大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

海軍兵学校試験問題漏洩事件

2011-02-28 | 會津
明治九年十月、海軍兵学校機関予科生徒から本科生徒に転級試験で
試験問題を密かに予科生徒に漏らした者があり、教務課で不正の疑いが
もたれる生徒に問いただしていたところ、十数人の生徒から申出があった。

この時、問題漏洩は二件発覚している。一件は、のち海軍大将で総理大臣
を歴任した運用砲術本科生徒で、掃除中の英学教官の部屋にたまたま立入り、
机の上蓋からはみ出ていた紙を机内に入れようとして、そのなかにあった
試験問題を暗記して下級生に教え、そこから転級試験生十数名に広がった。

この問題漏洩事件は、該当する者が、自ら申し出た為、問題を流した本科生徒は
生徒懲罰規定では一番重い別室禁錮二週間、問題を教わった予科生徒は二週間の
自室禁錮、問題漏洩を知りながら申出なかった十八名が二週間の外出禁足、
落第した後に申出た者一名も二週間の外出禁足を申し渡されている。

この転級試験で、もう1つの試験問題漏洩事件があった。
運用砲術本科生徒で筑波艦に乗組していた浅岡俊吾が同郷の機関予科生徒
星清次郎に問題と解答を教授した漏洩事件である。

浅岡俊吾は九月上旬に本省内にて、試験用の数学問題を拾い、紙頭部が切れて
いたため何に使われるか不明であったが、自分の勉強のため持ち帰り解答して、
下級生にも教授した。その後試験問題かもしれないとしてこの問題を焼却して
しまった。問題を拾得して届出がなされず、しかも焼却したことが大きな問題と
なった。

海軍省は学校側に試験問題は極めて秘密なるもので、この問題遺失人について
至急取調べを指示したが、不思議な事に試験問題遺失人については該当者が判明
せず、兵学校はこの事件は懲罰以上の罰科として、軍律によるとして処分見込み
を裁判所と協議している。

裁判所は、この事件発覚するも更に悔悟の意なく、その情状憎むべくして、尋常
校則を犯す者の類にあらず、その情を量り士官生徒の任に堪えざる者として論じ、
従前学術進歩の見込みなき者退寮の例に照合し退校処分相当と上申している。

浅岡俊吾が試験問題入手経路について誰かを庇ったのか「その後悔悟の意なく」と
退校処分となり、問題を教わった機関予科生徒星清次郎は試験問題と判明の後、
直ちに報告しなかったと二週間の自室禁錮処分となっている。星清次郎は海軍
兵学校機関科明治十四年卒ハンモックナンバー1番で、同期に海軍造兵総監
沢鑑之丞、海軍少将田辺 男外鉄らがいる。

浅岡俊吾は兵学校退学のあと、三菱商船学校二期生として入学している。
退学して直ちに半官半民みたいな商船学校に入学できたのも不思議だが、
明治十一年、この学校の一期と同じ内国海員技術試験を受験して見事
第壹則本免状貳等運転手に合格している。驚いた事にこの時の試験合格者に
三菱商船学校一期生の郡寛四郎(会津藩家老萱野権兵衛三男、郡長正は兄)
の名があった。



コメント (2)
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元海軍兵学校生徒 浅岡俊吾

2011-02-21 | 會津
海軍兵学校が編纂した沿革史の明治九年十二月九日に「生徒浅間俊吾
(浅岡の誤記)退校申付く」と記載がある。(兵学校ヘ達は十二月五日)
斗南出身の浅岡俊吾は幼年生徒初期明治四年八月入学で、同じ斗南出身で
英国留学を果した深尾弘、西南戦争で兵学校出身者として最初の戦死者と
なった雪下熊之助、明治五年依願退寮した笹沼金次郎と同期入学した。

海軍兵学寮の前身、海軍操練所開校は明治三年正月十一日、築地本願寺橋
海軍操練所として生徒四十六人で開講し、明治三年十一月築地海軍操練所を
海軍兵学寮と改称している。

海軍兵学寮・海軍医学校趾碑
明治四年七月二十九日 海軍兵学寮を此地に新築す。同九年八月三十一日 
海軍兵学校と改稱す。同二十一年八月一日江田島に移轉す。
(国立がんセンター中央病院裏の駐車場入口横(首都高銀座入口傍))
 

明治初期の兵学寮の退校理由は色々あった。特に明治五年の学生規則改正で、
以前の規則では成業の後海軍に従事する誓書を提出して入寮した場合、
父母の危篤、一家の安危に関する事件が起きても退寮願の提出を一切認められ
なかったが、今般の規則改革で父母に限って条件附きで退寮の一部緩和し、
依頼退寮も条件は有ったがこれも一部認めた。これによりこの年十月までに
請願により生徒退寮を命じたもの八十三名にのぼった。

