大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

越前 永平寺

2018-07-27 | 

30年振りに永平寺に行った。前回は車で東名から敦賀、北陸道を通って永平寺に行った。覚えているのは「杓底一残水 汲流千億人」と刻まれた大きな総門(龍門)と、受付を入ると若い坊さんから境内の説明があり、瓦修理の志納のお願いがあって、始めて堂宇を廻ることが出来た事や堂内ではテレビなどでよく放送する若い僧侶が明け方、鐘を振りながら駆け上がる回廊しか記憶に残っていなかった。
 
 
今回、気になったのは回廊ですれ違う若い僧侶が、観光客は目に入らないかのように取り澄ました感じで歩いていた。ほかの大きな修行道場では見られない光景だった。永平寺は観光客に若い女性も多く、眼が合わないよう真っすぐ前を見るように修行しているのだろうか。今回は福井松平家の廟所を訪ねるため永平寺に来た。吉祥閣での大きな絵図を前に参拝の心得を法話している所はお辞儀をしてスルーして傘松閣に向かう。平成七年の再建された傘松閣の天井には二百三十の花鳥彩色画も復元されている。誰が考えたか、この絵の中から唐獅子2枚、鯉2枚、栗鼠1枚の絵5枚を見つけると願いが叶うと云う。
 
 
 
 
永平寺は寛元二年(1244)道元禅師によって創立された曹洞宗大本山で、当初は大佛寺と称していたが、二年後の寛元四年に大佛寺を永平寺と改めている。永平寺は山の傾斜地に七十余棟の諸堂を建て、中心となる山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、浴室、東司(とうす)を七堂伽藍と呼び、僧堂、浴室、東司を三黙道場としている。法堂に向かって北西の高所に歴代禅師のご位牌と開基波多野義重像を安置してお祀りしている御真廟(承陽殿)と、天海版一切経六百六十五函が収納されている一華蔵がある。この承陽殿の東、一華蔵の南、中庭に福井藩祖秀康の生母、長松院の墓がある。墓碑銘により明治十二年の火災により御霊屋焼失後の同十三年に廟所を再建、昭和三十三年承陽殿の再建時に現在地に移された。
 
 
 
 
 
 
長松院墓から仏堂を挟んで反対側の南東方向、書院と浴室の間の斜面に福井松平家の霊廟がある。ここには隆芳院(福井三代藩主忠昌)、忠昌継室慶寿院、大安院(福井四代藩主光通)、光通正室清池院の五輪塔がある。
 
隆芳院五輪塔は正保三年(1646)、慶寿院五輪塔は万治二年(1659)、四代藩主光通により建立され、寛文十一年(1671)、清池院の百日の法要卒哭忌にあたり光通は永平寺へ分骨し五輪塔建立、大安院五輪塔は延宝二年(1674)、光通逝去により遺骨を大安寺、永平寺、紀州高野山奉納との遺言により五代藩主昌親によって建立された。福井松平家の霊廟に立ち入ることはできないが、永平寺墓所図によると中央に隆芳院(福井三代藩主忠昌)石塔があり、両脇に二基と背後に五基の松平忠昌に殉死した家臣の石塔がある。


 
山門を表から写したくて、一旦建物を出て、永平寺川に沿って円通門の横を通ろうとしたら、センサーで通行禁止のテープが鳴り響いた。
 
 
歴代住職の墓のある寂光園まで行こうと思ったが、暑くなりそうなので門前の茶屋で一休みして一乗谷に行くことにした。

 

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福井 松平家墓所(千畳敷)

2018-07-21 | 掃苔

福井大安寺の駐車場から200m位の先の二股の道を右に折れ、道なりに300mほど登ると小さな空地があり、竹や木で滑り止めになっている道が現れる。ここから100m弱登ってやっと千畳敷にたどり着く。標高差僅か66mに過ぎないが、松平家墓所が大安寺本堂の裏手にあると思い込んでいたのでかなりきつかった。
 
 
 
福井松平家墓所の前に千畳敷の由来が掲げてあった。それによると「この墓所は、大安禅寺の「縁由書」によれば、第4代藩主松平光通公が両親及び先祖の恩を思い、万治2年(1659年)から3年までに完成したもので、初代藩主結城秀康ほか歴代藩主の霊をまつっている。四方は2メートル程の石柱玉垣をめぐらしその中に芴谷石の石板千畳を敷き詰め、高さ3メートルの同型の墓石が10基相並んで立っている云々」とある。すなわち藩祖秀康、三代忠昌、同室道姫、四代光通、同室国姫、五代昌親(七代吉品)、八代から十一代までの計十基で、二代藩主と六代藩主の墓はここにはない。
 
