大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

上信電鉄の旅(上州富岡・上州福島)

2013-09-18 | 

今回の旅の主な目的は「富岡日記」を残した横田英が勤めた富岡製糸場を訪ねる事だった。
 

(東繭倉庫)
 
この富岡製糸場は明治十年刊行の旧勧業寮第一回年報撮要によれば「仏国ヨリ男女工師ヲ雇ヒ器械ヲ購求シ明治五年十月ヲ以テ始テ開場シ内国工女ヲ募テ就業伝習セシメ爾来交代受業セシ者凡ヲ二千余人ノ多キ二至レリ 初工女凡五百人余ヲ要セシニ創業ヨリ二年許間ハ招募ニ応スル者少ナク且其一時入場スルモノモ多クハ年期ヲ約スルコトヲ欲セサルカ為メニ出入織ルカ如ク實ニ本場事務ノ一難事タリシニ習慣ノ久シキ情願ノ者漸ク増加シ七年ノ秋ヨリ雇期ヲ定メテ」とあり「明治五年十月開業ヨリ八年六月ニ至ル二周年八ヶ月ノ定額経費合計金拾三萬四千七百五十五円五十銭洋銀三萬千九百四十枚ニシテ製糸ヨリ生スル利益金僅カニ弐萬四千三百七円五十六銭ナリ故ニ金拾壱萬四百四拾七円九拾四銭洋銀三萬千九百四十枚ノ不足ヲ生セリ」とある。もっともこの富岡製糸場の女工場は新しい製糸技術を国内に広げる役割を担うための「伝習工女」として期待されていた。
  
 
 
(左 ブリュナ館      右 寄宿舎)
 
明治六年、この女工場に入ったのが、のちの明治四十年頃、病気の母親のために書いた富岡日記の著者である和田英(旧姓横田)です。旧姓横田英が旧松代藩士横田数馬の次女であることは信州松代に行くまで知らなかった。松代横田家は奥会津の山ノ内一族を遠祖として、英の父、横田数馬は戊辰の時期、江戸詰めの探索方として活躍、戊辰後、会津藩士謹慎受入れの交渉をしていたという。
地方の知らない所に行くと食事場所を探すのが難しい。工事中の上州富岡駅を降りると直ぐ横に新しくて綺麗な「東苑」という中華の店があった。時間を合わせて店に行くと、本日定休日という札が、目の前が真っ暗になる。街中に戻る気もせず、城下町が残っているという上州福島駅に向かった。
 
この駅はタクシー・乗合タクシーや貸自転車もあると上信電鉄沿線みどころマップに記載してあった。上州富岡駅を降りてビックリした。タクシーが1台いるだけで駅前に何もない。呆然として駅前の写真を撮るのを忘れた。タクシーで旧領主、織田宗家七代の墓がある崇福寺に向かってもらった。運転手の方も崇福寺というお寺は知らず、織田家の古いお墓でやっと通じた。
 

 
運転手にここの名産を尋ねたら、ここは「キュウリ」だと云う。上州福島で昼めしを取るのを諦めた。崇福寺から群馬県唯一の大名庭園で国指定だという「楽山園」に向かってもらった。小幡藩の中心となった小幡陣屋跡で三百円払って園内に入った。ここでも茫然とする。長屋が1棟あるだけで、あとは見事に何も無かった。
 
パンフレットに楽山園の由来は「智者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」とあった。そういえば池や築山があったような気がする。かろうじて風景を撮った写真に写っていた。
 
誰もいない、ただ広いだけの所から直ぐ撤退した。受付でここ迄どうやって皆さんが来るのかと聞いたら、歩きか、自転車か、タクシーだと云われた。楽山園からタクシーを呼んで駅まで2千円、これでは観光客は誰も来ないだろうな。ここは周りに家がある割には離れ小島みたいな僻地という感じがする。帰り、根子屋駅で下車しようと思っていたが、炎天下、何もない所での暑さに参った。高崎駅に直行して戻った。

信州横田氏

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上信電鉄の旅(下仁田・上州一ノ宮)

2013-09-14 | 

数年前、0番線ホームの写真と構内の「たかべん」という店でラーメンを食べるだけで高崎駅に寄ったことがある。その時は上信電鉄の特殊切符を買っただけで終わってしまった。
 
 
今回は上信電鉄沿線を廻った。高崎駅0番線ホームを利用している上信電鉄は高崎~下仁田間、33,7kmを約1時間で走るれっきとした地方民鉄ローカル線で、日中は1時間に1.2本間隔でダイヤが組まれている。一日全線フリー乗車券(2160円)の硬券を買い、葱と蒟蒻の産地である終点下仁田駅まで行き、帰りに途中下車して寄り道をすることにした。
 
下仁田駅での滞在時間はわずか10分、朝早かったせいか降車客は5人で駅前には町営なのかミニバス数台と客待ちのタクシーがいるだけで、閑散としていた。
 
 
 