兵学寮は「課業授くと雖も性質愚鈍にして成業の認なき者は退寮」また、
「修業中病身に至り海軍学術に堪難き者は退寮を命ずる」という厳しい
ものだった。

明治五年、本科生徒の内退寮を命ぜられた人員七十九名、予科生徒の
内退寮を命ぜられた者四十人、このほかに病死の者が加わった。

明治四年末海軍兵学寮在校生は二百二十五名、明治六年十月の海軍兵学寮
在校生が百二十九名、かなりの少数精鋭に絞られた。明治五年の生徒懲罰は、
外出禁足、外出禁足掃除、自室禁錮、別室禁錮の4つ、懲罰以上の罰科は軍律に
よるとした。

兵学校生徒浅岡俊吾の犯罪処分見込が海軍省の記録に残っていた。
裁判所は「其情状最も悪む可くして尋常校則を犯す者の類にあらず依て其情を
量り士官生徒の任に堪ざる者として之を論し従前学術進歩の見込なき者退寮の
例に依照し該官に於て退校申付可然と相見込候事」と川村大輔代理海軍少将
中牟田倉之助に上申している。

兵学校生徒浅岡俊吾はどのような罪を犯したのであろうか。
(明治九年、海軍兵学校試験問題漏洩事件に続く)

参考
(明治七年一月十二日、海軍学生寮科別生徒名)
測量科一号
平尾福三郎、澤良 渙、矢部興功、福島虎次郎、矢部矢八郎、
本田 弘、中山 訥、佐久間秀三郎、片岡七郎、三善克已、
荒木保喜造、林 譲作、細谷資氏、
測量科二号
山田俊徳、本山丈三、濱田太二、中村貞邦、森下寧一、
安岡淳吉、宮川保之、中村正亮、追田甚之丞、友野雄介、
蒸汽科一号
権田正三郎、深見有紀、吉田貞一、朝倉俊一郎、馬場新八、
久原 績、池田録太郎、深見鐘三郎、長崎義方、浦野喜三郎、
重久彦右衛門、
蒸汽科二号
藤島虎産、山本保作、岩田鐡太郎、永嶺謙光、吉見佐一郎、
佐久間国安、佐野政通、有泉政三、児玉利賢、河井矢太郎、
近藤 格、平田慎一、高田籌雄、原實員、村垣正通、
砲術、運用科一号
松永雄樹、諸岡真三郎、日高壮之丞、内田笑三、横尾喜八郎、
河原要一、植村永孚、島崎好忠、山本権兵衛、遠藤増蔵、
掘 敬爾、伊藤常作、崎山敬介、桜井規矩之左右、
砲術、運用科二号
鹿野勇之進、橋本正明、簗瀬新一、馬場練兵、伊集院五郎、
早七郎、安田虎之助、吉田鐡吾、上村正之丞、永嶺光孚、
成川萬蔵、飯牟礼俊位、川島虎夫、細江尚政、天野才蔵、
小倉鋲一郎、
砲術、運用科三号
富岡定恭、山田彦八、中山長明、池端直右衛門、三須宗太郎、
大宮正路、関 五六郎、沖山良政、松枝新一、石原忠俊、
武井久成、新島一郎、出羽重遠、安原金次、藤田幸右衛門、
砲術、運用科四号
坂元八郎太、井上幸次郎、大村三丞、向山慎吉、甲斐直好、
大河平隆義、荒井柳次郎、遠藤喜太郎、世良田 亮、舟木錬太郎、
成川 基、雑賀嘉太郎、伊藤義五郎、米倉久麿、瓜生外吉、
砲術、運用科五号
中尾亀吉、倉山秀方、石井猪太郎、矢島 功、浅岡俊吉、
中林長國、永島松籟、中溝徳太郎、坂井廣四郎、雪下熊之助、
丹治寛雄、鏑木 誠、深尾 弘、早源吾、左近之允隼太、
外記康昌、上村彦之丞
造船科
森元 繁、玉利親賢、高桑戢次郎
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青森 居酒屋ふく郎

2011-02-08 | 
大雪の青森に行った。泊まったホテルの部屋から丁度このお店がみえた。
ホテルのフロアーにいてPCを忙しそうに眺めていた若いコンシェルジュ
(夕方~19時まで)にこのお店の事を聞いたらかなり人気の店だと言う。



早速、予約を入れると、禁煙のカウンターでよければ空いていると言う。
お店に入って判ったことだが、当日、座敷には15名の地元の団体さんの
予約が入っていた。ここのご主人は無口というか、寡黙というか、愛想が
無いと言うか、店には他に中年の女性(奥さん?)がいたが、分担が決まって
いるのかほとんど無言、あとから若い女性(娘さん?)が入ってきて、やはり
無言で雪を払っていたと思ったら、いつの間にかカウンターの中で手伝っていた。



そういえば、座敷の客もパラパラと店に無言で入ってきて、黙って座敷に直行、
ご主人もチラッと見るだけでやはりなにも言わない。なんとなく普段ない緊張感の
中で料理の写真を撮っていいか聞いてみた。微妙な一呼吸あってから許可がおりた。
ご主人と会話があったのはこの1回だけ。あとは黙々と料理を作っていた。



刺身主体にお料理を頼んだか、愛想が好い訳ではないが、ご主人が料理に熱中して
いる分だけお料理はすべて美味しかった。お酒はなんとなく記憶にあった三浦酒造の
豊盃「ん」にする。弘前のお酒だかサッパリしていて実に飲みやすかった。
(津軽貝みそ)

(活ホタテ刺)

(海峡活ツブ刺) (大間本マグロ刺)

(竜飛活タコ刺)(白子ポン酢)

珍しいおしんこがあった(毛豆の漬物)(葉くるみ・白菜粕漬)


ちなみに、カウンターの上にはフクロウの人形や置物が沢山並んであったが、
福が来る(ふくろう)と洒落たのかな。太田和彦の日本百名居酒屋の番組で
配った百名盃が置いてあった。久しぶりに美味いものを食べさせてもらった。

(ふく郎から出てきた交差点から)


「居酒屋ふく郎」青森市安方1-10-12
17:00~   日曜・祝日 休
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雪の青森

2011-02-06 | 
大寒波の中、青森に出かけた。白河を通るころには外は真っ白に
なってきた。連結していた秋田新幹線の「こまち」は盛岡で運行
打ち切りになった。「はやて」も盛岡を過ぎたら空席が大分増えてきた。

新青森駅の在来線ホームは奥羽本線上下線だけで1つしかない。 接続の
特急が大幅に遅れ、1つ前の駅で止まっているという。 何時来るか
分からない電車を吹きさらしのホームで待つ。乗客は風雪を避けて
団子虫の様に固まってしまい八甲田の雪中行軍みたいになる。



大幅に遅れてきた特急を見てビックリ、雪だるまみたいなのが入ってきた。
席に座ってまたビックリ、窓が真っ白。氷や雪がへばり付いていて外が
まったく見えなかった。こんな電車に乗ったのは初めてだった。


青い森鉄道


予定の浅虫温泉まで乗ろうと思っていた青い森鉄道の車両、 止まると
怖いので駅前の食堂でお昼にする。駅前の大通りは寄せた雪で向う側が
全く見えない。県立図書館に寄ってから街中の善知鳥(うとう)神社に行く。

お目当ては、この神社にある明治十一年八月に建立された死節碑。
陸軍大尉村田成禮以下七十七余人の西南戦争の戦没者の霊を祭るため、招魂祭が
この善知鳥神社において明治十一年二月に執行され、式後戦没者の功績を
伝えるため建碑がなされたもの。かろうじて死節碑の文字だけが見えた。



翌日は一転して抜けるような青空になった。青森の街中にいるとどこからでも
よくみえる高さ76m、正三角形の建物で青森県観光物産館「アスパム」の
十三階にある展望台に行く。当日、青森県若年者就職支援センターもある、
この産業振興の拠点でどこかの大学の入試試験が行われていた。







青森はねぶたとリンゴ、青函連絡船にホタテの町、風景印を少し集めてから
工房と市場の複合施設「A-FACTORY」にいく。
駅以外で大勢人が集まっている所があった





新幹線の新青森駅は何所が正面なのかわからないほど駅の周りに何もない 駅で、
真冬とはいえ、気の毒になるほど閑散としていた。

 

観光コンシェルジュや青森おもてなし隊などの人達が駅などで頑張って
いたみたいだが、ただ座っていたり、立っていたりしているだけでは
なんの役にも立たない。新青森駅にいた観光コンシェルジュ、どっかの
団体の出迎えかと思った。東京に帰って検索して初めて何をする人か
分かった。そのなかで頑張っていたのが一階で民話と童謡を歌ってくれた
ご婦人二人、ニコニコと一生懸命だった。なにか救われる気持ちになった。

コメント (4)
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