大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

相模 山北

2021-08-28 | 小田原

神奈川県西部、山梨県道志村と接する山北町にある丹沢湖は昭和53年(1978)三保ダム建設により出来た人造湖で、ここから南に河内川が流れ酒匂川に合流する。昔、この河内川をさかのぼり、川村関所から川村山北、皆瀬川、都夫良野、湯触村、川西村、山市場村、神縄村を通り奥山家三ヵ村(玄倉・世附・中川)に通じる奥山家道(おくやまがみち)があった。道幅は六尺から四尺(1.8m~1.2m)だったという。今は県道76号山北藤野線となっている。この76号の山市場にある六字名号塔を見に行った。山市場へは小田急線新松田駅からバスで行った、午前中7時台に2本、8時、9時台に各1本で、1日でも8本と本数が少ない。新松田駅から約40分位で山市場に着いた。途中、四軒屋、瀬戸六軒屋と寂しい名のバス停を通り谷峨駅上流で酒匂川と離れ河内川左岸をさかのぼって行った所に山市場の集落がある。山市場は昔、河村郷に属し、この地名は水産物の集積場と陸産物の取引場所があったことからこの地名が付いたと言われている。藤原秀郷の後裔で、相模の波多野遠義の子秀高は遠義から同国足柄郡上河村郷などの所領を与えられ、河村郷を本拠として河村氏を称した。民俗学者の柳田国男の遠祖がこの河村氏だと知って驚いた。バス停の斜め前の山市場公民館の横に六字名号塔があった。


表は南無阿弥陀仏、行幹(花押)とあり、裏面は安政五(1858)の他は殆ど判読できなかった。


横に享保十二年五月(1727)の庚申塔、萬霊塔、廻国供養塔、石仏等が並んでいた。
行幹の六字名号塔は初めてだったが、その書体は小田原の心光寺の徳本六字名号塔書体と非常に似ていた。念仏聖として有名だった徳本行者の書体を真似たのだろうか。中)心光寺徳本六字名号塔、右)関本龍善寺徳本六字名号塔
            
バスで東山北の向原バス停まで戻って歩いて5、6分の安能寺を訪ねた。



安能寺は新編相模国風土記稿世附村に「通永山と号す、曹洞宗川村向原香集寺末、元亀三年(1572)創建す、開山行翁本寺五世云々」とあり、世附川を堰き止めた三保ダムの建設に伴い、昭和52年(1977)山北町向原に移設されたという。安能寺には大数珠を巨大な滑車に取り付け、数珠を回転させる念仏信仰が残っている。「世附(よづく)の百万遍念仏」として県指定無形民俗文化財に指定されている。安能寺入口の石造物。萬霊塔(寛政四・1792)、廻国供養塔(文化十三・1816)、供養塔。
隣の安能寺の本寺であった香集寺の山号は如意山、曹洞宗小田原久野の総世寺の末寺で、応仁元年(1467)、僧永相が此処に在った観音堂に寄宿し堂宇を起立、一滴庵と号し如意輪観音を安置したことから如意山と号したと言う。



駐車場から境内への石段の途中にお寺を守るように萬霊塔・天明二年(1782)と禁牌石・安政三年(1858)があった。「不許葷酒入山門」を「 許されざる葷酒、山門より入る」とか「許されざれど、葷酒山門に入る」などと、訓読みしていたら破門になりそう。

境内に永平寺六十四世管主の性海慈船禅師篆額「功徳聚」、明治三十八年建立の重修如意山香集寺伽藍記碑があった。

重修如意山香集寺伽藍記 碑文
創業守成固為難矣継絶興廃豈亦易哉吾於如意山香集寺益知其然焉寺舊稱一滴奄無
方永相師所創立有青松自観二支院足利将軍施寺田五十石叢林規模備具二世休庵永
艮為兵禍所侵遂不能守成伽藍亦罹燹災時忠室宗孝和尚董総世主席観其惨状不禁痛
惜発憤拮据従事興復併二支院改稱今之寺号故以和尚更為本寺開祖二世香山良聞以
休菴之徒承開祖附属守成有功三世天光正玖徳望超羣朝旨特賜微号曰佛覚大光禅師
自是寺門漸盛比至六世有末寺十三儼然為一方巨刹慶長中有祝融之災再造堂塔百廃
復興爾来三百餘歳柱梁朽頽不可復支現住穎哉長老企図重修興諸檀越胥謀同心協力
鞅掌経営明治三十三年起工明年告竣仍卜是年四月二十四日特請永平性海慈海禅師
挙開堂遷佛之典禅師手裁白檀一株以為後昆丰標項曰長老来微記文于吾吾請経不言
乎諸佛滅度巳供養舎利者起萬億種塔金銀及頗梨硨磲與碼碯攻瑰瑠璃珠清浄廣厳飾
乃至如是諸人等漸漸積功徳具足大悲心皆己成佛道今夫長老及諸檀越重修梵刹供養
三寳其功徳其深豈可堪随喜哉仍紀梗慨以應其請寺住相模足柄上郡川村西對富獄足
初金時函根諸山連旦其西南鞠子川貫流其前風光佳絶真為相南勝境云

