大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

伊豆 慶寿院から天城神社へ

2019-11-27 | 

門野原神社から南に歩いて5分程度の所に地図上では慶寿院というお寺がある。番地を頼りに付近をグルグル歩いてしまった。やっと近所の人を捉まえて聞いたら、奥のあばら家が慶寿院跡で、移転してお寺の事は知らないという事だった。
 
 
壊れかかった家の横を奥に入ると山際に沿って石仏が並んでいた。後で航空写真をみて判ったが細い道の奥に大きな墓地があるのに気が付かなかった。この慶寿院は永禄二年(1559)寂した最勝院八世大用和尚の開山で山号を神尾山と云う。大用和尚が、神尾治部右衛門が自刃した門野原に神尾を山号として一庵を建てても不思議ではない。慶寿院に山号の謂れを聞きに行ったが廃寺では無理だった。
最勝院七世清真は弘治元年(1555)、近くの湯ヶ島で弘道寺を開山した。弘道寺は上杉龍若が殺された天文二十一年(1552)の三年後に開山。弘道寺、山号は天城山、旧は白樺山と号し、龍若の祠の傍に在ったという。東原の桜地蔵に向かう途中、湯ヶ島の天城神社と弘道寺に寄る。
 
 
弘道寺は伊豆市の天城湯ケ島支所の南側にあり、旧は龍若の祠の傍にあり福寿庵と称したという。知らなかったが、安政四年(1857)、下田領事のハリスが江戸に出向く時、一泊した寺として知られているという。弘道寺の隣に天城神社がある。天城神社は明治十一年、西平の山神社、金山の山神社、東原の若宮八幡社を合祀して天城神社という。東原の若宮八幡は上杉憲政の長子龍若を祀り、廟を立て其太刀を神主としていたが、この太刀は盗まれてしまったという。また別殿に山神、第六天、杉崎、金山、子神、姥神を合祀してあるという。この姥神は龍若の乳母を祭ると伝わる。豆州志稿に「応永二年(1395)重修ノコトアリ」と記されている。応永二年には既に八幡宮が祀られていたことになる。この応永二年は上杉憲定が将軍足利義満により伊豆・上野の守護に命じられた年でもあり、この宮を修理したのは上杉憲定だったかもしれない。
 
 
この神社の境内に市指定天然記念物指定の「お宮の椎の木」と呼ばれる大きな木がある。どの木が椎の木かと見上げて歩いていたら木の根っ子に躓いて転倒、膝を擦り剥いてしまった。しばらくの間、ボ~ッとしてしまった。鈴木壮六書の忠魂碑の後方に御神木でもある椎の木があった。西向きに建てられた本殿の石段の前に古そうな阿吽の狛犬があった。この二体の狛犬は同じ方向を向いているので不思議に思った。
  
昭和57年(1982)発行の「天城の史話と伝説」に「弘法さんと狛犬」の民話が載っていた。「昔むかし、湯ケ島に湯治に訪れ旅人が御礼に二体の狛犬と弘法さんの石像を彫って、村はずれに弘法さん、天城神社の本殿前に二体とも天城山の方向にむいた狛犬を据えて行った。天城山の方向を睨んだ狛犬が奉納されてからは山犬がいなくなったという」。昔の写真をみると本殿の柱の前に置かれていた。伊豆の天城山って何所に在るのだろうと地図を探してしまった

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伊豆 門野原神社

2019-11-20 | 

修善寺駅から国道414号を南下して県道124号との分岐点(出口)の先に門の原バス停がある。このバス停から西に5.6分歩いた所に門野原神社がある。この神社への入口が分からず付近をウロウロしてしまった。
 
