大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

湯河原散策

2015-07-21 | 小田原

小田原から湯河原までは東海道線で、僅か17分で着いてしまう。湯河原にある伊藤屋旅館の
元別館光風荘を訪ねたいと思ってから1年も経ってしまった。
この光風荘は昭和11年「2・26事件」の東京以外で唯一の現場となった場所で、土・日・祭に
施設・資料が公開されボランティアによる説明が実施されている。10時から公開ということで、
駅からのバスの終点にある不動滝に寄ってから光風荘に行くことにした。
 
不動滝バス停から徒歩1分では大した滝ではないなと思いながら緩やかな道を上がると、突然、視界に豊かな水量の滝が現れた。説明によると落差約15m、中々の迫力がある。
 
  
 
滝壺のまわりの岩盤の中から採れたという湯河原沸石を懸命に探すも見当たらなかった。
今ではほとんど採れないという。不動滝が注ぐ藤木川に沿ってきた道を戻り、伊藤屋旅館の
元別館光風荘に向かう。
 
 
昭和十一年七月十二日、代々木陸軍衛戍刑務所で2・26事件関係者15名の銃殺刑執行が行われた。
その中の一人、会津若松出身の渋川善助は妻絹子を伴い事件前日まで数日、湯河原の伊藤屋旅館に
逗留し別館光風荘で静養していた牧野伸顕伯爵の偵察監視を行っていた。

事件の翌年、再建された湯河原の伊藤屋旅館の元別館だった光風荘を訪ねた。
獄中にあった渋川善助が六月二十八日から処刑当日までを遺した日記、感想録が残されている。
六月二十九日(月)の一説。
絹子ハ殊ニ不憫ナリ。苦労ト心痛ノミサセテ、喜ブ様ノコトハ何一ツシテヤラザリキ。済マヌ。諦メテ辛抱シテクレヨ。
 現し世に契りし縁浅かれど 心盡しはとはに忘れず 

7月11日は善助が明日の刑執行を知り、遺詠をしたためた日に当たる。
遺詠 (河野司著「2.26事件」より)
 四つの恩報い盡せぬ嘆こそ 此の身に残る憾なりけり 
 昭和十一年七月十一日  善助コト光佑 直指道光居士     
 祖父母様、父上様、母上様、皆々様

偶然にも処刑前日、渋川善助が遺詠をしたためた日に光風荘を訪ねた。感慨深いものがあった。

一旦、駅に戻って、駅の北側、城山の山裾にある城願寺に向かう。号は万年山、成願寺とも記したと云う。治承四年(1180)、源氏再興の挙兵した源頼朝に一族を率いて参陣した土地の豪族、土肥實平一族の墓所がある。
 
 
 
 
新編相模風土記稿に「開基土肥父子墓 各五輪塔なり、長三尺許、左右に五輪塔三十三基並べり、
一族の印なりと云、其中長四尺許の五輪塔両基あり、一基には嘉元の二字仄かに見ゆ、
此若干の石塔は、嘉元二年實平の臣、坪正と云るもの、造立する所なりと云」とある。
 
 
 
湯河原教育委員会の説明板によれば、土肥一族の墓所には現在六十六基の墓石があるという。
墓石を数えてみたが、五十基ほどで判らなくなってしまった。

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箱根塔ノ沢 阿弥陀寺

2015-07-13 | 小田原

箱根登山鉄道の湯本駅から1つ目の駅、塔ノ沢に薩摩琵琶を聞かせてくれるご住職がいるのを知った。
どうせならアジサイの季節と思っていたら、箱根大涌谷の火山噴火警報警戒レベル2になって、慌てて
阿弥陀寺に行くことになった。
 
どの案内をみても急な山道を登って20分位掛かるとある。急な山道というのも嫌だったが、もう1つ
気になった事がある。箱根は思った以上に野生動物が山里近くまで出没し、猿や鹿の目撃情報も多い。
以前、千葉の麻綿原で山ビルの被害にあった人を多くみた。この時は土産店で塩を貰ったり、
山仕事している人に山ビルが嫌う液体を分けて貰ったりして事なきを得たが、箱根は悪名高き
丹沢山地と嶺続き、鹿が増え行動範囲が広がれば山ビルの生息範囲も広がる。山ビル対策をして
塔ノ沢駅に降りた。この駅で降りた乗客は我等二人だけ、あの山道を登るなら気を付けてと
言っているように車掌さんと目があった。なんとなくホームを離れていく電車を眺めてしまった。
 
