大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

京都毘沙門堂の紅葉

2011-12-30 | 

滋賀湖北の観音を巡りまわったあと京都から東京にもどる僅かな時間で今年のJR東海、京都秋のポスターの舞台にもなった山科毘沙門堂を訪ねた。訪ねたのは12月8日の早朝、もう紅葉は終わっているかなとも思ったが、この日は朝早くから細かい雨降りで、お堂でお手伝いしていた若いお兄さんがこれで落葉になるのが少し伸びると喜んでいた。保水力が増すと生き返るみたい。京都気象台のレポートによると、ここ30年間のカエデの紅葉平均日は12月1日で10年あたり2.5日遅くなっているとのことで、春の訪れは早く、秋の深まりは遅くなる傾向だそうだ。

毘沙門堂を何の知識も持たずに訪ねた。入口に毘沙門堂門跡という大きな石があった。毘沙門堂の門の跡かと思って、ここに大きな山門があったのかと反り返って上をみてしまった。ここが天台宗の門跡寺院と知ったのはお堂のパンフレットをもらってからだった。

 

 

仁王門、寛文五年(1665)に建立された阿吽の二天像が護る。

  

 

 

ボ~っと庭を見ていたら、若いお坊さんに大丈夫ですかと声をかけられてしまった。

 

 

 

 

 

  

  

 勅使門、元禄六年(1693)に移築完了した檜皮葺きの総門で、陛下の行幸、勅旨の代参、並に当門跡門主晋山の大事以外は一切開門されないという。

 

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九州小倉 福聚寺

2011-12-26 | 

長州、小倉の旅の最終日はJR小倉駅構内からスタートした。お目当ては7・8番ホームにある立ち食い店の「かしわうどん」。「かしわうどん」と注文したが、後から来た地元の人達は「うどん」と言うだけで同じ「かしわうどん」が出てきていた。かしわのそぼろは甘辛の濃い味付けが甘めのだし汁によくあっていたが、なんといってもコシが全くない饂飩に不思議な感触を味合う。ほとんどの人が汁を飲み干していたのはさすがだった。

 

 豊津からの帰り道に城野駅で途中下車、小倉藩主小笠原家菩提寺の福聚寺を訪ねた。このお寺は九州では数が少ない黄檗宗の寺院で寛文五年(1665)、小倉初代藩主小笠原忠真が創建したもので、開山は中国僧の即非如一禅師(隠元の高弟)。始め足立山麓不老庵の跡地に建てられたが二代藩主忠雄の時、現在地へ改めたという。

即非如一禅師は明暦三年(1657)来日し、肥前長崎の崇福寺の住職となり、寛文三年(1663)、山城国宇治の萬福寺に移り、萬福寺首座となった。寛文五年、豊前小倉藩主小笠原忠真に迎えられる

 

 

 

 

長崎の崇福寺、宇治の萬福寺

  

福聚寺仏殿(本殿)の扁額「吉祥寶殿」、「不二門」内側の扁額は即非和尚の書による。

小笠原家の墓域がどこにあるのかわからなかったが、庫裏で話をしているうちに墓所の入口の鍵を貸して貰えることになり、お寺の横の寿山町足立公園への登り坂を少し行った右側にある小倉藩主小笠原忠真の墓所に向かった。寛文九年(1669)、忠真の三回忌に法雲和尚による碑文の墓碑を建て、その墓前には一族や家臣が献灯した燈籠が並んでいる。忠真の墓碑下方に、二代藩主忠雄の生母「永貞院」の墓がある。

  

 

 

小倉藩小笠原氏の江戸菩提寺松が谷大雄山海禅寺

 

小笠原忠真の四代前の小笠原氏直系で武田信玄に敗れ会津の葦名氏の客分となった戦国武将小笠原長時の墓のある会津若松の大龍寺。

 

 

 

 

 

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九州小倉・みやこの旅(郡長正と育徳館)