 
福井藩主系図はややこしい。誰を藩祖とするかで異なるが、福井県史によれば、徳川家康二男結城秀康を藩祖として二代忠直、三代忠昌、四代光通、五代昌親、六代綱昌と続くがこの福井松平氏の姻戚関係が非常に複雑。秀康長男二代忠直は数々の乱行を理由に元和九年(1623)、大分豊後に流配となり二男の忠昌が三代藩主となる。毛利秀就に嫁いだ秀康娘喜佐の娘土佐は二代忠直と二代将軍娘勝姫の子光長に嫁ぎ、光長娘国姫が嫁いだのが忠昌の次男四代光通で、光通と国姫の間に世継ぎがいなかった。国姫は寛文十一年(1671)自殺、あとを追うように光通も延宝二年(1674)自刃してしまう。光通の庶弟昌親が五代藩主となる。光通庶兄昌勝の長男綱昌が六代藩主となるが精神を侵され乱心領地召上(三十万石に減封(貞享の半知))となる。七代は吉品(昌親)が藩主となり、昌勝の六男吉邦が八代、昌勝の三男宗昌が九代を継ぎ、秀康の五男直基の孫知清の四男で八代藩主吉邦の娘勝姫を嫁にした宗矩が十代藩主となる。宗矩に世継ぎがいなかったため八代将軍吉宗(紀州二代藩主)の四男、初代一橋家当主徳川宗尹の長男重昌が十一代藩主となる。福井初代藩主秀康の葬地は孝顕寺(のち運正寺)だったが、浄光院を建立し改葬、高野山に秀康の母(長勝院)と共に石廟がある。二代忠直は大分浄土寺、三代忠昌は浄光院と永平寺、四代光通は大安寺、五代昌親(七代)と生母高照院墓は瑞源寺、六代綱昌は深川霊厳寺、八代吉邦、十代宗矩公は運正寺と何故か各所に分散している。越後松平家は昭和二十年の福井大空襲と二十三年の福井大震災後の区画整理により孝顕寺、運正寺、東光寺の墓所を明治以降の墓所である品川海晏寺に改葬している。
 
 
高野山の秀康霊屋内には宝篋印塔五基、母の霊屋内には宝篋印塔二基と五輪塔が納められているという。
 
大安寺の松平家墓所、秀康墓石の後には殉死した者の墓碑(永見右衛門長次と土屋左馬助昌春)、
 
三代忠昌墓石の後ろにも殉死の者(山内隼人、鈴木多宮、瀧主計、水野刑部、斎藤民部、山本左門、太田三□)の墓碑一基があった。
 
この七家は「殉死之家に付」として優遇されたという。

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福井 大安寺

2018-07-13 | 

名古屋乗り換えで福井に行った。普通、小田原からは米原経由で福井に行くが、乗換え時間を「もっとゆっくり」にすると名古屋乗換えで案内がでる。福井行の特急「しらさぎ」は4番線発車で待ち時間に名古屋駅名物の「名代きしめん 住よし」に入る。3・4番ホームは電車の発着数が少なくこのホームの「住よし」は空いているという事で人気があるみたいだ。
 
 
福井駅の改札を出ると近くのベンチに白衣の人形が座っていた。マジマジと人形を見ていたら若い女の子に声を掛けられた。人形と一緒に写真を撮ってくれという。ポーズをとるのが大変、写真を撮るときの顔の向きや角度があるらしい。ニッコリした顔は別人みたいだった。福井駅には11時頃着いたが、駅前の閑散さに驚く。
福井松平家の墓所がある田ノ谷の大安寺に向かう。田ノ谷のこの所には昔、田ノ谷寺といい、七堂伽藍を持つ大寺であったが、天正二年(1574)、門徒一揆により焼失、荒廃したが、万治元年(1658)、結城秀康の孫、福井藩四代藩主松平光通が此跡に一寺を建立、開山は臨済宗大愚和尚。萬松山大安寺と号し菩提寺とした。光通は大安寺殿と法号し肖像を置き、代々の石塔がある。
 
 
 
 
 
 
万治元年(1659)に庫裏、翌年万治二年に本堂、寛文三年(1633)に鐘桜が建てられ、大愚和尚遷化の寛文九年(1669)の翌十年に開山堂が建てられた。延宝二年(1674)に光通が没すると、寺上方の山に廟所を造り、延宝五年(1670)に開基堂が建てられた。本堂・庫裏・開山堂・開基堂・ 鐘楼は国指定重要文化財に指定されている。本堂と越前松平家墓所の間に大愚宗築による明暦四年(1658)と銘のある亀趺石碑があった。
 
