軍隊での採用の最大の理由であったと考えられ、日光風雨による退色がないこと、カ―キ色軍服では出血もあまり目立たないこと、これも採用の理由だったのだろう。ただ当時の鉱物染料による染色では布地を非常に硬く普通の針では縫えず、また酸類に遇うと変色腐食してしまう欠点があったが、その後、英国では植物染料による染色に成功、さらに改良して人工染料の開発により日光風雨、酸類に遇っても退色しない染布を造り出している。

 

明治三十二年十月、千住製絨所技師大竹多気が豪州に途航の途中、香港でカ―キ色被服の英兵を見て、マニラでもカ―キ色軍服の米兵、さらに豪州で英杜戦争参加の豪州義勇兵もカ―キ色軍服であった。明治三十三年一月、帰朝した大竹多気は技手石坂正衛と共にカ―キ色染色の研究を始めた。その五月、突然北清事変が起こり夏季の北清への出兵が予想され、参謀本部陸軍少将伊知地幸介の建議によりカ―キ色の夏服の染色を千住製絨所に命じた。この時、この色の命名について千住製絨所で検討された。染色は原語のままが良いとの意見も出たが、原語では達触りもあるということでカーキに音が似ているところから柿色との話もあったが、当時の囚人服と同色ということで、柿色に黄色を加え柿黄色でかき色と唱えたが、結局、千住製絨所長内海春震氏の発案で茶褐色として和音でかち色と読ませることがきまった。

1.                                   2.

  

1.JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C06083157500

明治三十二年、千住製絨所技師豪州へ派遣ニ付領事へ内示之件

2.JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C10062393400

明治三十三年、大竹技師豪州出張復命ノ件

 

明治三十七年勅令二十九号で「戦時又ハ事変ニ際シ陸軍将校同相當官及准士官ノ軍衣ハ夏衣同様ノ製式(地質ハ濃紺絨又ハ紺絨、袖章ハ黒線、釦数ハ五箇又ハ六箇)将校以下ノ夏衣、夏袴、日覆及垂布ハ茶褐色ト為スコトヲ得」と正式に公布して、将校以下の軍服等を茶褐色とすることを認めた。

明治四十年十月、千住製絨所で織った茶褐色軍服地一反を桐箱入りで宮内庁に呈出している

3.                                                           4.

 

3.JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A05799100

明治三十七年二月、戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍制服ニ関スル件

4.JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A03020667400

明治三十七年四月、陸軍軍服服制中濃紺絨ヲ以テ茶褐色ニ代用スル件

 

旧日本軍毛布(帯青茶褐色・国防色)

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旧会津藩士大竹作右衛門

2011-05-18 | 會津

会津若松市政だよりに、小樽市との縁(えにし)は旧会津藩士大竹作右衛門元一が、日本泳法「向井流水法」を小樽へ伝えたことに始まるとあった。文化七年の会津藩が江戸湾警備を命じられた際に江戸で向井流水法を学び、日新館でも指導がおこなわれ、元一は小樽で回船業を経営しながら明治二十九年水泳場を小樽高島に開設し向井流水法を伝えている。

幕末、御聞番所物書だった大竹作右衛門は各地を転戦、戊辰後は東京にて謹慎、明治三年秋、斗南五戸村に移住している。いつ小樽に渡ったか不明だが、十三年に船名高嶋丸の船旗章を海軍省に届けている。この船旗はかっての奥羽越列藩同盟の同盟旗と似た五芒星の中に五稜星を描いている。明治十四年船名録により風帆船札幌丸七十六トンを所有していたことが判る。開拓指鍼北海道通覧に小樽大竹回漕店とあり、旧会津藩士で明治六年に北海道に渡り、のち小樽商業会議所会頭から小樽区の衆議院議員に当選した高野源之助も回漕店の経営に参加したというがはっきりしない。

(奥羽越列藩同盟旗)

1左、明治十三年六月廿一日付 高嶋丸旗章所有者大竹作右衛門

2右、明治十三年六月廿七日付 札幌丸旗章所有者後藤半七

 

1、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C09114742700

  開拓使届 大竹作右衛門所有高嶋丸旗章

2、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C09114733700

  開拓使届 後藤半七札幌丸旗章

 

 明治二年、札幌に開拓使札幌府は設置され、北海道開拓は小樽を拠点として進み、明治十二年に開山した幌内炭鉱の石炭積み出し港として、小樽港牛宮埠頭より札幌を経て幌内炭山に至る鉄道はその運炭のため明治十五年の竣工で、より発展していった。