2011-12-22 | 會津

昨年に続いてみやこ町豊津の甲塚墓地にある郡長正のお墓を訪ねた。豊津の甲塚墓地までは、新幹線の停車する小倉駅からJR日豊本線行橋駅乗換、平成筑豊鉄道田川線の豊津駅で下車、駅から1、2Kのところにあり、徒歩か駅にある無料のタクシー会社直通電話を利用するかどちらかになる。

 

 

この豊津は幕末、小倉藩で「丙寅の御変動」と呼ばれた戦いで、慶応二年(1866)、小倉藩は小倉城に火を放って、藩庁を香春へ移した。そのあと香春藩は田川郡香春から藩庁を仲津郡錦原に移し、明治三年(1870)初め錦原を豊津と改め、豊津藩と改称した。小倉城三の丸にあった藩校思永館は慶応三年五月、香春光願寺に文武館(香春思永館)として再建、明治二年藩庁の錦原移転に伴い、翌三年一月、錦原を豊津と改め、香春思永館は育徳館として開校した。この年、豊津藩は戊辰戦争に敗れ、会津から下北の地に移封させられた斗南藩の七名の若い藩士、郡長正、神保巖之助、木村新治、斎藤徳治、佐瀬豊太郎、山川徳治(旧姓徳力徳治)、馬場興三郎七名の留学を引き受けた。ところが育徳館が閉鎖中の明治四年五月に斗南からの留学生の一人、郡長正が割腹自刃して果てた。郡長正は戊辰戦争の責任をとって自刃した萱野権兵衛長修の次男で弟に日本郵船で長い事、船長をしていた郡寛四郎がいる。

郡長正の自刃の理由がハッキリわからないが、この事件が書かれたのが大正八年(1919)発行の京都郡誌、「豊津、国分、彦徳の大字あり」で始まる豊津村の項に「兜塚に会津の少年郡長政(長正)の墓あり斗南藩郡長政神位、明治四歳次未五月朔日と刻せり、、、、長政が其の境遇の苦情を母に報ぜんとすること同郷人の知る所となり、遂に自刃するに至りしといふ、長政時に歳十五」とある。その後、小説化され、数々のフイクションが白虎隊と同じように会津武士道として美化されていった。

「会津少年郡長正自刃の真相」で宇都宮泰長氏が書かれたように、鳥羽伏見の戦い、その後の西軍としての小倉藩の動きなどについて会津の少年達で戊辰戦争のことで相当な激論が交わされたのではないだろうか。そのあとに会津降人の東京への護送を小倉藩が受け持ち、その道中の話を少年達が聞かされ、その衝撃はかなりのものだったに違いない。最年長の神保巖之助は鳥羽伏見での敗戦の責任で殺された神保修理の弟、二人とも小倉藩に思うところは少なからずあったと思う。

甲塚墓地から2K弱にある県立育徳館高校を訪ねた。ここには明治三年に育徳館開校のときの校門である黒門、明治35年に講堂として建立された思永館、昭和32年、藩校育徳館開校70周年を記念して、会津若松から萱野家先祖の墓土台石と会津鶴ヶ城本丸茶室の庭石の贈呈を受けて造園された郡長正記念庭園がある。

 

 

この旧福岡県立豊津中学校講堂「思永館」は平成元年8月、建造物有形文化財として県の文化財指定をうけている。

 

 

 

 藩校育徳館(2010-11-29

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小月・長府城下の旅

2011-12-05 | 

下関から小月駅までは山陽本線でわずか20分程度。朝、小月駅にいた女学生に近くのコンビニの場所を訪ねたが、キョトッとして埒があかず、コンビニという言葉を知らないのかと思うほどだった。駅の南側は日清食品やシマノの大きな工場がポツン、ポツンとあるだけの広々とした原野で、小月の町外れに駅を作ったのが分かる。

 

