大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

旧会津藩士 畑一嶽

2013-05-20 | 掃苔

上野池之端の大正寺というお寺さんを訪ねた。

ここは旧会津藩士河村家や幕臣川路聖護の菩提寺で河村家の墓は判らなかったので、近くにあるお寺さんも廻ってみた。忠綱寺は三河八幡の戦いで徳川勢の殿りを任せられた渡邉半蔵源守綱は、その武勲により「槍の半蔵」の異名で知られるようになったが、若くして夭逝し弟の吉綱が兄を偲び、渡邉院忠綱寺との一寺を建立した。(右、渡邉家墓域)
 
忠綱寺の寺外墓地が谷中三浦坂の高台にある領玄寺の墓地の中にある事が判りこの墓地も訪ねた。
 
ここの忠綱寺墓地に旧会津藩士 畑一嶽が眠っていた。
 
   
明治四十三年十一月二十一日付け東京朝日新聞に「惜しむべき好典獄 小菅監獄畑一嶽氏逝く」との見出しで「小菅監獄典獄正五位勲四等畑一嶽氏は予て病気の処十九日午前六時遂に永眠されたり、氏は北海道開拓時代札幌監獄建築に当り当時人家も無くしばしば熊の襲来を受くる如き野原に多くの年月送りて遂に同監獄を建て爾来二十余年一日の如く司獄の職に在りて勤勉の評高く終始一貫囚後の改悛を計り居たるの功歿すべからざるものあり」と記事が掲載された。明治三十九年、京都黒谷にある会津藩墓地整備のため義損金を募金した。これは、鳥羽伏見等に於ける慶応年間の戦死者を埋葬した各墓地が次第に埋没して其形跡が無くなる恐があり、この際これに修理を加へて、黒谷墓地は地均し、石碑の傾き等を直し、周囲の土止め及生垣を設ける。入口の位置を中央に移し新たに門柱を建設する。伏見淀鳥羽に於ける戦死者の氏名碑を建設する。同墓所の道しるべの石標を設けて永く保存するため義損金を募金した。その発起人の一人に畑一嶽の名があった。畑一嶽は旧会津藩士赤羽源吾信晴次男で戊辰後の明治四年、斗南藩司民掛洋法開拓課に試補官として任命され、明治七年六月、畑一嶽は開拓使本使等外三等として採用され、函館在勤となっている。開拓使職員録(明治十一年十二月)に十等警部として畑一嶽、海軍兵学寮を依頼退寮した笹沼金次郎、十等属として中根明の兄の中根直が確認できる。畑一嶽が斗南藩職員に採用された時、斗南藩権大属だった辰野宗城は一等警部兼開拓一等属、同じく一等属に斗南藩で少属庶務掛だった羽山光和(堀悌助)がいた。明治十二年、「獄舎構造視察のため出張ノ件」として開拓使公文書に畑一嶽の名が出てくる。明治十九年(1886)一月、函館県、札幌県、根室県は北海道庁設置に伴って廃止された。十九年上三月の官員録では、長官、理事官、警部長を除き、職員の選定迄、旧県官属で記載されており、旧札幌県之部として副典獄畑一嶽、二十年五月の北海道庁官員録によると札幌監獄所典獄畑一嶽とあり、札幌農学校助教授兼舎監中根寿(中根明の弟)の名前もあった。重松一義著「名典獄評伝」によると、「明治四十三年(1910)の夏、小菅の大水害に際会し、陣頭指揮をしたのが災いし、同年九月十九日に現職のまま病没し、”水典獄”と呼ばれ惜しまれた」。葬儀は監獄監守数十名、何れも正装して前駆二列となり監守長亦正装して位記勲章を奉持し藤沢有馬両典獄は正装徒歩して棺側に待し、とあり真に盛大な葬儀が執り行われたという。藤沢典獄は旧会津藩士藤沢正啓(藤沢忠啓長男)で、名典獄評伝によると旧会津藩士で典獄となったものは、新妻駒五郎、松江重久、高北忠吾、小野木源太郎、石川慶吾、小林三郎と多い。

(アジア歴史資料センター レファレンスコード A12090046000)

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東京 日暮里界隈(啓運寺 根津勢吉)