 
伊豆門野原は作家井上靖の父親の出身地でもあり、家に戻ってから井上靖の自叙伝的小説「しろばんば」を読んだ。小説に出てくる伯父は湯ヶ島小学校校長石渡盛雄をモデルとしている。井上靖の父親
井上家の婿とあるのでの、実家は石渡家なのだろう。石渡家は門野原の旧家で明治中期の資料を纏め郷土史「温古誌」を編纂した三島神社の神官だった石渡延美の先祖は北条家石渡隼人知祇󠄀と伝わる。延美の孫で府立三中教師だった石渡延世の学校葬で「人は云ふ、訃あり、石渡先生長逝し給ひぬと、果して然る乎」で始まる送別の辞を送ったのが芥川龍之介だったのには驚いた。伊豆の地誌、豆州志稿に「神尾治部右衛門墓、門野原村神土にあり小石祠を建つ。古老傳。云上杉龍若、湯ヶ島に於て自刃す、其臣神尾氏追跡して此に至り龍若の死を聞き亦自刃す因て此に葬り石塔を建つと、後又祠を建て石塔を神主とす(旧称神戸八幡にして墓地とは異処也)、旧墓所は一石を標とす登れば祟りを為すと云」とあるが、増訂豆州志稿(以下増訂)に「村社門野原神社祭神不詳,相殿五座山神、稲荷、八幡、愛宕、姥神。初字諏訪の社に在りて相殿に山神を祭る(山神同林中に在り五輪の塔を蔵す)」。明治六年に五座の祭神を合祀し諏訪神社とし、さらに明治十一年に門野原神社とした。祭神の姥神は上杉龍若の乳母を祭ったものだと云う。
 
 
 
また「別殿の内、神尾とある。霊神は初字神土に在て八幡と称す、明治六年遷祀す。神土八幡、五輪矢鏃を主とす上杉の臣神戸を神とし祭る由。神戸は神尾の誤にして神尾治部右衛門也、蓋龍若の乳母と共に此地にて自刃せるならむ」とあり、この門野原の地名は、豆州志稿に旧名龍若臣神戸氏を葬りし原なればなりとあり、増訂に「龍若臣は神尾氏なり神戸にあらず若くは神尾を神戸と転記せるも知るべからず或は云門野原は神土(かむと)ノ原ならむ、神土は神領なり検地帳神土の地名多しと、伊豆順行記にも古へ神土原と記せり」ともある。門野原の神土の呼名もよく解らない。温故誌では「かんと」と表記しており、さらに「門野原に上杉龍若の臣神尾氏の古墳あり、古老云、神尾は主人を慕い来れるにもはや湯ヶ島に自刃せしと聞て此処に自刃す、后年其石塔の頭を神体として若宮八幡と祭、その神体いまに存せり」、また「門野原字神土と云処の田中に上杉龍若臣神尾氏墓あり、古は五輪ありたりと云、其五輪の頭計り存れり、村社に蔵ス、墓地には享和元年(1801)造立の小石祠あり、彫り曰、上杉龍若家臣 神尾門殿神廟 願主小森安右衛門 安右衛門其当時田地の持主也、口碑に曰、耕作の為此地墓を汚し神罰を蒙れり、故に小石祠を建立すと云へり」と、また「神尾氏五輪の頭(長壱尺ニ寸)明治廿八年上杉臣神尾氏の石祠に蔵す」とある。龍若が殺されたのが天文二十一年(1552)とすれば、約百五十年後に神尾氏を祭った小石祠が建立されたことになる。百五十年間の間に神尾治部右衛門は北條家臣から上杉龍若家臣へと誤って伝承されたことになるのだろうか。ご神体の36cmばかりの五輪の頭が残っているかと門野原神社を訪ねたが、残念なことにの五輪の頭が在るのか、無いのか、神社の石段を登った時から誰かに見られている気配があったが、周りに人影もなく聞くことが出来なかった。

 

