大佗坊の在目在口

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蒲郡西浦 光忠寺

2024-02-27 | 

名鉄蒲郡線西浦駅から500m、東に歩いて約10分、形原松平家菩提寺の法林山樹祥院光忠寺を訪ねた。

地図を見ると、この寺の北東500m位に形原松平氏居城だった形原城跡があった。城からみると光忠寺は未申(南西)の方向、裏鬼門になる。形原城の丑寅の鬼門は竹島の八百富神社では話が飛躍しすぎか。光忠寺は何時頃創建されたかは不明だという。「寛政重修諸家譜」では初代松平興副は松平信光の四男で永正年間(1504~1520)にこの地で死す、としており、法名光忠、形原の光忠寺に葬る、興副を開基とする所なりとある。それから二百五十年ほどのちに一族の丹波亀山藩家老松平敏が形原松平家五代家忠までの記録を編纂したという「形原記(形原遺事記)」では、信光の一男左京亮守家は竹谷の祖、二男右京亮親忠は安祥家と称し、三男與福は形原の城に居住し、形原家の祖とし、與福弟の光則(光重)は一寺を創立し興副を葬り法林山光忠寺と号し、菩提寺とするとあった。興副が形原に移り住んだのは何時の事だったのだろうか。「松平記」に松平氏親氏を初代として三代信光のとき、松平郷松平氏系統は岩津、形原、安城、大給、岡崎、竹屋、五井、長澤の松平家のみで、他の数多い松平を称する家は同名他家としている。文亀元年(1501)の大樹寺文書に興副の弟光重の子で形原左近将監貞光の名があるという。形原を名乗っていた二系統の松平氏がいたことになり、興副系の形原松平と光重系の大草(岡崎)松平との関係で大草松平二代親貞は光重の子親忠と同一人物という説もある。形原松平家にきて、徳川の十四松平、十八松平とも称される松平庶家間の関係が混同してわからなくなってしまった。

「光忠」も実名なのか法名か判らないが、本堂の左手手前に綺麗に整備された墓域に形原松平家、初代興副(与福)、二代貞副、三代親忠、四代家広、五代家忠の墓碑があった。



光忠寺は藩主形原松平家のお供寺として下総佐倉、摂津高槻、丹波篠山と移り、亀山で明治維新を迎え、六代から明治維新に至る亀山藩主最後の十八代信正と十九代以降の形原松平家の墓碑は亀岡の光忠寺(浄土宗総本山知恩院末寺)に祀られているという。桶狭間の戦いで今川義元討死により松平元康(家康)は今川方より離反、その時、東三河の武士団は元康に帰属したが、永禄五年(1561)三月、今川氏真は離反した武将(形原松平四代家広妻、竹谷松平四代清善娘、西郷正勝妻等)の人質十三人を龍念寺(龍拈寺)前で誅殺し中野新田に葬ったという。
(老津 太平寺から十三本塚へ)

形原松平氏の家紋は丸に利の字紋、馬印は利剱是。永禄元年(1558)、尾張の織田信長に寝返った鈴木重辰と今川氏麾下の松平元康は豊田寺部城で戦った。その帰途、織田勢の奇襲に会い、大樹寺に逃げ込み応戦した。応援した大樹寺の僧徒が旗として使用したのが「厭離穢土欣求浄土」の大幡で、この時、松平家広が目印として「利剱即是」の幡を使い、戦いのあと「利」の文字だけ残り、あとは悉く切り裂けてしまつたと云う。主君元康(家康)は家広の軍功を褒め、「利」の一字を家紋にと命じた。小牧・長久手の戦いでは又七郎家信が「利即是」を馬印として使用したという。沼田頼輔によれば寛政譜で利文字紋使用は形原松平氏のみだそうです。
光忠寺本堂左側の墓域の中央、井戸のそばに形原松平氏支族の松平貞幹と松平但馬家の墓石があった。


墓碑によれば、貞幹は形原松平七代信直の七男で八代信道、九代信志、十代信彰の三候に宿老として、また十一代信豪の時には江戸家老として仕え、随筆「芝陽漫録」を残している。

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