ふと足元をみると、蜥蜴が二,三匹チョロチョロしている。エッという感じ。蜥蜴が多いところには
ヘビも多い。難敵がまた増えた。
 
駅からの道は裏道みたいな感じの一本道で、二股の左に「阿弥陀寺参道入(塔ノ峰登山道)
阿弥陀寺迄八丁塔ノ峰二十五丁」と薄っすらと読める石標があった。
 
そこを約80m登って行くと突然ロータリーみたいな広場に出て戸惑う。緩い上り道を100m程歩くと、
寺の入口の案内板があった。ここまでで結構息が切れた。
 
山道の三分の一位のところにある山門を観たくて参道を登る。
駅からここまで誰一人として遭わないのが不気味だった。蛇を踏まないか、木の枝から山ビルが
落ちてこないかビクビクしながら休み休み、歩く事、30分、ようやく阿弥陀寺に着いた。
 
 
 
境内には車で登ってきた方が二名、思ったほどアジサイも人も少なかった。
 
住職の琵琶を聞くには五名以上の予約が必要だが、当日は幸いにもどこかの婦人会の参観が
二十名ほどあり大盛況となった。どんなグループなのか知らなかったが、本堂の外陣内陣区別なく
歩き回り、お寺の奥さんが慌てて、内陣に入らないよう絶叫していた。

阿弥陀寺は阿育王山と号し、開山は木食僧弾誓上人、上人が籠った塔ノ沢山中の岩窟で念佛修道を
始めた。慶長九年(1604)、小田原城主大久保忠隣より二十四町余の境内地寄進を受け阿弥陀寺を
建立、元禄十六年(1703)、浄土宗増上寺派となり、和宮が明治十年箱根塔之澤で他界されたが、
その際、塔之澤阿弥陀寺住職が通夜・密葬をつとめたことにより、和宮の御位牌が阿弥陀寺の
「皇女和宮葵御堂」に安置されている。このことから、阿弥陀寺は「和宮香華院」と呼称される。
「和宮様の御位牌」御法名は、「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉(明治十六年和宮様の
七回忌法要時のもの)」
 
それにしてもご住職の琵琶演奏は、眼を瞑って息を止める程、迫力があり、平家物語の語りは、
桂離宮や苔寺では味わえなかった心を揺すぶるものがあり、一人で五名分支払ってもまた聴きに
行きたいものがあった。
 

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苔寺 大仏次郎文学碑

2015-07-06 | その他

四十数年も前に西芳寺を訪ねたことがある。残念ながら苔が一面びっしりとあった事しか記憶にない。よくお寺の庭を、周りから見られる事を意識しながら眺めてボ~っとしている若い人がいる。何を考えているのだろうと思う。人の出入りを気にしないで「一炷」程度、座禅をしたほうがよっぽど身の為になるとおもうのだが、ここにもそんな人が何人かいた。日本の美という特別の感激もあまり無く西芳寺庭園から庫裏の横を通って苔寺の一般拝観者の出入門である衆妙門に向った。この門の手前に大仏次郎文学碑があった。
 
大仏次郎文学碑文
   苔寺にて
お互いの祖先の日本人がその時々に築き上げて遺したものを今の若い人たちがどんな風に
見ているのか尋ねたいことである亡びたものをただ美的な興味で眺めているのかそれとも
こう乱雑になった世の中にも自分たちの生活や血につながりのあるものとしてなつかしみ
受け取ろうとする心が残っているのか確かめてみたい  帰郷 過去の章より
             大仏次郎作   川端康成書

もう若くはないが「祖先の日本人がその時々に築き上げて遺したものを今の若い人たちがどんな風に見ているのか」「世の中にも自分たちの生活や血につながりのあるものとしてなつかしみ受け取ろうとする心が残っている」と、問われても答えに困る。
大仏次郎は鞍馬天狗の作者としてしか記憶に残らないが、この碑文は小説「帰郷」の文中の一節だという。日本庭園史上重要な位置を占めるという西芳寺庭園を観た後だけに、どんな場面でこの一節が書かれたのか気になって、小説「帰郷」を読んだ。この「帰郷」は戦後、間もない昭和23年、新聞連載小説として発表され、昭和25年に松竹で映画化された。小説では主人公が娘と会う場面は金閣寺で描かれているが、この映画では妻子を捨て国外に逃亡した元軍人の主人公が戦後、娘と会う場面をこの西芳寺で撮影し、その関係で西芳寺境内に文学碑が建てられたのだろうか。この大仏次郎文学碑の裏側に廻れなかったのでいつ建立されたのかハッキリしなかった。