 この付近はサンデン交通のバスが走っている。タクシーの運転手も言っていたが、電車とバスの連携も悪く、高杉晋作の墓までの交通の便が非常に悪い。駅から東行庵前までのバス便は午前中僅か3便のみ。駅から東北方向4Kの東行墓がある吉田清水山まで歩いて行く凄い子が沢山いるとのことだった。何の予備知識もなく東行庵に行った。この庵は高杉晋作の菩提を弔うため、又、おうの(初代庵主 梅処尼)の為に建てられた庵で、晋作の号にちなんで「東行庵」と名づけられたという。東行墓の南側に奇兵隊士墓地があった。なんでも三代目庵主の谷玉仙尼が、昭和四十六年から各地を訪ね歩いて、忘れ去られた諸隊士の墓を持ち帰り、東行庵に安置して供養したものだという。

 

 

 

 

 

庵の横に高杉晋作と奇兵隊及び下関市吉田地区の資料などを収蔵し、幕末・維新期を中心に展示活動をしている下関市立東行記念館がある。晋作の遺品二百数十点について晋作子孫、萩市、下関市、東行記念館との間で激しい所有権争いがあったと聞く。バタバタと小月駅から長府駅に戻り、一路、道玄堂山にある旧会津藩士神戸岩蔵綱衛のお墓を探しにいく。やっとの思いで神戸岩蔵の墓を見つけ一息ついて功山寺に向かう。

 

ここは長府毛利家の菩提寺、仏殿のうしろに長府毛利家の墓域が残っている。もう1つの長府毛利家の菩提寺、笑山寺にも行った。このお寺が大正八年、神戸岩蔵の位牌を作り同寺の位牌堂に安置し、其の霊を弔った旧長府藩士桂弥一の菩提寺であることを知ったのは、その後で行った長府図書館でのことだった。

 

 

 

笑山寺

 

 

昼食で寄ったのが壇具川沿いの「祥」というお店、このお店が桂弥一の旧宅だとしってビックリする。侍医兼侍講職だった管家長屋門のある古江小路をブラブラする。

  

 

 

長府の旅 会津藩士神戸岩蔵綱衛

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長府の旅 会津藩士神戸岩蔵綱衛

2011-12-01 | 掃苔

昭和十七年に編纂された若松市史(下)人物篇に神戸綱衛の人物伝の記載がある。

「幼より学を好み、年十三講釈所に進み、十四にして書学一等に進む、胆気ありて人に覇束せられず、年十六七の頃既に他日の偉器を以て目せらる、藩有為の子弟を撰みて中国地方に見学を命ぜしに、綱衛其一人に選ばる、忠誠公京都守護職中界町御門の事あり、是に於て綱衛先ず京都に赴き、尋て藩の為めに長州の事情を謀知して貢献なる所あらんと欲し、虎穴に入らすば虎子を得ずとて同行と袂を分ち、狐剣潜行長州に入り、遂に帰らず、時に年弱冠、当時或は事露はれて斬殺せらると云ひ、或は病で死せりと傳ふ、我藩人皆之を惜む」。岩蔵は百八十石目附役神戸内蔵盛義の二男で綱衛と称し実名盛恭と云い、父国詰の時、兄民治は刃傷事件(安政三年1856)を突発し、後謹慎を命ぜられている。岩蔵が会津を出発したのが文久三年(1863)六月二十三日、家人は其家出の日を命日として、賢心院志節義道居士と諡して法要を営んでいると旧会津藩士石澤源四郎が桂弥一の問合せに大正八年九月に答えている。この話を石澤源四郎は「神戸岩蔵附其兄民治が事」として会津会会報十五号(大正八年十二月)に載せた。

 

