大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

藤沢本町界隈1

2017-05-26 | 東海道沿線

新編相模風土記稿に「八王子社 武蔵坊弁慶の首塚ありし所にて弁慶の霊を祀しと云う(塚は廃す)」、また「常光寺 八王山摂取院と号す、浄土宗(鎌倉光明寺末寺)元亀三年(1572)本寺二十七世明蓮社光誉建立して退隠の所とす」とある。弁慶が実在したかどうかは別にして、常光寺の西側にある八王子社跡に弁慶塚(供養塔?)があると云うので出かけた。
小田急藤沢本町駅から旧東海道を藤沢宿蒔田本陣の方へ10分位歩いて消防署の脇の道を入ると常光寺の山門に着く。山門に記念碑があった。何だと思ったら、明治五年藤澤警察署発祥の地だという。
 
藤沢市指定の文化財、庚申供養塔や「かながわ名木100選」に選ばれたカヤの木などが境内に残っている。
     
裏山の墓地には檀家さんしか入れないので、山門から西側のお寺を巻いている道に出て駐車場の手前の私道みたいな道を入ると「弁慶塚」の看板がある。石段を上がり、さらに左手の石段をあがると正面に弁慶塚が見えてくる。
 
 
 
 
また常光寺に戻り、美人で麦搗唄にも唄われたという藤沢の阿亀の墓を探す。文政十三庚寅年(1830)、相模州藤沢駅の小川泰二により編輯された[我がすむ里]によれば亀女の墓「常光寺の後山、卵塔場の中にあり、石碑にハ地蔵の立像を彫り、側らに寛文五年(1665)乙の巳九月十五日とあり」とある。亀女が出てくるという麦搗唄を探したが見つからなかった。理由は不明だが、いまは今井家の墓域の一角に移されていた。
 
消防署から100mほど駅の方に戻ると荘厳寺の入口がある。荘巌寺は[我がすむ里]によると、荘厳寺旧地は常光寺の西隣りにあり、元暦元年甲辰(1184)に開基。元文年間に火災で消失したが延享四年(1747)に荘厳寺が別当を務めていた白旗神社の隣に再建し旧地ハ只草堂一宇のミありという。明治八年(18751)神仏分離令のため現在地に移転した。本堂を掃除していたご住職に挨拶すると、本堂に安置してある源義経の位牌をみせてくれた。許可をもらって写真を撮らせてもらう。「笹竜胆紋に 白旗大明神 神儀」とあった。
 
 
白幡神社に向かう途中に「義経首洗井戸」がある。旧東海道(国道467号線)沿いの交番の脇から私道みたいな道の突当りに5・60坪位の公園なのか広場があり、その一角に義経首洗井と源義経公之首塚があった。
 
 

傍の説明に「源義経(鎌倉幕府の将軍源頼朝の弟)は、頼朝に追われて奥州(東北地方)に逃げていましたが、一一八九年(文治五年)に衣川(岩手県奥州市)で自害しました。腰越(鎌倉市)で首実検の後に浜に捨てられた義経の首は、潮に乗って川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられています」とあり、首洗井戸の脇には「九郎尊神」と刻まれた石柱がある。義経公之首塚表の右側には武蔵坊辨慶之霊、左側には亀井坊・伊勢坊・片岡坊・駿河坊 各霊(亀井六郎重清・伊勢三郎義盛・片岡八郎経春・駿河次郎清重)とある。昔、白旗明神御旅所の傍に義経公の首を此処に埋メ塚とし、諸人群参して礼拝せし故にかく礼拝(ライハイ)塚と呼ばれたと伝わる。昔はここに松の大木あったが近年、枯して一名首塚と呼ぶと「我がすむ里」にあった。何故、義経公の首塚が義経首洗井戸の傍になったかその経緯が白幡神社のH・P、ホーム に詳細な記載があった。
史蹟 源義経公の首塚 (白旗神社のサイト)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辻堂界隈

