大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

正之公生母浄光院とその周辺(2)

2015-03-19 | 會津

神尾氏の事
会津保科正之公母堂、浄光院の父親神尾伊予栄加の出自についてはよく分らなかったが、
現在、神尾姓の分布をみると東海から関東、東北南部各県に集中しており、具体的には
静岡県、愛知県、東京都、神奈川県、山形県の順になっている。
寛政重修諸家譜に神尾氏の家譜が載っている。
駿河の名族にて賀茂姓加納氏流と云えども、寛政系譜には藤原氏支流に収められ、
始め左衛門尉元久なるもの賀茂神職勅勘を蒙り、後足利義教将軍より神職に捕せられ
家号を神尾と賜うと云う、大田亮「姓氏家系大辞典」によれば微証、乏しいとあった。
この家譜をみて意外な感じがした。
①元重(今川氏輝臣)―久吉(氏輝臣)―忠重(一条信龍・武田信玄異母弟臣、妻飯田氏女、
後家康側室阿茶局)―守世(台徳院臣)―守勝(台徳院臣)、
阿茶局―養子元勝(神尾姓名乗らせる、松平周防臣岡田元次男・台徳院臣)。
守勝弟守政伊予(台徳院臣)―守鄰(妻北條安房守氏平女)
②松本五郎左衛門(武田家臣)―養子松本忠成―神尾忠次(東照宮臣・妻武田臣三枝監物女)。
③神尾彦四郎(家康父広忠臣)―利勝(東照宮臣)―長勝(東照宮臣)―吉勝(台徳院近侍)、
吉勝弟長次(長勝・台徳院臣)。
④神尾信房―房成(今川、武田氏仕、あと東照宮臣)―保重(台徳院臣)。

家康・秀忠に仕えた神尾氏を年代順に並べると
永禄十二年(1569)    今川氏滅亡
天正七年(1579)       秀忠誕生 
天正十年(1582)       武田氏滅亡
天正十一年(1583)    神尾守世(台徳院仕)
天正十七年(1589)    神尾守勝(台徳院仕)
天正十八年(1590)    北条氏滅亡
慶長十一年(1606)    神尾元勝(台徳院仕元和元年大坂の役従う)
慶長十四年(1609)    神尾保重(台徳院仕)
慶長十六年(1611)    神尾忠次(東照宮・甲斐国代官)
慶長十六年(1611)    幸松丸(正之)誕生   
慶長十八年(1613)    幸松丸(正之)見性院田安邸に移る
元和三年(1617)       幸松丸(正之)高遠に移る
元和三年(1617)       神尾長次(台徳院仕)
寛永五年(1628)       神尾守政(台徳院仕)

台徳院の周りに家康の側室であった阿茶局の影響で思った以上に多くの神尾氏が仕えていた。
台徳院はお静が神尾一族の娘だと知っていたのではないだろうか。

正之公生母浄光院とその周辺(3)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正之公生母浄光院とその周辺(1)

2015-03-16 | 會津

浄光院母杉田氏の事
身延山の会津保科正之公母堂、浄光院の墓域を訪ねた。お静(浄光院)の父親神尾栄加が
北條氏旧臣だと思い出して北條家臣を探したが神尾栄加に繋がる資料は見つけられなかった。

母親の出身、杉田氏を探した。要略会津藩諸士系譜によれば、会津藩士杉田氏はお静の姉の夫、
竹村助次郎次俊の四男(杉田五郎兵衛忠俊)が杉田家を継いで寛永二年(1625)信州高遠にて
御小姓として仕えたのが始めとある。北條氏所領役帳に杉田氏の記載はなかったが、下山治久編
「北条市家臣団」に杉田氏について新編武蔵風土記稿」による記載があった。