明治十六年、大竹作右衛門は小平蘂川流域石炭調査を行い、明治二十年にヲキナイ上流石炭開採を手掛け、さらに十七年七月(十六年六月とも)、余市郡沖村の湯内川上流で湯内の樵夫中村留吉、竹内孫兵衛、小黒喜三郎が谷間に光る石を発見し、その鉱石が銀銅鉱らしいということで小樽港の大竹作右衛門と共同にて明治二十一年試掘出願し、二十二年四月に北海道鉱山会社にて借区開坑した。この湯内鉱山はのち昭和にはいり住友合資会社に買い取られている。

幕末か明治初期か、時期は特定できなかったが、この旧会津藩士大竹作右衛門の養子にはいったのが、のち千住製絨所五代目所長となった大竹多気。多気は旧会津藩士松田俊蔵四男(文久二年生)で松田俊蔵も謹慎後、大竹作右衛門と同じ五戸村に移住、妻きつ、長男精介、三男寿三郎、五男甲子五郎の五名が斗南貫属として登録されている。

 

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会津の明治天皇御製歌碑

2011-05-11 | 掃苔

会津市内の個人の家に珍しい石塔の歌碑があった。

 

 

 

明治天皇御製  神祇

 

国民はひとつこころにまもりけり

  遠つみおやの神のをしへを

              子爵 松平保男□□

 

 

裏面

源中将正之公詠日本紀意宴寄國祝□□□

 

  あしかひの葦原の国□□□□□

     天照しま□須め神のみち

           源 保男□

                    

裏面はあまり判読できませんでした。ここの家人は何でこの歌碑がここにあるか、

まったくわからないとのことであった。松平保男氏は会津松平家十二代当主で、

個人のお庭でこのような歌碑をみると時間を飛び越え、昔に戻ったような不思議な

感覚にとらわれる。正之公の遺訓を守って心一つにしていると会津の人々が誉められた

ような気分になる。大正二年発行の香取神宮宮人伊藤泰歳による明治天皇

御製神訓謹解によれば、これは寄國祝という題でお詠になったといわれるが、

いったいどこでお詠になられたのだろうか?

 

注、国民(くにたみ)、遠つみおや(遠津御祖)、寄國祝(くによするいはひ)

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若松賤子碑

2011-05-09 | 會津

先日、BS・日本こころの歌で「惜別の歌」を流していた。

この歌は学校の先輩、藤村英輔氏が戦時中に藤村の詩「高楼」から詞歌をつくり、それ以来母校の学生歌として歌い続けられている。学校の先輩でもあり、職場での先輩でもあったSさんが学校の後輩が転勤する時は必ずこの歌で送っていた。Sさんの転勤にもこの歌で送った。この先輩が亡くなってから何年たつだろう、酔っ払うと、オイ!後輩と怒鳴なるのを思い出した。藤村氏によれば、学徒動員の夜勤明けの朝、雪道で転んだときに、「悲しむなかれ わが友よ」のメロディが出てきたという。我が母校は元々法律学校で作曲を出来る人がいたのでビックリしたが、藤村氏がある対談で、バイオリニストの巌本真理と小学校の同級で彼女に憧れてバイオリンを始めたと知って納得できた。 

巌本真理は教育者巌本善治と若松賤子の長男巌本荘民の娘。若松賤子は松川勝次郎正義の長女で、会津若松で生まれ、横浜織物商大川甚兵衛の養女となり、フエリス女学校の一期生として卒業、26歳まで同校で英語の教師を勤めた。この巌本家の墓域が東京染井霊園にあり、数年前、管理事務所に寄るようにと看板が立っていたのが気になり、先週雨の染井霊園を訪ねた。綺麗に掃苔されており、ひと安心する。

(巌本家墓域と巌本真理墓)

  

 

会津若松の若松賤子(甲子)の生家に碑が残っている。

  

 

私の生涯は神の恵みを 最後まで心にとどめた 

  ということより外に 語るなにものもない    若松賤子

 