2013-05-13 | 掃苔

日暮里駅から御殿坂、六阿弥陀道、道灌通り、諏訪台通りと巡り、ちょうど経王寺の隣にあたるのが法要山啓運寺です。幕末、上野戦争の兵火に逢い、明治になって現在地に移転したという。
  
新編武蔵風土記稿の御府内の編纂から除かれた部分の地誌、「御府内備考」から寺社部分を編集した御府内寺社備考に「下谷山下、法要山啓運寺、境内拝領地百六十八坪余」とあり、江戸名所図会、上野山下図の左端に啓雲寺が描かれている。また高村光雲の「幕末維新懐古談」に「(上野)停車場の向う側は山下町、その先の御徒町の電車通りの角に慶雲寺がある。この寺は市川小団次の寺で法華宗」とある。啓運寺、啓雲寺、慶雲寺、表記は異なるものの、同じお寺だった。尾張屋の東都下谷絵図(文久二年)に描かれている慶雲寺の斜めまえに、会津藩藩士手代木直右衛門の弟、佐々木只三郎が養子に行った幕臣佐々木弥太夫の名があった。
 

啓運寺の山門を入ってすぐ右の白い塀の処に古い墓が十基ほどあり、この墓域の端に根津勢吉の墓があった。
  
根津勢吉、通称欽次郎は長崎海軍伝習所三期生に選ばれ、その後、軍艦操練所教授方出役手伝となる。万延元年、咸臨丸が渡米した際、運用方手伝として参加。その時、サンフランシスコで写した福澤諭吉、岡田井蔵、肥田浜五郎、小永井五八郎、浜口興右衛門、根津欽次郎(勢吉)の写真が残っている。戊辰戦争では榎本武揚に従い甲賀源吾戦死の後、回天丸艦長となっている。根津勢吉は幕府代官属吏だった高橋古太夫誠種の次男で、弟はのち宮崎県知事になった永峰弥吉、従兄に川路聖謨がいる。明治十年、病死した根津勢吉を旧僚友が哀しみ名を惜しみ、碑を建立した。文撰并並びに書は元軍艦奉行だった永井介堂(永井尚志)による。墓碑の裏に刻まれた名前は伊藤雋吉(海軍中将)、本山漸(海軍兵学校校長)、伊東祐亮(海軍大将)、澤太郎左衛門(幕臣海軍兵学校一等教官)、浜武慎(海軍大佐兵学校教官)等、日本海軍のそうそうたる名前が連なっていた。

正七位根津勢吉墓
      
根津勢吉墓碑
根津氏世為徳川氏旗下臣慶應之厄與同忠三
千到函館事敗罪而帰  朝廷寛仁悉数敢其位
勲村用之君為海軍士官調大尉明治十年十月
享年四十病死故旧僚友哀之欲建石存其行状
于不巧属余銘曩者徳川氏之創海軍也款待蘭
人于長崎撰旗下士若千傳共術君與其撰傳習
有年業成而帰承命航太平洋到華旗国後為軍
艦組探査小笠原嶋景況昭徳公之上洛陪乗為
海路嚮導組新之朝挙海軍士官尋准少尉歴中
尉任大尉叙正七位再到小笠原嶋復命為兵学
寮属君之為高橋氏胤出継根津氏家系名以義
小字勢吉銘曰
東航西馳衝風破瀾恭謹罔愆僚友協歓奉職循
循克服其
明治十年□十一月墨上居士永井介堂撰并書
墨(正字・さんずい偏に墨・ぼく)

碑陰
伊藤雋吉、本山漸、伊東祐亮、澤太郎左衛門、浜武慎、有馬純武、大村松二郎、
麻生武平、粟津高明、中村雄飛、香山永隆、山本淑儀、服部潜蔵、牧兼甫、
柴山矢八、前田清則、長田清蔵、河野栄次郎、吉賀喜三郎、吉田重親、谷信久、
門屋道四郎、中御門寛麿、石丸和義、管野退輔、梁瀬新一、新納時亮、馬場新八、
朝倉俊一、安達重典、荒川重平、中川将行、永峰秀樹、白藤道恕、錦織精之進、
山口良蔵、竹村知道、道家雅道、斯波二郎、安藤熊之助、石原勇五郎、永井重英、
服部章蔵、松波直清、館 徳、大柳俊平、小林為文、竹村正廣、山田養吉、
石井忠温、吉村君平、内田邦靖、松岡春造、橋本雅邦、狩野辰信、小野邦尚、
花房職、山口钁太郎、橋爪保幸、周東通正、桜井當道、並木元節、三浦義路、
林雅昭、石橋安蔵、佐竹萬三、大川好義、市川清啓、橘道守、渡邊健、藤森長祐。

