三河田原にある龍門寺のお隣さんが龍泉寺でそのお隣が慶雲寺、城宝寺と続く道を寺下通リと呼んでいる。
地元の説明に「江戸時代、この付近は寺の集中した地域です。寺の配置というのは、防備面の弱いところ、また、城下町の鬼門の方向に設置したり、防備面、精神面の安定を図るといった意図があったとされています。寺の集中した下側を通るということで、寺下通りと呼ばれるようになりました」とある。
清谷山龍泉寺、慶雲寺は田原城主の戸田氏が檀那となって建立した。
龍泉寺に三河国田原藩の藩医で、日本で初めて西洋兵学書の翻訳を行った鈴木春山の墓がある。鈴木春山先生・妙好人園女之墓所の石碑を墓と勘違いして、墓所を掃苔出来ず大失敗だった。
後で調べたら、遺骸は江戸・小石川原町(現在の白山)の寂圓寺、衣鉢を田原・龍泉寺の境内に葬ったという。
山門の横に松尾芭蕉の句碑があった。芭蕉が伊良湖に向かう途中、天津縄手で詠んだ句が「寿久三行(すくみゆく)や馬上に氷る影ぼうし」。あま津繩手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也と前書している。
お隣の慶雲寺を訪ねる。号は田原山、大久保長興寺末寺で慶長六年(1601)の検地で朱印五石とされている。
この寺の創建は明応元年(1492)、長興寺三代如南和尚が開拓、初祖となる。天文二十一年(1552)の今川義元の寄進状が存在している。このお寺の蘇鉄は高さ7mもあるという。お寺にはなぜ蘇鉄が多いのだろう。飢饉の際に蘇鉄を救荒食とするのには本数が少ない。蘇鉄が日本庭園の樹木として公家や守護大名の庭に使われ始めたのが室町・桃山時代だったという。尾張・三河地方に「泣いた蘇鉄」の民話が残っている。何か関係があるのだろうか。
渡辺崋山の墓がある城宝寺に向かう。渡辺崋山も二宮尊徳の名前だけは知っていても何をした人物だか説明できなかった。小田原に住んで、二宮尊徳の報徳思想を知った。三河田原に来て、初めて渡辺崋山が田原藩の家老だったことを知る。
城宝寺の寺伝によると、幸徳法印によって応永五年(13981)に創立した。弘法大師作弁財尊天を祀り、徳川家康公この尊天のお護りにより御朱印と城宝寺々号を扶寄せられ弁天山長昌院城宝寺と改称する。境内には渡辺華山と一族の墓所、崋山の句碑「見よや春 大地も享す 地虫さへ」と遺徳記念碑がある。
渡辺崋山はモリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、幕政批判のかどで、在所田原で蟄居を命じられた。蛮社の獄から二年後の天保十二年、藩主に災いの及ぶ事をおそれ「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男立へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して自刃する。
門の脇に墳丘が保存されている横穴石室構造の城宝寺古墳があった。