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伊豆 龍若丸と神尾氏

2019-11-13 | 

源範頼や鎌倉二代将軍頼家の墓を訪ねて伊豆の修善寺に行った。戻ってから伊豆の地誌、増訂豆州志稿を読んでいたら、伊豆に上杉龍若丸と神尾治部右衛門に関係する神社、お寺が在ることが判った。会津藩の絡みで、旧北條氏家臣だったという神尾伊予栄加という侍を探している。小田原東町の大友皇子が奉ってある戎神社の横に上杉神社がある。この神社の事は以前「正之公母堂浄光院と神尾氏」で一部紹介した。新編相模風土記稿に「戎社の側、海岸丘上ニアリ。小笹生茂リシ中ニ方二間ノ処ヲ墳所トシ五輪塔六基並ビ立リ。中央ナルハ大ニシテ餘ハ皆小ナリ(大ナルハ高三尺小ナルハ二尺)土人是ヲ龍若稲荷ト唱エ若手ヲ振ルヽ事アレハ、必崇アリトテ甚敬憚ス。按スルニ天文二十一年(1552)北條氏康、管領上杉憲政ノ嫡男龍若丸ヲ殺シ且憲政ノ家人、妻鹿田新助等六人ヲ一色ノ松原ニテ刑セシコトアリ」とある。天文二十一年、北条氏康に平井城(群馬藤岡)を攻められた関東管領上杉憲政は嫡男龍若を打棄てて、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り落ち延びていった。置き去りにされは家臣の逆心にあい、北条氏康に捕らえられ処刑されたという。
 
 
鎌倉九代記は詳しく「龍若殿をば、笠原能登守請け取りて、荷鞍置きたる馬に打乗せ、中間二人に口を引かせ、白昼に小田原へ入れまいらせければ、是を見聞く輩、袖を絞らぬは無かりけり、翌日早朝に神尾治部右衛門に仰せられて、御首を討たせらる云々」、また「石巻隼人正に仰せて、お局を初めとして、悉く搦取り、後代の見懲の為、一色の松原に引出し、磔にぞ懸けらける」と、新編相模風土記稿には九代記の引用がある。一方、寛政重修諸家譜藤原氏良門流上杉系譜に「小次郎龍若丸 永禄元年父憲政越後国に没落のとき、独平井城のとどまり旧臣これを保護す。しかるに妻鹿多が一族そむきて龍若丸を擒にし、北條氏康に降る。のち氏康がために害せらる」とあって、さらに関東古戦録に「氏康則笠原越前守康朝ヲ以テ請取セ伊豆ノ修善寺ヘ送リ遣シ南方小番ノ侍神尾治部左衛門ニ介錯ヲ命シテ終ニ誅戮セラレケリ去共氏康誉ノ大将ナレハ石巻隼人正ニ申含メ不忠不義ノ悪逆人世以テ見懲シテ為ナリトテ目賀田ヵ一族八人ヲ高手小手ニイマシメ小田原ノ大路ヲ引渡シ一色村ノ松原ニ磔ニソ梟レシケル」とあった。南方小番ノ侍がどのような役割なのか、神尾治部左衛門は伊豆衆筆頭の笠原越前守康朝組の侍なのかはっきりしなかった。延宝三年(1675)成立の「鎌倉九代記」は龍若丸打ち首の場所の記載はなく、享保十一年(1726)完成の「関東古戦録(関八州古戦録)」は龍若丸は修善寺にて誅戮とある。社寺の記載が詳しい、文化三年(1806)に完成している「五街道分間延絵図」の網一色村に戎宮の記載は在るものの上杉神社の記載がない。

 
文化九年(1812)完成の「寛政重修諸家譜」では龍若丸項に氏政に害せらるとあり場所の記載はない。天保十二年(1841)成立の「新編相模国風土記稿」は「氏康龍若丸ヲ殺シ」とあり、後記に鎌倉九代記を引用している。龍若丸の誅戮場所が記載されているのは北条氏康が平井城を攻略した天文二十一年(1552)から百七十年も後に書かれた「関東古戦録(関八州古戦録)」だけだった。本当に龍若丸は殺されたのか、また殺されたとすれば何時どこで殺されたのか判らなくなってきた。龍若丸と神尾氏の伝承を求めて伊豆の門野原に出かけた。