日暮里界隈(本行寺、経王寺、延命院、南泉寺)
日暮里界隈(法光寺、修性院、青雲禅寺、西日暮里公園)
日暮里界隈(諏方神社 浄光寺、養福寺)

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東京 日暮里界隈(諏方神社 浄光寺、養福寺)

2013-05-10 | その他

西日暮里駅の横にある間の坂を登り切った所が眺望勝景の地、諏訪台と呼ばれる。

ここから日暮里駅に向かう通りが諏訪台通りで、この通りの左側に諏方神社 浄光寺、養福寺、啓運寺と続いている。諏方神社は日暮里(新堀)地区及び谷中地区の総鎮守で新編武蔵風土記稿に諏訪社「村内及谷中の惣鎮守とす一寸許なる薄黒き円石を神体とす社領五石の御朱印は慶安二年附らる元享年中豊嶋左衛門尉経泰信州の諏訪を勧請せる由縁起に載たり例祭七月廿六日社邊東の方を諏訪台と号し眺望勝景の地なり林信充か浄光寺八景詩歌は則此処にての作なり所謂八景は筑波茂陰、黒髪晴雪、前畦落雁、後岳夜鹿、隅田秋月、利根遠帆、暮荘烟雨、神祠老松なり皆望中の景色なり」とある。この神社、境内には諏方と諏訪が入り混じって鳥居や石柱があるが、今は古い表記から諏方神社としている。
 
 
この神社境内から線路沿いに下る石段が、近くに東都六地蔵として開眼されたお地蔵があったことから「地蔵坂」と呼ばれている。
 
神社のお隣が江戸時代諏方神社の別当寺で、雪見に適するので「雪見寺」と呼ばれた法輪山法幢院浄光寺です。
 
風土記稿に御腰掛石「庭前にあり元文二年(1737)四月十四日有徳院殿(八代将軍吉宗)御遊猟の時、始て当寺へ成せ給ひ同五年(1740)正月廿五日御膳所に命せられし今も此辺御放鷹の節は御膳所となれり。御腰掛石、庭前にあり有徳院殿始て渡御ありし時憩せ給ふ石なりと云傳ふ」とある。庭と石を探して境内を探し回ってしまった。お寺の方に教えて貰ってようやくたどり着いた。本堂の右横を通り本堂の後ろにある墓地を通って本堂の真後ろに小さな庭があり「三代将軍御腰掛石」という碑があり、横に穴の開いた石があったが、これが「将軍腰掛石」なのだろうか。お寺さんには悪いが、どうみても建物の礎石にしか見えなかった。それと三代目将軍というのは風土記稿や江戸名所絵会の説明とも異なる。どこで話が交差してしまったのだろう。
  
 
山門を入った左の銅造地蔵菩薩立像は江戸六地蔵のひとつで、右側の六地蔵の後ろに福神漬けを考案した酒悦の野田清右衛門の「表彰碑」があった。
  
富士見坂(左、諏訪台通りから、右、六阿弥陀道から)を過ぎ、
 
その先、左側にあるのが補陀落山観音院養福寺です。
 
 
区登録文化財の「養福寺仁王門」や鐘楼があり、鐘楼の右脇、左から雪の碑、梅翁花樽碑、月の碑、手前の菱形標石の四基の石碑が、西山宗因を祖とする「談林派歴代の句碑」で、梅翁花樽碑には「於我何有哉 江戸をもつて鑑とす也花に樽 誹談林初祖 梅翁西山宗因」右側面には「我恋乃まつ島も唯初霞 松寿軒西鶴」、西鶴の句が刻まれている。雪の碑は文化五年(1808)再建。菱形標石は西鶴の百年忌を記念して、谷素外によって、寛政四年(1792)に建てられたという。
 