2017-05-18 | 東海道沿線

JR東海道辻堂駅南口から海岸の方にブラブラ歩いて10分程で八森稲荷神社に着く。
 
 
この境内に柵で囲まれた野晒しの鉄板が保存されていた。明治二十一年(1888)、海軍兵器製造所技手の下瀬雅充が開発した新火薬を、辻堂の南方海浜に江戸時代からあった炮術場で試した。その試射に使われた鉄板の一枚だと言われている。日露戦争で下瀬火薬は大きな効果をあげたという。
此処から100mほどの寳泉寺に向かう。
 
その途中に京・鎌倉往還道15(鎌倉街道)の辻堂郷土史研究会による表示板があった。北に約2kで旧東海道が通っている。脇街道として辻堂の海岸側に京都と鎌倉との往還古道があったのだろうか、何か史料でもあるのだろうか。
 
海龍山観音院寳泉寺は別名、南の寺、光明真言道場とも呼ばれ、古くは寺の近くに辻御堂があり、辻堂の地名の由来の一つとされている。境内の集められた石造物の中に「寛保二壬戌年(1742)夭 辻堂村海龍山堂場 常光明真言江之道」と彫られた石柱があった。元もとは、どこに置かれていたものだろうか。
 
 
寳泉寺の隣に村の鎮守、諏訪神社がある。諏訪神社由来記碑があった。
 
  
光明真言道場道と旧鎌倉街道が交差するとしている辻堂四ッ角から北方の寳珠寺に向かう。明治初期から中期 にかけて関東地方を対象に作成された「迅速測図」をみても、この四ッ角が特定できず、この四ッ角と云う地名は比較的新しい呼名だと思われる。歴史的な道標を動かしてしまうと、光明真言道場道にしてもどこを通っていたのか分からなくなってしまうのは残念。途中に日枝神社があった。寛政改己酉元年(1789) 辻堂村八月吉祥日北講中とある、直衣姿で袖の中で手を合唱している双体道祖神があり、地元では北町双体道祖神と呼ばれ親しまれているという。
 
 
相模でも小寒から節分までの寒さの厳しい時期に念仏を唱える寒念佛が盛んだった足柄に比べて湘南は庚申信仰が盛んだったらしく、庚申塚が多く残されているように思う。道なりにいったら寳珠寺の南門から境内に入ってしまった。
 
寳珠寺は新編相模国風土記稿に「八松山明王院と号す、古義真言宗(藤沢宿感応院末)本尊不動を置く、開山元朝(元暦三年三月八日寂す)中興を玉鉉(享和三年寂す、寺記の類、元禄七年八月雷火に烏有すと云う)と云う」とある。文化元年玉鉉僧都のとき現在地に移転復興したと由来碑にある。
  
境内に藤沢市の重要文化財に指定されている寛文六年(1666)庚申供養塔の説明に「庚申信仰は、十干・十二支の組み合わせによって、六十日に一度めぐってくる 「 庚申の日 」 に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。この源流は、「 人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる 」 とする中国の道教の教えに由来している。
 
 
江戸時代、万治・寛文頃(1658-1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった」とあった。
 
境内に四国八十八カ所の御遍路をすますことが出来る四国八十八ヶ所御砂踏霊場巡りがあった。八十八ヶ所の土砂加持の上を廻ったような気分になるから不思議である。山門から出て駅に向かう。
 
 
 

参考
諏訪神社由来記碑文   祭神  建御名方命 八坂刀売命
諏訪神社は平治年間の創立と謂われるがその時代に此の地に社殿が造営されていたか不詳である。当地は永録年間小田原北条氏の知行所であったところ徳川氏の頃に至って天領となり二十六字二百六十石とされ旗本の采地となった。寛永八年火災のため社殿と共に種々の重宝古器物および諸記録を焼失し同七年地頭保々長兵衛尉源則貞が社殿を再建して当地の総鎮守社としたが文政七年別当海竜山宝泉寺の火災に類焼の難に遭い勧請年月の記録類を再び焼失した。古老の口碑によれば文政八年七月再建されたと。その後は氏子達の寄進によって維持され大正十二年九月の大震災による拝殿の倒潰は翌年九月復旧し大東亜戦争の際国防用に供出した鐘は戦後(昭和三十一年)新調しその他大小の補修は篤志家によって行われ今日に到っている。現在の本殿は高御座を二座に分け左側を上諏訪神社右側を下諏訪とし建御名方命(男神)八坂刀売命(女神)が鎮祭されている。明治六年「村社」に列せられた。例祭日は毎年七月二十七日とされこの時には神輿が出御し東西南北の四町内には「奉献両諏訪大明神」と大書された幟が立ち各町内に在る花車は人形を飾り太鼓笛鉦などはやして村内を練り廻るなど昔ながらの行事が今も残っている。現存の旗幟は一番古い物で寛永十五年三月十五日と誌され花車は二百年前頃の作てこれに八形を飾るようになったのは百年前頃と思われる。
昭和四十六年二月七日社殿復旧を記念して    諏訪神社 氏子一同