多摩郡巻二十七川野村に旧跡杉田某屋鋪蹟として「村の西邊を云、北條の臣杉田某の屋鋪跡なり
北條氏没落の後子孫民間に蟄居せしよりこここに居れり今の農民次郎兵衛は舊家なれば、猶
舊家の條に辨せり」とあり旧家として「百姓次郎兵衛、杉田氏にて村の里正なり家系を閲するに
杉田右近允重直武州多磨郡の内相馬保に住せりこの人杉田氏の始なり按にこの邊杣保庄の唱あり
杣保は相馬保をかきかへたりと云ことは已に前に辨したりさあらばこの人の時よりここ居りしなるべし
其子次郎兵衛尉入道淨泉北条氏直まで歴任していと長壽なりしことも家系に見えたりこの後にのする
文書に入道殿とある□なるべし、其子次郎後に越後守と稱せしもの相馬保三ヶ所知行とあり
又杉田清兵衛富久後但馬守など云ものありこの外杉田氏の記せること連綿たり杉田越後守及
杉田清兵衛へあたへし文書等三通外に三田弾正えの文書一通を合せて家に蔵せるは後にのせたり
左の文書を見ても舊くよりここに居りしことしるべし北條氏没落ののち民間に下りしことは舊跡の條
并せ見るべし」とあり、杉田一族は甲州と武州との境目にあり奥多摩の小河内衆のとりまとめ役として
武田氏と北條氏の国境に古くから住んでいたことになる。
お静母親の杉田氏とはこの一族だったのだろうか。驚いたことに杉田氏が先祖代々住んでいた
この川野村に臨済宗建長寺末寺ではあるが弘安五年(1282)草創の浄光院があった。
お静の法名は浄光院、これは只の偶然だったのだろうか。

里正とは通常、霊亀元年(715)施行の郷里制下における里の長を云うが、戦国期の後北條氏領で、
里正にどのような役割を持たせたのが明確でないが杉田氏は軍役を負担する土豪の有力名主で
あったとおもわれる。

正之公生母浄光院とその周辺(2)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

保科肥後守由緒之事

2015-03-12 | 會津

会津保科正之公誕生の事情については大道寺友山(重祐)による落穂集に収められている。
大道寺家の名は山城国大道寺に由来し、のち北條早雲に従い駿河に下り早雲草創の七手御家老之家にて御家門に准ずるとして御由緒家として北條氏に仕えた。晩年、友山が仕えた越前松平家諸士先祖之記録によれば友山の曾祖父駿河守政繁は天文十五年川越城主となり、祖父直繁は小田原落城の後、台徳院へ召抱えられたが慶長七年、喧嘩の傷により死去した。友山の父繁久は高田松平忠輝に仕えるも、忠輝の改易で浪人となった。
友山は山鹿素行に師事したとされ、元禄四年(1691)兵法家として会津藩に迎えられ、同十年には藩士として仕えたが、十三年(1700)藩主松平正容の時、意に背いたとして召し放たれている。正徳四年(1714)、福井松平吉邦に仕え享保二年隠居、同十五年(1730)九十二歳で亡くなった。
友山の著書のうち「越叟夜話」は享保元年(1716)福井藩のとき、「岩淵夜話」は隠居中、聞書などを引証して、徳川家康を中心に諸家の事柄を記録した「落穂集」は正之公誕生から百十六年後の享保十二年(1727)友山八十九歳の晩年に書き残した。その中に「保科肥後守由緒之事」として保科正之公誕生前後の事情を記載している。友山は「我等儀は子細有之能々承伝羅在事候」と、事情があってこの事は詳しく聞いていると述べている。友山は台徳院に仕えた父繁久から正之公誕生の詳しい事情を伝え聞いていたのであろうか。祖父直繁の兄弟である大道寺直次は小田原落城後、福島正則に従い、あと寛永十一年(1634)大獣院(家光)に目通りして甲斐国で千石を給わった。
「家世実紀」という会津藩の記録がある。「家世実紀」は、幼くして藩主となった第七代藩主容衆に会津松平家の旧事を知らせるため会津藩編年記録で文化十二年(1815)に完成、ここに藩祖保科正之公誕生前後の事も詳細に記述されている。浄光院の事柄は落穂集の保科肥後守由緒之事と大筋で同じですが、城内でお静が仕えた井上主計の御母について「家世実紀」では「井上主計頭様御母は台徳院之御乳人にて大乳母殿と唱、大乳母殿指図にて」とある。「落穂集」では「井上主計殿御母儀(世上に於て御うば様と申:分注)主計殿方へ御姥の局宿下りあられ、、、御母儀には主計殿奥向日頃の儀なれば、御うばの局の御入候」とあり、家世実紀では「御乳人、大乳母殿、」、落穂集では「御うば様、御姥の局、御うばの局」と表記されている。これは全て井上主計の母を指しているのだろうか。と言うのは別に台徳院の乳母となった人がいる。
寛政重修諸家譜によれば武田信玄に仕え、穴山梅雪の組に属した川村善右衛門重忠の妻で夫が亡くなったあと東照宮の指示により台徳院の乳母となり、大姥の局と称したとある。「うば」の表記は乳母・姥・妣・媼でいずれも母親に代わって子育てをする女性とか年とった女性の事で、大道寺友山の記憶違いで井上主計の母(永田氏)を大姥の局としたのか、それとも写本のときに表記を書き換えてしまったのか不明ですが、後に幸松丸は武田信玄の娘で穴山梅雪後室の見性院に育てられた事を考えれば「大姥の局」が梅雪に属していた川村善右衛門重忠妻(今川氏に仕えた岡部貞綱女)だとしても辻褄が合わない話ではない。
参考
デジタル公開されている早稲田図書館蔵本「落穂集」(中村万喜直道写本)