ここで変わった形のデキ1形電気機関車が見られると思っていたが影形も無く、ウロウロする時間も無く、上り電車に乗って上州一ノ宮に向かう。途中、使われていない古い隧道みたいなのがあった。上信電鉄の前身、上野鉄道時代のものなのか。

上信電鉄沿線の主要駅では貸自転車があるという。上州一ノ宮駅で降り、駅舎に向かうと嘱託らしい女性が帰り支度をしていた。貸自転車と云うと顔が曇った。そうか、自転車を借りると戻ってくるまで帰れなくなるという事か、それも気の毒なので、歩いて貫前神社に向かう事にした。
 
 
10分程度で神社の入口に着いた。ここから急な参道が続いていて、鳥居は遥か見上げるほど上にあり、やっとの思いで神社に入ると、今度は神殿が石段のはるか下にありいっぺんに神殿まで行く気がなくなった。
 
 
 
結局、途中にあった神殿でお茶を濁す。そういえば途中、南蛇井という駅があった。難読駅の1つで「なんじゃい」と読ませ、全国の駅名で蛇がつく駅も珍しいとのことだった。石段の下にある神殿を見たとき、まさにこれはなんじゃいと云う気持ちだった。そういえば、高崎の近くに「根子屋」という駅があった。根子屋という名は、戦国時代、おもに関東から東北で使われた語で山城の麓にあった城主の館やその家臣の屋敷地を云い、平時は麓に居住し,戦時には山城に立て籠って戦った。こんな地名がそのまま残っているとは思わなかった。郵便局に寄ってから上州富岡駅にむかう。

まだ、上州一ノ宮に居たときは、帰りこの根子屋駅にも寄ろうと考えていた。

上信電鉄の旅(上州富岡・上州福島)

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白山通り(龍光寺・泰宗寺)

2013-09-08 | 掃苔

旧中山道というと大げさだが、文京区の国道17号の白山から旧白山通りの分岐点のところに、唐津藩祖小笠原壱岐守忠知と丸亀藩主京極刑部少輔高和を開基とする臨済宗の禪寺、天澤山龍光寺があります。
 
ここ本駒込の龍光寺は寛永年間の始め、伊勢鈴鹿龍光寺の虎伯禅師が幕命により江戸に出府、天澤山龍光寺の分寺として創建、明暦二年(1656)当地へ移転したと云われている。ここは会津藩士一柳家の菩提寺でもあり、一柳四郎左衛門直信、一柳元右衛門の墓がある。
  
      
諸士系譜によると四郎左衛門直信は右京亮直次二男で最上では御知行三百石とある。
なお西麻布長谷寺に同族、一柳忠左衛門直富二男一柳伊右衛門直行とその一族の墓域がある。

白山通りを下って巣鴨を通り抜け、染井霊園の北側に慶長年間に九鬼守隆により開基された法輪山泰宗寺があります。始め茅場町に建立され、寛永十年(1633)、下谷北稲荷町に移転したが焼失後の明治四十一年(1908)、現在地に移転した。
 
ここは阿部家(忍藩初代阿部忠秋、後・陸奥白河藩)の菩提寺で、少し離れた墓地を入った直ぐのところに五基の宝篋印塔がある。
 
   
この中に会津保科肥後守正信(後の会津三代藩主松平正容)の正室、艶陽院の宝篋印塔がある。この宝篋印塔の傍に棺蓋石板碑(?)が無造作に置かれていた。石板碑によると、艶陽院の名は竹(父は武州忍城阿部豊後守正武、母は江州彦根城主井伊掃部頭直澄の娘)、元禄四年二月に会津保科正信に嫁いだが僅か二年後の元禄六年二月に病死している。会津保科家が松平姓を許されたのが元禄九年だったので、元禄六年当時はまだ保科姓を名乗っていたことになる。
  
石板碑文(艶陽院殿花光見栄大姉)
夫人姓阿部氏諱於竹父武州忍城主従
四位下侍従國老阿部豊後守正武母江
州彦根城主従四位下少将藤原姓井伊
氏掃部頭直澄之女以延寶六年二月十
二日生于武江元禄四年二月十五日嫁
於従四位下少将保科肥後守源正信而
未有子焉元禄六年二月六日病終于武
江大田邸行年十有六也同月十一日葬
于豊島郡下谷村法輪山泰宗寺

この墓域の奥には前橋松平家、陸奥白河藩主松平直短一族、上野前橋藩の最後の藩知事松平直方等の墓域もある。

   
墓域には肥前佐賀藩主・鍋島直正の七男十一代小城藩(小城鍋島家)鍋島直虎の名が刻まれた石登楼もあった。武蔵川越六代藩主松平直侯の正室慈貞院が鍋島直正の娘だったことによるものか。

 

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