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊川三明寺から大聖寺・長谷寺へ

2017-05-11 | 

豊川稲荷のある賑やかな豊川駅西口に比べて東口は数棟の高層マンションがあるものの、駅前が区画整理組合の売れ残りの保留地みたいに広大な駐車場になっている。ここから歩いて10分程の所に三明寺がある。曹洞宗のお寺で龍雲山妙音閣三明禅寺という。通称、豊川弁財天と呼ばれている。
 
 
 
三河刪補松に「妙音天ハ大江定基カ愛妾力寿ノ模像ヲ表シタルト云、尊姿艶色ニシテ裸形タリ」とあった。ここの三重塔は享禄四年(1531)、建立されたもので、一・二層は和様で三層を唐様で建てられた珍しい構造だという。三層の軒の反りが異なるのは下から見上げてもよく分らなかった。訪れた時は境内の枝垂れ桜はまだ三分さきでしたが、三つの願望が成就するとされる三徳稲荷まえの桜は満開でした。
 
三つもお願いが出来ると知っていたら、ジャンボにミニにロト7、お願いするのだった。
豊川駅のお隣牛久保駅から歩いて10分も掛らずに大聖寺に着く。
 
案内板に「戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は永禄三年(1560)五月十九日、尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討死しました。その時、首をとられた義元の胴体を家臣が背負って当地まで逃れ、この寺に葬って、とりあえず手水鉢をのせ墓石の代りにしました。それが、「義元の胴塚」と言われる由来です。嫡子上総介氏真は永禄六年(1563)父義元の三回忌をこの寺で営み、父の位牌所として寺領を安堵しました。その後、墓は整備され、毎年義元の命日には、地元の人々により慰霊祭が行なわれています」とあった。
 
 
桶狭間から牛久保まで僅か50k弱、奇襲に合って本陣を破られ戦場から逃れた時は背負ったとしても、この豊川あたりは今川領、幾らでも馬を調達して駿府まで運べたと思うのだが。それとも追撃を恐れて、蜘蛛の子を散らすように在所や駿府まで逃げ帰ったのだろうか。
横に一色刑部の墓がある。
 
「室町時代足利の一族一色刑部少輔時家の墓である。永享十一年宝飯郡長山村に築城して一色城と称した、此処の窪地に大牛が横臥していた因縁により牛頭山大聖寺を城郭内に建て、牛頭天王を祀った、文明九年時家は豪臣波多野全慶に殺され、十六年後には全慶も亦牧野古伯に討たれ城主は牧野氏となる、永正二年古伯吉田城を築いて豊橋へ出て次男成勝を瀬木城より呼んで城主とした、之より牛窪城と改まる」と説明板にあった。この牧野家が家訓としたのが参州牛久保之壁書で二十七ヶ条の第一条が有名な常在戦場の四文字です。明治二十六年早川彦右衛門発刊の三河国宝飯郡誌に(全慶は其主一色刑部少輔を殺すと三河国聞書に見えたり)としているものの「当寺境内に一色刑部少輔五輪、波多野全慶墓あり」としている。全慶が一色刑部を殺害した話は本当なのだろうか。
大聖寺から歩いて10分位に山本勘助の墓がある長谷寺に向かう。一般住宅のようなお寺で探すのに苦労する。
 