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鎌倉 明月院から浄智寺

2019-11-06 | 東海道沿線

極楽寺の近くに上杉憲方墓と伝わる史跡があった。それでは上杉憲方の墓はどこにあるのかとおもったら、おなじ鎌倉の明月院にあるという。明月院はアジサイの季節に何度か訪れたが、上杉憲方の墓は気が付かなかった。
 
明月院の寺伝によると、永暦元年(1160)この地の武将で平治の乱で戦死した山内首藤俊通の菩提供養の為、俊通の子、山内首藤経俊によって明月院の前身の明月庵を創建したという。その約百年後の康元元年(1256)、鎌倉幕府五代執権北条時頼(最明寺道崇)によってこの地に最明寺を建立し、三十歳で出家、覚了房道崇と号し弘長三年(1263)三十七歳で卒去。後に時頼の子北条時宗によって最明寺を前身として福源山禅興仰聖禅寺を再興、康暦二年(1280)足利氏満が関東官領上杉憲方(明月院天樹道合)に禅興寺中興を命じ塔頭も配置した。この時、明月庵は明月院と改められ支院の首位においた。山内首藤経俊は奥会津の山ノ内一族の遠祖でもある。
 
 
総門を入って左側(北)が山ノ内上杉屋敷跡でその奥に五代執権北条時頼の廟所(最明寺崇公大禅定門)、その左奥の宝篋印塔が時頼の墓と伝えられている。
 
 
上杉憲方(道合)の墓は本堂左手の崖際にある開山堂(宗猷堂)の後ろのやぐらにあった。もっとも鎌倉公方九代記によると「上杉安房守入道道合は慶永元年(1394)、朝の露と諸共に消え行けるこそ哀れなり。空しき屍をば極楽寺に送りて草根一堆の塚の主となし、幡をたて卒塔婆を立て、形の如くの孝養をぞ営まれける」とある。そうすると明月院のやぐらにある上杉憲方墓は供養塔という事になるのだろうか。新編鎌倉志によると、この道合石塔の前に憲方の霊屋があったという。
 
この開山堂の横に鎌倉十井の一という瓶ノ井があった。同じく鎌倉十井の一という甘露ノ井がある浄智寺に向かう。「鎌倉幕府第五代執権北条時頼の三男で、弘安四年(1281)没した北条宗政の菩提を弔うため寺を起こし、宗政とその子師時を開基としたとおもわれる」とは浄智寺のパンフの説明。新編鎌倉志によれば「北条師時を浄智寺と号す、法名は道覚と云」とある。さらに甘露井は「開山塔の後に有清泉を云なり。門外左道端に、清水沸出づ。或は是をも甘露井と云なり」とあり、境内に湧出る清水が二ヶ所あったと思われる。現在の境内の様子は新編鎌倉志記載の浄智寺古図とはだいぶ異なってしまった。
 
  
今ある甘露ノ井は参道入口の石橋のほとりにある。建物は大正十二年の関東大震災でほとんど倒潰したという。昔、外門に掲げられていた円覚寺開山の無学祖元(諡仏光国師)の筆による「寶所在近」と同じ文字の額が掲げられた総門と、2007年に再建された鐘楼門には「山居幽勝」の額が掲げられていた。本堂曇華殿の御本尊は室町期作の木像三世仏坐像で県指定の重要文化財です。左から「阿弥陀・釈迦・弥勒」の各如来で、「過去・現在・ 未来」の時を象徴しているという。また、曇華殿後ろ側には鎌倉三十三観音霊の一つ観音菩薩像も祀られていた。
 
 
 
 
鎌倉の山際のほとんどのお寺には「やぐら」がある。浄智寺も墓地の奥と書院の脇に浅いやぐらがあった。

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