 
正之公母堂浄光院と神尾氏

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正之公母堂浄光院と神尾氏

2015-03-08 | 會津

日蓮宗総本山の身延山久遠寺篤信廟にある会津保科正之公母堂浄光院の墓域を訪ねた。
浄光院墓碑銘に「顕妣神尾氏以天正甲申生于相州小田原城下」とあり、亡母(浄光院)、姓は神尾氏、天正十二年(1584)小田原城下生まれとあった。
  
天正十年、徳川家康は武田氏武将穴山梅雪を誘降させ、武田勝頼を攻め滅ぼし、六月には明智光秀が本能寺に信長を自刃させた。翌十一年、秀吉は柴田勝家を賤ヶ嶽に破っている。秀吉による北條氏滅亡は天正十八年(1590)の事で浄光院が生まれた頃、小田原はまだ北条氏が支配していたことになる。
会津松平家譜に「正之は征夷大将軍徳川秀忠の第四子、母は神尾氏、慶長十六年辛亥五月七日生る、幼名幸松丸、後信濃と改む」その分注に{正之の母名は静、北條氏の舊臣の女、嘗て大将軍秀忠の乳母、井上氏に従ひて大奥に仕へ、秀忠の寵を得て妊む}とある。
静の父親である小田原北條家臣神尾栄加の家系について興味を持った。小田原北條氏の家臣団については、永禄二年(1559)北條氏康の命により、太田豊後守、松田筑前守らによって編纂され、五百六十人、役高約七万三千貫が記録されている小田原衆所領役帳(北条氏所領役帳・小田原分限帳)が在るが、原本は小田原落城で北條氏規が流配となった高野山高室院の焼失で失われ、現在幾つかの写本が存在している。
所領役帳には、神尾越中守(御馬廻衆、小机加世郷)、神尾善四郎(松山衆、東郡田奈郷)、神尾新左衛門(三浦衆、飯室)の記載がある。小田原秘鑑には御旗本備四十八番将衆の一人として神尾越中守と御馬廻衆として神尾新左衛門がいる。神尾善四郎は永禄十二年(1569)、小田原城普請を命じた北條家朱印状に名がでてくる。下山治久編「後北条氏家臣団」には神尾治部入道(相模玉縄城主北條為昌・綱成の家臣)の記載があり天文五年(1536)、鶴岡八幡宮の警護に治部入道が寄子の加世者を連れて警護に当った。所領が加世郷の神尾越中守とは加世者が寄子の治部入道とは同じ一族と考えられるが神尾栄加の名は見当たらない。
会津藩の家世実紀にも神尾栄加以前の家系の記載がないのはどういう理由があるのだろうか。神尾栄加には兄、姉、浄光院、弟の四人の子供が知られており、すべて正妻の子とも限らないが、浄光院が仮に神尾栄加が二十五歳から三十五歳の間で生まれたとすれば、神尾栄加の生まれは天文十八年(1549)から永禄二年(1559)となり、所領役帳に出てくる神尾氏の次世代にあたる。
新編相模風土記稿山王原村の項に「天文二十一年北條氏康、管領上杉憲政の嫡男、龍若丸を殺し、且憲政の家人、妻鹿田新助等六人を一色の松原にて刑せしことあり」その分注に「[鎌倉九代記]曰、氏康、神尾治部右衛門に仰せて、御首を討たせらる」と記載があり、のち神尾治部右衛門は非業の死を遂げたという。神尾栄加はこの神尾治部一族であったのか、今川氏や武田氏に仕えた神尾氏が主家滅亡のあと北條氏に仕えたのか、それとも小田原北條氏滅亡により姓を替えたのだろうか、手持ちの資料では判断つかなかった。

小田原山王(今、東町)上杉神社と上杉龍若丸供養塔(中央)
 

参考資料
①藤沢市史料、北条氏所領役帳 ②東京市史外篇、集註小田原衆所領役帳
③後北条氏家臣団(人名辞典)④小田原秘鑑 ⑤小田原記 ⑥寛政重修諸家譜

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする