昭和十七年に編纂された若松市史(下)人物篇に神戸綱衛の人物伝の記載がある。
「幼より学を好み、年十三講釈所に進み、十四にして書学一等に進む、胆気ありて人に覇束せられず、年十六七の頃既に他日の偉器を以て目せらる、藩有為の子弟を撰みて中国地方に見学を命ぜしに、綱衛其一人に選ばる、忠誠公京都守護職中界町御門の事あり、是に於て綱衛先ず京都に赴き、尋て藩の為めに長州の事情を謀知して貢献なる所あらんと欲し、虎穴に入らすば虎子を得ずとて同行と袂を分ち、狐剣潜行長州に入り、遂に帰らず、時に年弱冠、当時或は事露はれて斬殺せらると云ひ、或は病で死せりと傳ふ、我藩人皆之を惜む」。岩蔵は百八十石目附役神戸内蔵盛義の二男で綱衛と称し実名盛恭と云い、父国詰の時、兄民治は刃傷事件(安政三年1856)を突発し、後謹慎を命ぜられている。岩蔵が会津を出発したのが文久三年(1863)六月二十三日、家人は其家出の日を命日として、賢心院志節義道居士と諡して法要を営んでいると旧会津藩士石澤源四郎が桂弥一の問合せに大正八年九月に答えている。この話を石澤源四郎は「神戸岩蔵附其兄民治が事」として会津会会報十五号(大正八年十二月)に載せた。
サイト「城下町長府のページ」の中の長府雑記帳・会津の間諜・神戸岩蔵を参考に長府にある神戸岩蔵の墓を訪ねた。長府駅からタクシーで長成中学校のそばの道玄堂山に行って欲しいというと、何しに行くのだと聞かれたので会津藩士の墓を探しに行くと云うと、ああ墓地ね、と中学裏のがけ地の小さな墓地に連れていかれた。竹藪の中と聞いていたので、地図をみせて学校の入口で降ろしてもらう。今度はフェンスで囲まれた道玄堂山の登り口が判らずウロウロする。中六波町にある電力会社の社宅の端にフェンスの一部が開いている所の上に神戸岩蔵墓地入口の立札が見えた。なんの事はなかった、タクシーを降りた場所にあった金網の鍵が掛っていると思った所が無施錠で自由に出入りできたのだ。どうせなら道路から見えるところに墓地入口の立札があればいいのに。
左、東側から見た道玄堂山
長成中入口の反対側にある道玄堂山の入口
鉄塔の脇を上っていく
鉄塔の脇の緩やかな登り道を5・60m登ると散乱した墓石のある頂上らしき所に出る。さらに倒れた孟宗竹を避けながら道らしき所を4,50m降ると大きく右に巻いている所に出る。この右手奥に神戸岩蔵の墓があった。最初は墓碑の表の文字も全く分からず、かろうじて宝と誉という2文字を確認するのがやっとだった。墓碑の裏面は目視では何も見えなかったが、戻って画像処理すると刻跡なのか文字なのか不明だがなにか刻まれているようにも見えた。
右、頂上にある墓碑群
左、頂上からの下り道 右、比較的大きな墓碑の右奥
旧会津藩士 神戸岩蔵綱衛(盛恭)墓
帰り道玄堂山のことが知りたくて長府図書館に寄る。この斬首場の資料は無かったが図書館の職員の方が親切で色々な資料を見せてくれた。明治十六年に作られた長府毛利家の事暦を記した「毛利家乗」で神戸岩蔵が記載された項を教えてもらえたのは助かった。毛利家乗慶応元年五月十一日の項に「藩内ニ令シテ行旅ヲ検ス」「会津ノ士神戸綱衛ト称スル者来リ留ル数月病死ス」とある。この慶応元年五月は第二次長州征伐の始まるときで、国内の旅人を厳しく取り締り、翌年には間道に関所を設け、他国人を取り締った。乃木希典と同学だった長府藩士で戊辰のとき報国隊員だった桂弥一が昭和三年に書き残した懐旧談大要に「会津の間諜神戸岩蔵」の記載がある。同書に大正八年の旧会津藩士石澤源四郎と遣り取りが記載されていた。「神戸氏も矢張道玄堂山で殺されたと云ふ事であるから、其処の土を少し取りて、私の菩提寺笑山寺の無縁墓の下に納め、尚此人の位牌も調製し、同寺の位牌堂に安置し、其の霊を弔ふた」とある。昭和62年、福島県相馬市出身の斎藤純一氏(下関市長府在)が二年掛かって岩蔵の墓を探し当て、翌年秋分の日の63年9月23日に神戸岩蔵綱衛の慰霊祭が執り行われた。この時の小パンフレットの表紙に岩蔵の墓の写真が載っている。
「慶応元年 宝誉□□信士霊位 八月二日」戒名の二文字は「強、彌」、「心、必」か、不鮮明で現地でも読み取れなかった。梵字は笑山寺が曹洞宗のお寺であることを考えれば、「ハク」か。しかし、この神戸岩蔵の墓は誰が何時、建立したのだろうか、また此の墓を斎藤氏は神戸岩蔵の墓とどうして特定できたのだろうか。まだ笑山寺に神戸岩蔵の位牌が残っていて確認出来たのだろうか。1回の訪問では色々な疑問点を解決するには時間が短すぎた。
参考図書(毛利家乗、下関市史年表、桂弥一懐旧談大要、神戸岩蔵綱衛慰霊祭パンフレット、長府藩報国隊史、若松市史(下)、会津史談(15号、62号)、サイト「城下町長府のページ」)