本堂まえには奇人で知られる自堕落先生が自ら建てた「自堕落先生の墓」もある。
 
門前に「警視庁 警火 養福寺」の石柱が。そう言えば、浄光寺にも「火の用心 警視庁 当山」の石柱があった。
  
消防が警視庁管轄だったころの名残で今でも残っているのは珍しい。

日暮里界隈(本行寺、経王寺、延命院、南泉寺)
日暮里界隈(法光寺、修性院、青雲禅寺、西日暮里公園)
日暮里界隈(啓運寺)

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東京 日暮里界隈(法光寺、修性院、青雲寺、西日暮里公園)

2013-05-06 | その他

六阿弥陀道、法光寺から道灌通り、間の坂、西日暮里公園とまわります。

六阿弥陀道にある南泉寺の北側にあるのが日照山法光寺。通称富士見坂法光寺。
 
慶安三年(1650)赤坂に開基。四谷坂町へ移転、その後、現在の日暮里富士見坂下へ移転したのは明治時代に入ってからだという。墓域には尾張柳生家の(房吉家?)墓がある。
  
門前には少年飛行兵慰霊碑があり、傍の碑由来に「ノモンハン事変以来終戦に至るまで陸軍少年飛行兵として戦野に赴きし者約四萬五千にして空陸海に散華せし者数うるに限り無し 依って生存者遺族有志等相い集うて慰霊の誠を捧げんとして是を建立す 行き交う人々心あらば一遍の回向を賜わらんことを」とあった。

法光寺のお隣さんが、薄いピンクの塀に沢山の布袋さんのタイル絵が描かれているお寺が花見寺として親しまれている運啓山修性院です。
  
 
境内には、江戸時代の儒者として名が知られる日尾荊山を顕彰した「荊山先生衣さく(巾篇に責)之蔵碑(いさくは衣と頭巾)」があります。

日尾荊山は江戸時代末の儒学者・国学者で十六歳の時、江戸に出て儒学者亀田鵬斎に入門し、学問を究める。後に湯島に私塾「至誠堂」を開いている。修性院から2分程歩いたところ、左奥に青雲寺の山門が見えます。
 
本堂の左側には「南総里見八犬伝」の作者として有名な滝沢馬琴の使い古した筆を供養する為築いた筆塚で、右側には荒川を行く船人の目印の松とも入り江に船を繋いだとも云われた松の「日暮里舟繋松の碑」、山門を入ると本堂の右手前に綺麗に手入れされた植木があります。この中に硯の形をした硯塚の碑が隠れるようにありました。
 
  
江戸時代に花見の場所として賑わったことから、「花見寺」とも呼ばれていたという。この寺の開基である堀田相模守正亮の法号である青雲院殿をとって浄居山青雲寺と云う。新編武蔵風土記稿には「舟繋松は境内東北の崖にあり古木は枯て植続しものとみゆ往昔この崖下まで入海なりし時船を繋ぎしゆえかく名付と云傳ふれともとよりたしかなる拠なし樹下に舟繋松の碑を建て銘文を刻す」とある。青雲寺から道灌通りを右折、ゆっくり5分ほどで西日暮里駅に着きます。この駅の西側が間の坂(魔の坂)と云われる急坂があります。坂を上りきった右に西日暮里公園があります(右、西日暮里駅)
 
 
この公園は、もともとは、西南方崖下に隣接する青雲寺の所有地であったが、明治末期に寺院再興のために、加賀・前田家の墓地として売却された土地で、公園に荒川区教育委員会の説明板に「かつてこの地には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繋松があり、荒川(現隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を望むことができる景勝地として、多くの人びとが訪れた。花見寺の一つ青雲寺(西日暮里三丁目六番)の境内の一部で、金比羅社なども祀られていた。明治七年(一八七四)、この一帯が旧加賀藩前田家に売却され、同家墓地となった。前田家十二代当主の斉泰から四代にわたって神式の墓地として使われたが、昭和四十七年(一九七二)に国許の金沢(石川県)に改葬され、翌四十八年、その跡地にこの西日暮里公園が開設された。なお、この跡地にあった日暮里舟繋松の碑や滝沢馬琴筆塚の碑などは、現在の青雲寺本堂前に移されている」とあった。

日暮里界隈(本行寺、経王寺、延命院、南泉寺)
日暮里界隈(諏方神社 浄光寺、養福寺、啓運寺)