 明治中期の女流作家として令名をはせた若松賤子は会津藩士松川勝次郎の長女として元治元年三月一日この家に生れ七歳まで此処に育った本名は甲子であるが筆名は生地とその信仰に由来する 母の没後八才で横浜の大川家の養女となってミス ギダアの塾に入り後にフエリス女学校に入学し明治十五年十九才で唯一人の第一回の高等科卒業生となり直ちに同校教師を命ぜられた 明治二十三年厳本善治と結婚誌「お向ふの離れ」を処女作とし「おもひで」を絶筆とするがことにバーネツトの名著「少公子」を訳しその流麗な文章で世に知られた 甲子は幼少から篤信な基督者で彼女の一生は基督教精神で貫かれている

私は甲子の父勝次郎の実弟古川義助の二女で甲子と同じくこの家に生れ育ち現にこの家を襲いでいる そしてまた甲子の従妹として彼女に深い親愛と尊敬をつづけてきた

茲に甲子が薫陶をうけた当時のフエリス女学校長ブ―ス氏から聴いた彼女のことばを碑に刻んで生誕の小庭に据え これを永遠に伝えまた私の追慕の記念とする

                    一九六一年十二月十日  古川きん子

 

 惜別の歌

一 遠き別れに 堪えかねて この高楼に 登るかな

悲しむなかれ わが友よ 旅の衣を ととのえよ

二 別れといえば 昔より この人の世の 常なるを

流るる水を 眺むれば 夢はずかしき 涙かな

三 君がさやけき 目の色も 君くれないの くちびるも

君がみどりの 黒髪も またいつか見ん この別れ

四 君の行くべき やまかわは 落つる涙に 見えわかず

袖のしぐれの 冬の日に 君に贈らん 花もがな

 

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会津松平家お花まつり

2011-05-05 | 會津

毎年五月四日、会津若松院内にある第二代の保科正経公から九代松平容保公まで会津松平家代々の墓所「御廟」の拝殿で、歴代藩侯の御霊を奉る「お花祭り」が会津松平家奉賛会により開かれる。今年は会津藩祖保科正之公御誕生四百年祭ということで、会津松平家十三代松平保定氏を祭主として十四代当主保久氏によって執り行われた。歴代藩主は二代正経公を除き神道での埋葬(初代正之公は猪苗代土津神社)で、御廟の中の建物は質素な拝殿だけで、ここから院内御廟の歴代藩主の墓が建ち並ぶ山腹に向かい祝詞を捧げる。

  

 

御廟には久し振りの訪問だったが、石段も整備されまわりの樹木もかなり伐採されて明るい感じになっていて、以前は全く参道からは見えなかった正中石も上側から姿を現していた。

(写真右側はいずれも08年撮影)

 

 

 

 

 

「お花まつり」は祭司奏上から始まる。ここはすでに神がいらっしゃる神聖な場所で、一般神事で行う神をお迎えする降神詞の奏上はおこなわないと聞く。誄詞奏上、玉串方奠と続き、今年も会津吟詠会会員による合吟が行われ、第十四代保久様の御挨拶があった。

 

  

 

  

 

 

「松平家御廟に詣ず」

鬱蒼たる山稜気凛然    老杉林立雲辺を突く 

英君鎮座まします十余代  統治の藩風極めて敬虔

東北の鎮台三百年     献身の忠節天に羞る莫し 

巨碑歴代都て神韻     遺徳厳然永遠に鮮かなり

 

今年は会津松平藩祖保科正之公御誕生四百年の記念誌が会津松平家奉賛会から発行された。

あとがきによると、会津松平家奉賛会の前身は、昭和二十年八月一日、歴代旧会津藩主の遺徳を奉じ、その由緒ある文化、伝統を尊重するとともに、会津士魂の高揚に資することを目的に設立された財団法人会津保松会で、保科正之公御誕生三百九十年に当る平成十三年、この法人を解散し、その後は会津松平家第二代保科正経公から九代松平容保公までの歴代藩主をお祀りする「お花まつり」を引き継ぎ継承するため「会津松平家お花祭り奉賛会」として発足した。継承事業を行い、10年を経過し、会津松平藩祖保科正之公の御誕生四百年を迎えるにあたり、その志を継承し、会津松平家のますますのいやさかをお支えすることを視野に、本年「会津松平家奉賛会」と名称を変更し、さらに、土津神社様の御賛意も頂き、会津松平家のお花まつりと同時に保科正之公御誕生四百年の祭典を院内御廟にて執り行うとあった。なお、この記念誌は正之公の御和歌や略伝、保科家・会津松平家の系図などが掲載してある。

    

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