大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

三河田原 寺下通リ

2017-11-26 | 

三河田原にある龍門寺のお隣さんが龍泉寺でそのお隣が慶雲寺、城宝寺と続く道を寺下通リと呼んでいる。
 
地元の説明に「江戸時代、この付近は寺の集中した地域です。寺の配置というのは、防備面の弱いところ、また、城下町の鬼門の方向に設置したり、防備面、精神面の安定を図るといった意図があったとされています。寺の集中した下側を通るということで、寺下通りと呼ばれるようになりました」とある。
清谷山龍泉寺、慶雲寺は田原城主の戸田氏が檀那となって建立した。
 
龍泉寺に三河国田原藩の藩医で、日本で初めて西洋兵学書の翻訳を行った鈴木春山の墓がある。鈴木春山先生・妙好人園女之墓所の石碑を墓と勘違いして、墓所を掃苔出来ず大失敗だった。
 
後で調べたら、遺骸は江戸・小石川原町(現在の白山)の寂圓寺、衣鉢を田原・龍泉寺の境内に葬ったという。
 
山門の横に松尾芭蕉の句碑があった。芭蕉が伊良湖に向かう途中、天津縄手で詠んだ句が「寿久三行(すくみゆく)や馬上に氷る影ぼうし」。あま津繩手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也と前書している。
お隣の慶雲寺を訪ねる。号は田原山、大久保長興寺末寺で慶長六年(1601)の検地で朱印五石とされている。
 
 
 
この寺の創建は明応元年(1492)、長興寺三代如南和尚が開拓、初祖となる。天文二十一年(1552)の今川義元の寄進状が存在している。このお寺の蘇鉄は高さ7mもあるという。お寺にはなぜ蘇鉄が多いのだろう。飢饉の際に蘇鉄を救荒食とするのには本数が少ない。蘇鉄が日本庭園の樹木として公家や守護大名の庭に使われ始めたのが室町・桃山時代だったという。尾張・三河地方に「泣いた蘇鉄」の民話が残っている。何か関係があるのだろうか。
渡辺崋山の墓がある城宝寺に向かう。渡辺崋山も二宮尊徳の名前だけは知っていても何をした人物だか説明できなかった。小田原に住んで、二宮尊徳の報徳思想を知った。三河田原に来て、初めて渡辺崋山が田原藩の家老だったことを知る。
 
城宝寺の寺伝によると、幸徳法印によって応永五年(13981)に創立した。弘法大師作弁財尊天を祀り、徳川家康公この尊天のお護りにより御朱印と城宝寺々号を扶寄せられ弁天山長昌院城宝寺と改称する。境内には渡辺華山と一族の墓所、崋山の句碑「見よや春 大地も享す 地虫さへ」と遺徳記念碑がある。
 
 
渡辺崋山はモリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、幕政批判のかどで、在所田原で蟄居を命じられた。蛮社の獄から二年後の天保十二年、藩主に災いの及ぶ事をおそれ「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男立へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して自刃する。
 
門の脇に墳丘が保存されている横穴石室構造の城宝寺古墳があった。

 

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三河田原 霊巌寺から龍門寺

2017-11-19 | 

豊鉄渥美線の終点が三河田原駅で、この路線には似つかないといえば怒られそうな立派な駅にビックリする。
 
三河田原は江戸での田原藩上屋敷前の坂が三宅坂(別名、皀莢坂さいかちざか)と呼ばれていた三宅田原藩の城下町で、梅坪山霊巌寺は壱万石で挙母に入封(現在の豊田市)になった三宅康貞が慶長年間、三河挙母梅坪にあった霊巌寺を再興して三宅家の菩提寺とした。四代三宅康勝は、寛文四年(1664)、田原藩主三代戸田忠昌が肥後富岡へ転封により、代わって三河挙母藩より壱万弐千石で田原城に入り、霊巖寺も田原に移し、代々の埋葬地とした。
 
霊巌寺には初代康貞から代々の墓碑が並ぶが、大名家の墓碑としては極めて質素で、驚く。
 

 
左)初代康貞             右)二代康信
 
左)三代康盛               右)三宅累代家族墓
             
三宅家の墓所の所に昔話で伝わる「首なし地蔵」 があり、田原の殿様の弟の三宅貞三郎と侍女のおあさの悲恋物語が伝えられている。
 
弘化元年(1844)に十四代藩主三宅康直の継嗣問題を諌めるため諫死した用人真木重兵衛定前の墓があった。はっきりしなかったが、三宅氏家臣真木氏は牛久保六騎の真木氏と同族なのだろうか。
 