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東京 日暮里界隈(本行寺、経王寺、延命院、南泉寺)

2013-05-03 | その他

日暮里駅西口を出て左、御殿坂からゆうやけだんだんを下り、谷中ぎんざ入口手前を右折、諏訪台の裾の六阿弥陀道から道灌山通りにぶつかったら右折、西日暮里駅の手前の間の坂を登り、諏訪台通りを南下すると御殿坂にぶつかる。ここを左折するとスタートの日暮里駅が見えてくる。一周、約1,8kのエリアが墨田区の西の外れ、JR山手線の内側が西日暮里三丁目で、別名、日暮(ひぐらし)の里と呼ばれている。このエリアには古くからのお寺さんがあり、旧幕臣の墓域や史跡も多く残っている。

日暮里駅西口を出ると道路の反対側にみえるのが「月見寺」とも呼ばれた長久山本行寺です。
 
 
ここは美濃加納藩主永井家の菩提寺でもある。幕末に活躍した幕臣で軍艦奉行、函館奉行を勤めた永井尚志、儒学者市河寛斎・書家米庵父子等の墓がある(いずれも都指定旧跡)。
 
また寛延三年(1750)建碑の道灌丘碑が残っている。
 
この道灌は太田道灌の事だと思っていたが、新編武蔵風土記稿に「江戸誌等の書に此山太田道灌が砦蹟なる故道灌山と称せる由いえるは誤れり」とある。大道寺幽山によれば関道閑の屋敷蹟なるを北条安房守が聞き傳え、また谷中感應寺、根岸善性寺は関小次郎入道道閑の開基で、この付辺を領したと傳え関道閑の居蹟であるのは明らかで、当国の名家である大田氏とたまたま名が同じなので太田道灌が砦蹟などと云い始めたのではないかと風土記稿にあった。二十一世日桓が小林一茶と親交があり、一茶の句碑もある。

本行寺の隣が大黒山経王寺、ここは山門脇に門番所が残り、横道には築地塀が連なっていて今では貴重な建築となっている。
 

戊辰の上野戦争で寺の前にあった谷中天王寺(感応寺)が彰義隊の分営とされ、戦いから寺に逃れた彰義隊士と西軍との銃撃戦で撃ち込まれた銃弾の痕が山門に残っている。大方の人が指を入れるので、今はツルツルになっている。
 
その先にある宝珠山延命院の境内には都指定天然記念物の樹齢六百年を超すと云う「延命院の大シイ」がある。天保七年(1836)の「江戸名所図会」「日暮里惣図」に、現在地と思われる位置に本樹の全容が描かれている。
 
     
江戸幕府の第十一代将軍徳川家斉の時、大奥でおきた延命院事件の舞台となったところ。本堂の右側に日潤と日道の墓碑がひっそりとあった。

ここの七面大明神を勧請した七面堂には上野戦争の矢弾の跡があるという。最初、七面のお堂かと思って壁を一生懸命数えてしまった。弾の痕はお堂の右柱の痕がそうではないかと思うがハッキリしなかった。
  
六阿弥陀道から道灌山通りに向かう右手にあるのが南泉寺、山号は瑞応山で元和二年(1616)、徳川家から約三千坪を賜り創建された。元来、武家寺で大名や旗本の檀家が多いという。
 
出羽鶴岡藩主酒井忠器の四男で叔父市橋長富の養子となり天保十五年、近江仁正寺藩最後の藩主となった市橋家十代、市橋長和(後長義)と市橋家の墓域が参道中腹にある。
 
浦賀奉行の遠山景高の墓所も登り切った左奥にある。
   
その途中には坂氏代々之墓域がある。徳川二代三代将軍に仕え、家光将軍の信任厚かった老女岡野(宗仙の二女)の方の墓

西南戦争別働第三旅団四番小隊の戦病死者、横田貞永(鹿児島県士)、岡田惟頼(旧幕臣)、青木萬亀雄(茨城県士)、三名の招魂碑である戦死之墓が本堂入口の右側にある。

寺の墓域に入る右側にあるおまねぎ堂がある。

お招き様なのか陽石と陰石が祀られていて近くの三業地の芸者衆が信仰していたのだろうか。

東京日暮里界隈(法光寺、修性院、青雲禅寺)

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