「外国の古い寺院は、現代でも庶民の生活と共に生きてきた。薄暗い堂内に跪いて附近の男女が、祈っている姿はいくらでも眺められたし、信仰に冷淡な観光客でもその人たちを煩わせぬように心をつかって、帽子も入口で脱ぎ、靴の音を立てない用意があった。拝観と名だけ物々しくて、国宝となっている仏像を保存し陳列してあるだけの場所ではない」と作者は主人公に語らせている。戦後直後の物質的精神的な荒廃からまだ立ち直れていない世の中への作者の苛立ちだったのだろうか。

注:いっしゅ(一 火篇に主)線香一本が燃える時間

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京都松尾 (苔寺・鈴虫寺)

2015-07-01 | 

浄住寺・地蔵院からまたバスの折返し場のまえを西芳寺川に沿って谷の入口に苔寺の通称で知られる洪隠山西芳寺がある。
 
開山は行基と伝え、中興開山は夢窓疎石で、ここの庭園を拝観するには往復はがきで写経参加の事前予約を行わなければならない。桂離宮参観が午前の部で許可になったので、同じ日の西芳寺予約を入れたら、いい塩梅に午後の1時集合の返事が来た。
 
庭園の見学は写経などの宗教行事に参加する事が条件で、写経参加という宗教行事がメインで、庭園の見物料を写経という宗教活動に代えて徴収するのは非常に実務的なやり方だと感心する。参拝証の最後に「細筆を御持参ください」と注意書きがあり、どうせ一回限りだとダイソウで細筆を買って京都に出かけた。
西芳寺を訪ねる前日、この細筆を自宅に忘れてきたのに気が付いた。慌てて京都駅周辺の店を駆けずり廻ったが観光客相手の高価な筆しか見つからず、デパートの文具売り場に最後の希望を賭けて案内係に聞くと特選売り場に筆があるという。目の前が暗くなる。幸いにも特選売り場の鳩居堂に安い写経用筆があった。それでもダイソウと比べると30倍の価格差があった。
写経場所は書院にテーブルがズラリと並べられており、廊下は机と椅子席になっていた。机には筆ペンが用意されていた。目眩がするほどガックリする。昨日、駆けずり回ったのは何だったのだろうとモヤモヤ感が暫らく消えなかった。
 
 
京都府情報館H・Pの世界遺産「古都京都の文化財」記載、西芳寺(苔寺)の説明によれば「この庭園は,建築と庭園との一体化,確実な手法の石組,眺望という視点など,前代までのものにはみられない形式が取り入れられており,後世の庭園に大きな影響を与え,日本庭園史上重要な位置を占めるものだ」という。そうなのだと思っても、どこがどう影響を与えたのか理解できそうもなかった。
 
    
 
 
再びバス停の前を通って華厳寺にいく。
 
都名所図会に「華厳寺は月讀の南谷村竹林の中にあり宗旨は華厳にして本尊は大日如来左に釈迦佛[頭に宝冠を戴いて長一尺計是華厳の相なり]右に開基鳳潭像[左の手に華厳経を持右の手に如意を持]門の額華厳寺は黄檗隠元の筆左右の聯は鳳潭之筆なり此所は最福寺の延朗上人の住給ひし谷堂の旧跡なり[字を寺家の内といふ]近年鳳潭和尚華厳宗を再興あらんとて、松尾安照寺を遷して華厳寺と改め此地において寂す〔元文三年二月廿六日八十五歳〕」とある。この妙徳山華厳寺は西芳寺川北、延朗山の中腹にあり、現在は臨済宗永源寺派に属し、開山は江戸中期の学僧・鳳潭とされている。鳳潭は南都六宗の華厳宗復興を願い、享保八年(1723)、松尾に大華厳寺を建立するも、伽藍の拡張も未完成のまま没している。慶応四年(1868)、慶厳が入寺して臨済宗に改めた。この華厳寺は近年、鈴虫寺と称され参拝者への茶菓のもてなしや鈴虫説法と一つだけどんな願い事でも効いてくれる「幸福地蔵」が有名だという。寺の入口で参加料を取られた。
 
 
書院で説法を聞いた後でなければ買えないお守りを持って、お地蔵さんの前で一つの願掛けをするシステムだという。説法も取り留めのない話で、前に座っていたお婆さんが、また同じ話をしていると呟いたのが印象的だったが、何度も来ているという事に驚く。馬鹿馬鹿しくなって早々に退散した。
 
檀家のいない寺を維持するのは大変なのは理解するが、拝観者の招致に「わらじを履いたお地蔵さん」が願いを叶え、救いの手をさしのべるために、歩いて来てくださるとは、よく考えたと感心する。
   

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