 
三河国宝飯郡誌にも山本勘助晴幸の墓や故居の記載がある。勘助弟帯刀の末裔といわれるが、戊辰戦争会津飯寺で戦死した長岡藩家老山本帯刀義路(旧安田氏)や太平洋戦争の山本五十六(旧高野氏)元帥と牛窪山本氏との繋がりが気になる。近くに越後長岡藩主牧野忠成の祖父にあたる牛久保城二代城主牧野成定の菩提寺、光輝庵(今光輝院)や成定の墓があるのを全く気が付かなかった。残念な事をした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊川稲荷

2017-05-01 | 

久しぶりに飯田線に乗った。相変わらず豊橋駅の飯田線ホームは1・2番線だったが、向かいのホーム3番線に名鉄の特急が停車していた。JRホームの間に私鉄専用ホームがあるのも珍しい。
  
豊川駅で降りて駅近くの郵便局に向かう。赤い線のある建物で大きな郵便局だなと思いながら中に入ると、ATMがズラリと並んでいた。すぐ制服の女性が近づいてきて御用件は、と聞かれた。風景印どころではなかった、建物を間違えたようだ。慌てて出てきたら、小さな郵便局が隣にあった。
 
豊川稲荷は、門を潜ると赤い鳥居か幟がずらりと並んでいるイメージだったが、総門を入ると大きな境内を持つ曹洞宗の妙厳寺というお寺でビックリした。正式には円福山豊川閣妙厳寺という。境内に吒枳尼天を祀る鎮守稲荷が商売繁盛の神さん、豊川稲荷として知られている。
 
総門の脇に鎮守堂、鐘楼堂、正面に山門があり、山門の右手に書院(立願所)がある。ここの前に珍しい郵便ポストが残っている。地方に行くとまだ郵便ポストが残っているが、ほとんどが昭和24年から使われた鉄製ポスト(正式には郵便差出箱1号(丸型))ですが、豊川稲荷にあるポストは明治四十一年に制定された回転式ポストと明治四十五年製造の丸形庇付ポストを合せたような珍しい郵便ポストだった。もっとも私設郵便函規則は大正五年十二月二十九日逓信省令第七十号として発令、翌年一月十六日からの施行なので、当然このポストの設置時期は大正六年以降で、しかも私設郵便取集費用は回数により異なるので、大量の郵便物取扱いがなければ、切手の売捌手数料では取集費用を賄えないので、このポストはかなり近年になってから設置されたのではないだろうか。
 
 
  
本殿横の回廊を潜ると、宝雲殿、万燈堂(禅堂)、弘法堂、大黒堂、霊狐塚と続く。霊狐塚は大黒堂と奥之院の間、幟が両側に立ち並び、この幟、1本奉納するのに幾ら位掛るのかなと思いながら奥にすすむと、数えきれないほどの小さな狐の石像が現れた。なにか見つめられているようで恐ろしい感じがする。何の祠だか分からなかったが宜しくとお願いした。
  
  
 
  
 
 
眷属として龍や狐は多いのに、なぜ狸は少ないのだろうかと思いながら奥ノ院に行く。奥ノ院から景雲門を通って本堂の石段の下に戻る。
 
  
法堂の横手にある朱印所で本尊の「千手観世音菩薩」、本殿の「豊川吒枳尼眞天」、万燈堂の「大聖不動明王」、薬師堂の「長壽薬師如来」4種類の御朱印を頂いた。境内参拝案内図をみても薬師堂は見当たらず、不思議に思いながら門前町に向かう。10年ほど前に東京の古い稲荷寿司屋を廻ったことがあるが、有名だった老舗も相次いで閉店していてがっかりしたことがある。野球のユニホームを着た少年たちが群がっているいなり寿司専門店があった。一個から売っている店で子供たちに混ざって買ってしまった。
 
その先に幟が立ち並んでいる小道があり、奥にお堂があったので御朱印を聞くと有ると言うので頂くと、朱印所で頂いた「長壽薬師如来」と同じ御朱印で慌てて入口で案内板をみるとここが薬師如来堂だった。同じ日に同じ御朱印を頂いたのも初めてだった。
 
   
   
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする