久しぶりに真鶴にいった。江戸時代の関東にある武家の墓はほとんどが真鶴の岩地区の山で採れる小松石を使っていた。会津藩諸士系譜に出でくる会津藩士の江戸での菩提寺で、藩士の墓を見つけるのに役にたった。真鶴半島自体、30万年ほど前に箱根外輪山の中腹部より噴出した溶岩で形成されたと考えられている。伊豆石、小松石、根府川石などは溶岩が固まった火山岩で玄武岩、安山岩、デイサイトなどで何度みても区別する事が出来ないでいるが、なんでも珪酸の量が違うらしい。新編相模風土記稿に「小松石、小松山より産する以て此名あり。石理至て緻密にして、且堅牢剥落の患なし。故に碑石に用る是を最とす。故に故より御寳塔にも是を用らると云。又御三家方及松平阿波守の采石場あり是は寛永二年よりの事云う云々」とあり、根府川石は根府川・米神兩に產し、小松石は岩の小松山に產し、眞鶴石は眞鶴で採掘したという。荻野尾石は根府川の荻野尾山より產し、磯朴石は根府川の海岸より產したという。玄蕃石は江ノ浦の產、其餘は小田原石と稱したという。平成の小田原城馬出門修復で馬出門左側は真鶴産の小松石、右側は早川産の安山岩が使われたという。
小松石(門左側)
早川の安山岩(門右側)
小松石は研磨すると独特の灰色から淡灰緑色の密な石面を見せるが、荒削りの石垣ではどこ産の石だか見当がつかない。
小田原本町にある明治天皇宮ノ前行在所跡碑は総磨の小松石で建立された。
弘法大師の草創と伝えられる多寶山瀧門寺に行く。
古くは密寺院だったのを、後年僧原行が曹洞宗に改め、天正元年(1573)僧林屋中興した、と風土記稿にある。参道入口には明和四年(1767)、瀧門寺十三世了吾和尚の発願、造立の関東最大といわれる宝篋印塔がある。この石塔は小松石で造られているという。山門に向かう石段の手前に廃寺となった岩松山光西寺にあった承応三年(1654)建立とされる五層塔と上野寛永寺の宝塔造営した宮石工三津木徳兵衛の頌徳碑(1533)がある。
山門を入って驚いた。本堂、庫裏、鐘楼すべて茅葺で建っていた。補修の時にはかなりの資金が必要になるなと余計なことを考える。
瀧門寺から南に山際の道を5分程歩くと児子神社の入口に着く。
御祭神は「惟喬親王と惟喬親王之御子神」で、境内の碑に「延喜年間(十世紀初)の創立と伝えられるが天保年間大災のため社殿を焼失し古記録等はこの時に失った。御子神は親王の御後を慕い、従者二人を従え二才になられた若宮を擁して当所に来られたが、若宮、病を得て夭折されたので御父と伴に奉斎したと伝えられ、以後子供の流行病の厄除けの参拝が多く見られた云々」とあるが、風土記稿に兒子神明社「土肥次郎實平の外孫、萬寿冠者の霊を祀る。神体木像なり。傳云治承四年八月廿八日、頼朝實平等を引具し当浦より乗船して安房国へ落し時、冠者實平の跡を慕い当所に来たりしが既に出帆して及ばず、よりて涕泣し終に自殺せしを岩松山光西寺へ葬り其霊をここに祭りしとなり」「岩松山光西寺今廃して其跡詳ならず、社地に立る承応三年(1654)の五輪塔に岩松山光西寺と題し云々」とある。何時から土肥次郎實平の外孫、萬寿から惟喬親王の御子に替わってしまったのだろう。神社入り口右手に大正八年建立の元帥公爵山縣有朋書による忠魂碑、その隣に昭和三十年建立の円覚寺管長宗源書による護国塔がある。
源頼朝が房州に逃れた場所と伝える「船出の浜」碑と塩谷温題「開帆の碑」がある岩海岸より真鶴駅に戻る。