サイト「城下町長府のページ」の中の長府雑記帳・会津の間諜・神戸岩蔵を参考に長府にある神戸岩蔵の墓を訪ねた。長府駅からタクシーで長成中学校のそばの道玄堂山に行って欲しいというと、何しに行くのだと聞かれたので会津藩士の墓を探しに行くと云うと、ああ墓地ね、と中学裏のがけ地の小さな墓地に連れていかれた。竹藪の中と聞いていたので、地図をみせて学校の入口で降ろしてもらう。今度はフェンスで囲まれた道玄堂山の登り口が判らずウロウロする。中六波町にある電力会社の社宅の端にフェンスの一部が開いている所の上に神戸岩蔵墓地入口の立札が見えた。なんの事はなかった、タクシーを降りた場所にあった金網の鍵が掛っていると思った所が無施錠で自由に出入りできたのだ。どうせなら道路から見えるところに墓地入口の立札があればいいのに。

左、東側から見た道玄堂山

 

長成中入口の反対側にある道玄堂山の入口

 

鉄塔の脇を上っていく

 

鉄塔の脇の緩やかな登り道を5・60m登ると散乱した墓石のある頂上らしき所に出る。さらに倒れた孟宗竹を避けながら道らしき所を4,50m降ると大きく右に巻いている所に出る。この右手奥に神戸岩蔵の墓があった。最初は墓碑の表の文字も全く分からず、かろうじて宝と誉という2文字を確認するのがやっとだった。墓碑の裏面は目視では何も見えなかったが、戻って画像処理すると刻跡なのか文字なのか不明だがなにか刻まれているようにも見えた。

右、頂上にある墓碑群

 

左、頂上からの下り道      右、比較的大きな墓碑の右奥

 

旧会津藩士 神戸岩蔵綱衛(盛恭)墓

帰り道玄堂山のことが知りたくて長府図書館に寄る。この斬首場の資料は無かったが図書館の職員の方が親切で色々な資料を見せてくれた。明治十六年に作られた長府毛利家の事暦を記した「毛利家乗」で神戸岩蔵が記載された項を教えてもらえたのは助かった。毛利家乗慶応元年五月十一日の項に「藩内ニ令シテ行旅ヲ検ス」「会津ノ士神戸綱衛ト称スル者来リ留ル数月病死ス」とある。この慶応元年五月は第二次長州征伐の始まるときで、国内の旅人を厳しく取り締り、翌年には間道に関所を設け、他国人を取り締った。乃木希典と同学だった長府藩士で戊辰のとき報国隊員だった桂弥一が昭和三年に書き残した懐旧談大要に「会津の間諜神戸岩蔵」の記載がある。同書に大正八年の旧会津藩士石澤源四郎と遣り取りが記載されていた。「神戸氏も矢張道玄堂山で殺されたと云ふ事であるから、其処の土を少し取りて、私の菩提寺笑山寺の無縁墓の下に納め、尚此人の位牌も調製し、同寺の位牌堂に安置し、其の霊を弔ふた」とある。昭和62年、福島県相馬市出身の斎藤純一氏(下関市長府在)が二年掛かって岩蔵の墓を探し当て、翌年秋分の日の63年9月23日に神戸岩蔵綱衛の慰霊祭が執り行われた。この時の小パンフレットの表紙に岩蔵の墓の写真が載っている。

「慶応元年 宝誉□□信士霊位 八月二日」戒名の二文字は「強、彌」、「心、必」か、不鮮明で現地でも読み取れなかった。梵字は笑山寺が曹洞宗のお寺であることを考えれば、「ハク」か。しかし、この神戸岩蔵の墓は誰が何時、建立したのだろうか、また此の墓を斎藤氏は神戸岩蔵の墓とどうして特定できたのだろうか。まだ笑山寺に神戸岩蔵の位牌が残っていて確認出来たのだろうか。1回の訪問では色々な疑問点を解決するには時間が短すぎた。

 

参考図書(毛利家乗、下関市史年表、桂弥一懐旧談大要、神戸岩蔵綱衛慰霊祭パンフレット、長府藩報国隊史、若松市史(下)、会津史談(15号、62号)、サイト「城下町長府のページ」)

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