 
誰かの顕彰碑かと思ったら、この碑は佛體だという。三百六十年前に作られた亀に背負われた石文は難しかった。横に福井藩権大参事毛受洪の墓があった。

亀趺石碑銘
夫碑者佛體也古人曰釋子所歸敬莫如佛誠哉斯言也吾越前大守源光通
公誓勉五常路知六藝昼学武雄夜敬佛道所以野人懐慧勇士望風芲竹有
和気草木知威名至誠之所致自身之所直也為先祖開此山為太平建籍藍
附與山僧為住持山僧本好樹下願一居故應命住此山於此假大守余風為
光使元祚智門造建此碑上報四恩下莫三有銘當坐禅工夫行者豈不念道
眼未明而四恩難報哉豈不念道行非我修而誰修哉豈不念法山零落而求
妙心於瘡紙哉豈不念一子出家九族生天哉豈不念辞親棄俗為何事哉菩
提之種利済之行如件銘曰
禅坐鉄脊梁如海深山固信則渡船得疑則藤依樹教外傳耳聲霊方薬□苦
草見乱吐言浅聞何如足不得徳不孤無功功難論一念即万年不□猶一遇
普導世間同登覚路
   明暦四戊戌年七月初八日
   萬松山大安禅寺住持 前住妙心大愚宗築書

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静岡紺屋町 多可能と浮月楼

2018-07-05 | 

静岡では対照的な二つの店で食事をした。しかも多可能(たかの)と浮月楼は道路を挟んで向かい合っている。
  
居酒屋多可能は静岡の吞ん兵衛で知らない人は居ないと云うくらい超老舗有名店で、大正時代から続いて百年近くなるという。開店は午後4時半、予約して開店10分前に店に着くと、まだ暖簾もかかっていないのに入って行く。常連さんみたいな人に付いていくと、もうカンター、座敷、テーブルに客が座っていていたのには、ビックリして、店内の写真を写すところではなかった。すぐ満席になる。殆どが勤め人みたいな人が、何で5時前に飲み屋に集まれるのか不思議になる。
突き出しと一緒に出てきた醤油受けに葵の紋が、さすが徳川の城下町だと思う。カウンターの上の大皿料理にある貝の塩ゆでをみていたら、少しずつ混ぜましょうかと声を掛けてくれた。ながらみ、海つぼという貝だと云う。関東で云うシッタカやバイ貝みたいだけどよく判らなかった。ビールで落ち着いたあと、焼酎の緑茶割り、「静岡割り」を飲んでみた。緑茶が小さなポットで出てきたので驚く。料理も美味しかったが、この店の客への気遣い、接客が親切でかなりの好印象で人気店なのも納得する。
 
 
 
 

多可能の真ん前にあるのが、徳川慶喜は戊辰後の明治二年、謹慎していた宝台院から駿府紺屋町の代官屋敷跡を改造して隠居所としたが、屋敷近くを東海道鉄道が開通するのを嫌ったのか、開通の前年の明治二十一年に駿府城北西の西草深に転居している。紺屋町屋敷跡を明治二十三年、市内の資産家たちが市より払下げを受け、のちに料亭として開業したのが浮月楼で、大正十年発行「静岡案内」に「市内料理店二十三戸、飲食店三百四十九戸あり、浮月楼、求友亭、佐の春を一流として」と紹介され、今でも静岡駅から歩いて3,4分の場所に千坪弱もの庭を持つ料亭が残っているのが凄い。浮月楼には庭とコースの料理に入っている「慶喜好みの豚八丁味噌煮」がどんなものか知りたくて訪ねた。
 
 
 
庭園自体はどうのこうのという事はなかったが、庭の各所に濡鷺型、善導寺型と変わった型の燈籠があつた。パンフレットに菊花紋燈籠、三日月型燈籠もあるとあったが気が付かなかった。
 
 
 
 
 
 
館内に「萬事莫如花下酔百年渾似夢中狂」と云う慶喜の書があった。

謹慎後、慶喜はどんな夢をみていたのだろうか。十年ほど前、小田原で「進退周旋必於理合出處行蔵一以義決」と書かれた慶喜の晩年の書が見つかった。進むか、退くか、行動するときには必ず理に合ってなければならない、行いは義をもって決めろという。慶喜は自らの生涯を「信念を貫き、恥じるところがなかった」と振り返り、理にかなった一生だったと思っていたのだろうか、それとも明治維新時の行動を正当化する言い訳にしたかったのだろうか。

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