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小田原根府川 岩泉寺

2021-08-11 | 小田原

根府川の寺山神社から130m程坂道をあがると、左側に下りる急坂がある。
ここがちょうど新幹線の片浦トンネルと南郷山トンネルの間にあたり、海岸側に東海道線の白糸川橋梁がみえる。急な坂道を進むと斜面に建つ岩泉寺の本堂の境内にでる。

 
海岸側からの石段

新編相模風土記稿に「岩泉寺 巨岳山と号す。曹洞宗(早川村海蔵寺末)開山通國門泰(本寺十三世の僧)慶長九年(1604)建(旧家長十郎の家系には元和七年先代広井長十郎重次開基すとあり)」さらに「當寺昔は海辺にありしが、萬治二年(1659)の洪水に流失して、同五年今の処へ転す(長十郎家系に重次の孫左衛門重光の時、己が持地を寄附して此地に転ずと云)」とある。根府川村名主広井長十郎と村民が寺の維持費、畑七畝二歩・山林三町歩を寄進し本堂庫裏を再建したという。金堂前の急な石段の途中に手前から寛文七年(1667)建立の観蓮社縁誉至道上人碑、安政五年(1858)建立の秀学六字名号塔、文政元年(1818)と言われる広井長十郎が建てた「南無大師遍照金剛 木食観正」碑があった。


寺山神社の前にあった釈迦堂入口の石標につられて急な石段を下りて行った。根府川は小さな集落でどこを通っても白糸川にぶつかってしまう。釈迦堂を探して海岸の国道まで出てしまった。

帰り道のJRの白糸川橋梁真下の柵の陰に入口の案内板があった。私有地みたいな所を進むとgoogleマップに表示のない橋が架っていた。橋から20mほど先にみえる小屋がマップに白糸川の釈迦如来とあるのが釈迦堂だった。



お堂は半地下で岩に釈迦如来像があった。元自治会長の内田一正氏による「白糸川の釈迦如来」の説明があった。広井家文書によると、広井家二十二世広井長十郎重友の代に度重なる地震への不安から村の安泰を祈り、明暦二年(1658)、当時の岩泉寺境内の岩盤に像立し、右側に彫られた「寛文九歳七月十二日 元喜道祐庵主」は長十郎重友の命日と戒名だという。その左に「普明暦二歳仲秋月」「広井左衛門敬」と彫られているという。岩泉寺は万治二年(1659)の大洪水で万治三年から五年にかけて現在の高台に移転し、岩盤に彫られた釈迦如来像はそのまま残されたという。また子の釈迦像は弘法大師の作とも伝わっている。明和三年(1766)に釈迦如来像が野ざらしのため、お堂建設の願いが出されている。残念ながら釈迦如来像の周りに彫られた年号や名前は全く気が付かなかった。風土記稿は旧家として広井氏家系を載せている。上総介平良兼を遠祖として、良兼五代孫広井太郎致房を初代として、二十一代が寛永十二年江戸城普請採石を任され、岩泉寺開基の長十郎重次、その次の記載が重次孫宅左衛門重光(二十三代)となっている。風土記稿に「岩泉寺、當寺昔は海辺にありしが、万治二年の洪水に流失して同五年(1662)今の処へ転す、長十郎家系に重次の孫左衛門重光の時、己が持地を寄附して此の地に転ずと云」とあり、二十二代宗左衛門重友一人だけが風土記稿から抜けている。重友の命日が寛文九年(1669)だとすると、万治五年(1662)、寺に持地を寄附した時の広井家の家長は誰だったのだろうか。寛永九年(1632)、正保四年(1647)、慶安元年(1648)の地震、万治二年(1659)の大洪水など度重なる災害や、岩泉寺無住の期間享保年間(1716~1735)を考えると、あまり古文書も残されていないように思われる。

駅に戻る途中に日正上人の題目塔があった。

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