蔵王山龍門寺に向かう。寺の説明板に「龍門寺の古文書に、慶長年間(1596~1614)戸田公(戸田尊次殿様)城下町を築くにあたり大外堀南西に新町をつくる」とあり、「龍門寺は小牧長久手の戦役長びきて近郷疲弊のためやむなく吉胡(よしご)蔵王山より新町に移る」と記す「現在地は当時城下町の陸路正面の入口にあたり、時には木戸も建てられたようだ」ともあった。
 
 
三河のお寺を廻っていると牧野氏、戸田氏の名がよく出てくる。本家、支流と年代が入り混じる。家康の遠祖、松平信光の娘を室としたのが田原城を築いた戸田宗光、その子憲光が牧野古白今橋城を攻略、その子政光の嫡子康光、その娘が家康の父、広忠の後室に入る。康光の弟で討死した忠政の孫が戸田尊次に当たり三河田原藩初代藩主となる。尊次を宇都宮戸田家初代として寛永七年(1630)四代忠真が高田より宇都宮藩に移った。宇都宮にある戸田家菩提所英厳寺史跡にある一族の名がある墓碑は尊次より始まっている。
 
 
戸田一族と云えば、「駿府政事録」や大道寺友山撰「落穂集」にあるように、松平広忠の子、竹千代(徳川家康)を駿河国の今川義元へ人質として送らず、織田信秀に売り飛ばした話が残っている。江戸時代初期、家康の動静を記録した「駿府政事録」には「御雑談之中昔御幼少之時有戸田又右衛門某者五百貫奉売御所之時尾州御座其後自九歳至一八九歳御駿河国令談給諸人伺候衆皆聞之云々」とある。娘の嫁ぎ先の嫡男を略奪して売飛ばすということが起こせるのだろうか。その後の幕府の戸田一族への扱いをみても、竹千代を奪い取ったという話は事実だとは考えにくい。家康が幼少のころ、人質として各地を転々としたことを隠したかったのだろうか。

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老津 太平寺から十三本塚へ

2017-11-12 | 

豊橋と田原を結ぶ豊鉄渥美線でJR豊橋駅の隣にある新豊橋駅から20分位で老津駅に着く。途中の高師(たかし)とか老津(おいつ)とか、何気なく読み方が分からない地名が多い。老津は元来、大津と呼ばれていたが、明治十一年(1871)、渥美郡老津村に改名したという。
 
目的の太平寺は歩きで老津駅から北に15分ぐらいのところにある。切通しのような緩い坂を上り切ったところにある市立家政高等専修学校の入口に教育委員会による高縄城址の標柱があった。諸国古城之図をみると、東西三十三間(60m)とありこの学校の中庭ぐらいが主郭で城絵図にある南と西北の入口に続く道が、いま学校を取り囲む道としてそのまま残っている。切通しに見えたところは、東側の堀跡を道路として使用したように思える。
 
この古城の東南の山際に太平寺がある。
 
 
 
 
寺伝によると、嘉応年間(1169~1171)の創設で、最初は真言宗であったが延元・興国(1336~1345)の頃、大暁禅師(峯翁祖一)が巡錫して臨済宗に改宗したとある。江戸時代後期に裏山から見つかった古鐘に長松山太平禅寺再興鋳鐘銘、明応四年(1495)とある。戦国時代には田原城主戸田宗光、その後は今川義元の保護(注1.三州国渥美郡大津郷太平寺領之目録)を受け、妙心寺末寺に変化している。その後、徳川家康は三河国吉田城を攻め取り、三河一国を平定して、永禄七年(1564)、大津を戸田三郎九郎忠真に与え、忠真もこの寺に寄進して保護した。ご住職が不在で裏山の墓域に入れなかったが、裏山には「東照権現御霊廟」があるという。
高師口交差点の西南角に石碑の供養塔があるというので、豊鉄の愛知大学前駅で降りて高師口交差点に向かう。改札口のすぐ横が大学の校門なので驚く。線路沿いに歩いて5.6分で交差点に着いた。
 
今川義元討死のあと、東三河に侵略した松平元康(徳川家康)方の三州の武将の人質十三人を今川氏真は永禄五年(1561)三月、龍念寺(龍拈寺)前で誅殺し、吉田近郷中野新田に骨を埋めて墳墓を作った。のちこの所を十三本塚と呼んだという。十三人の人質の霊を慰める供養塔と道標とを兼ねたものとも伝えられているという。石が摩滅していて一面しか判読できなかったが「奉納大乗妙典 右大崎・左田原」とある。大乗妙典とは、法華経のことで、その一字を一石に記して土中に埋めた供養塔で、近世中期以降盛んとなり、その発願成就記念に建てられることが多かった。十三人の供養塔と道標を一緒にするのかなとも思うし、近くの愛知県豊橋市杉山町に十三本塚という地名があるのも気になる。供養塔のある場所が豊橋市富本町で「十三本」を「とみもと」と読ませ関連付けたという話もある。
 
 
福岡郵便局の近くに福岡地蔵尊がある。ここ福岡に龍拈寺墓地があり屍を葬ったという。実際は誅殺された人数も埋葬された場所もはっきりしないのだろう。三州吉田記では松平玄蕃清善妻、菅沼新八郎定盁妻、西郷弾正正勝妻、梁田某妻、水野藤兵衛妻、松平又七郎家廣妻、大竹兵右衛門妻、奥山修理妻、菅沼左衛門真景妻、浅羽三太夫子供二人、白井某妻并嬰児の十三名を載せている。

参考:注1. 國學院大學デジタル・ミュージアム柴田常恵写真資料目録番号sj2679

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豊橋 吉田三ヶ寺

2017-11-06 | 

三河でも吉田三ヶ寺、牛久保六騎、地侍十七人衆等など複数名にて纏まって固有名称で呼ばれる事が多い。吉田三ヶ寺というのも何時、誰が最初に云いだしたのだろうか。
吉田三ヶ寺の一つとされている龍拈寺(曹洞宗)は豊川牛窪一色城主および豊橋の今橋城の初代城主であった牧野古白入道成時の追善供養のため、子の牧野信成が創建した寺で、山号は吉田山(きちでんさん)、昭和20年(1945)の豊橋空襲で山門を除く全伽藍が炎上し、残った山門が豊橋市の有形文化財に指定されている。この山門は龍拈寺に残る唯一の江戸時代の遺構で、山門には月舟宗胡筆による額が掲げられている。
 
 
山門から龍拈寺までの間に龍拈寺観音堂、塔頭だった悟慶院、長養院、日進院がある。境内墓地には、永正二年(1505)、吉田城を築城、翌年の永正三年十一月、今川勢戸田憲光との戦で討死した牧野古白成時の墓がある。墓の傍に「大永元年(1521)吉田城主、牧野信成は父古白の菩提を弔うために古白が葬られたほとりに龍拈寺を建立し山号を吉田山とした。この頃、今橋の地名を吉田と改名されたという」(牛久保密談による)との説明板があった。この牧野氏の一族に、のち越後長岡初代藩主となった牧野忠成がいる。
 
 
観世流七世左近元忠(法名宗節、元広の子)の弟、八世左近大夫元尚の墓があった。墓石には浄光院殿玉庵宗□居士 観世左近太夫墓 天正五年(1577)丁丑正月二十九日とあった。
 
吉田三ヶ寺の一つ、悟真寺は浄土宗京都知恩院派、山号は孤峰山、院号を浄業院、開基は貞治五年(1366)、善忠上人で寺紋に三つ葉葵を使用している。なぜ三つ葉葵紋を使用できたかお寺で聞くことはできなかったが、三州吉田記に御朱印之外三十石免除とある。これは台徳院殿(二代将軍徳川秀忠)、御茶湯料の為水野隼人正が寄附したとある。将軍の休憩所か宿泊所として使われたのかもしれない。「三河国吉田名蹤綜録」に悟真寺塔頭十三箇寺とある。悟真寺は今でも旧塔頭寺院、善忠院、西善寺、勢至寺、専称寺、龍興院竹意寺、法蔵院、樹松院、東高院に囲まれている。昭和20年6月の豊橋大空襲で全焼するが、戦後に再建された。
 
最後の吉田三ヶ寺は、魚町にある天台宗東叡山寛永寺末の神宮寺、山号は白雲山院号を寿命院といい、慶長元年(1596)、中興開基は重信法院、松平豊後守資訓男捨五郎をこの寺に埋葬し廟所を造り、城の祈願所とした。以来、代々の城主から毎年年始に門の松飾りを賜ったという。
 
 
嘉永七年(1854)の安政東海地震の時、神宮寺の地蔵菩薩が幼女の身代わりになったという話から、延命地蔵」「身代わり地蔵」と呼ばれるようになり「願かけ地蔵」として信仰を集めるようになった。

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