大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

金沢 神社めぐり

2016-07-27 | 

市内の神社めぐりは金沢城の西端にある尾崎神社からスタートした。
 
 
この神社は寛永二十年 (1643)に四代藩主前田光高が金沢城北の丸に天照大神・源朝臣家康(徳川家康)・菅原朝臣利常(加賀藩三代藩主)を祀る東照三所大権現社として建立したもので、明治になり神仏分離のため本地堂が現在の長田菅原神社の拝殿として移され、城内に残っていた「御宮」も明治七年に尾崎神社と名称を変更し、明治十一年に現在地に移築されたという。
 
藩祖前田利家が豊臣政権の筆頭大老だったこともあり、利家亡き後、慶長・元和・寛永の時代、徳川家との緊張関係が残っていた。利家の妻(芳春院)が江戸から解放されたのが三代藩主利長死去の翌月、慶長十九年(1614)六月で同年九月にやっと、将軍秀忠は前田利常に加越能三州を領すべき朱印状を与えた。家康は同年十月に大坂征討を命令、前田家は徳川勢として大坂冬の陣に参加した。慶長五年(1600)、三代藩主利常は徳川秀忠の娘、珠(天徳院)を正室として迎え、寛永十年(1633)、水戸徳川頼房娘(光圀姉・清泰院)を徳川家光の養女にして四代藩主光高の正室とし、更に万治元年(1658)五代藩主綱紀は家光の異母弟、保科正之の娘巻摩須(松・松嶺院)を正室として徳川幕府との融和を図っていった。
 
尾崎神社から城に沿って南に五分も歩くと尾山神社の横の駐車場に着く。
 
尾山神社は慶長四年(1599)に加賀藩の藩祖前田利家を祭り創建された卯辰八幡宮を、明治六年に卯辰山から現在地に移し尾山神社とし、今、神門は国の重要文化財に指定されている。明治八年に建てられた和漢洋折衷の三層式建物という変わった建築様式で当時の金沢の評判はどんなだったのだろう
 
ここは元々、小立野台地の端で加賀一向一揆の拠点であった尾山御坊と呼ばれる浄土真宗の寺院があった所で、山のしっぽ(尾)から尾山(御山)と呼ばれたとも言われる。そうすると尾崎は山のしっぽ(尾)の先(崎)という事になるのだろうか。早めのお昼を近江市場で取って、またお城兼六公園の西隣に在る石川護国神社に向かう。
 
石川護國神社は石川県出身者及び旧陸軍第九師団の他県出身の戦没者の御霊をお祀りしている。明治戊辰の役で戦死した加賀藩の百八名の戦没者を、明治三年、卯辰山に招魂社を造営して祀ったのが始まりで、昭和十年に卯辰山から現在地に遷座、昭和十四年社名を石川護國神社と改称した。ここに旧招魂社碑が残されているというので境内を探しまわってしまった。本殿左奥と社務所(事務所)との間の雑草の中にポツンと残されていた。
 
金沢の陸軍埋葬地は明治9年、野田山の山ノ内に設けられ、この陸軍墓地は戦後の一時期、野田山陸軍墓地と呼ばれたこともある。現在、石川県戦没者墓苑として県が維持管理を行っている。野田山にある石川県戦没者墓苑配置図説明に「この墓苑は明治時代に、陸軍が戦没者の墓地として整備したもので、古くは戊辰戦争、西南戦争から太平洋戦争にいたるまでの戦没者が合葬されています」とある。
 
 
日中戦争の戦没者を慰霊するため、陸軍などにより建立された忠霊塔や卯辰山の金沢市共同墓地及び天徳院境内に個々に埋葬されていた西南役、北越役関係戦没者を合葬した陸軍軍人合葬之墓、
 
征清役戦死軍人・病歿軍人合葬碑 日露役陣歿者合葬碑が建立されている。
 

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能登 輪島門前町

2016-07-19 | 

金沢に泊まって能登のお寺さんを廻る。総持寺祖院等を訪ねるのも非常に不便で、電車で行くか、高速バスで行くか迷ったが、のと鉄道の観光列車に一度は乗りたくて電車を利用することにした。JR七尾線とのと鉄道の車両がラッピング車両で、JR七尾線車両は昔話ばなしの主人公かと思ったら、七尾市のマスコットキャラクター「とうはくん」で、のと鉄道のラッピング車両は、なんでもTVアニメ「花咲くいろは」の主人公だという。
 
 
車窓から眺めていたら、ピンク色の駅舎の愛称「能登さくら駅」やホームに異なる2つの駅名標がある駅があった。「湯乃鷺駅」はTVアニメで使用した駅名だった。時刻表に記載のない駅名標で支線でもあるのかとびっくりした。
 
七尾湾に丸太組のやぐらを組んだ古い漁法、「ぼら待ちやぐら」が見えてきた。さすが能登は魚影が濃いな思っていたら、帰り望遠にして櫓の上の人をみたら、これが人形、すっかり騙されてしまった。
 
阿岸本誓寺から廻った。山門脇の石碑に「能登阿岸 新巻山本誓寺」とあり、門扉に三つ葉葵と二条藤の家紋が打ってあった。能登鳳至郡の百六ヶ寺の触頭寺院で在った事と本誓寺住職家に二条家の娘が嫁いできたことによるらしい。
 
本堂は文永五年(1268)、善了法師の創建と伝えられ、入母屋造り、平入り、総茅葺きで、正面に四本柱の三間向拝を設け、規模は、正面桁行柱間九間(約24m)梁行柱間十間の大規模な建物であり、安永九年(1780)に起工し、寛政四年(1792)に棟上げしたという。茅葺屋根では日本屈指の大きさでいかにも古刹という雰囲気で五木寛之の百寺巡礼に選ばれたのも納得する。
 
 
能登三十三観音霊場、北陸三十六不動の札所でもある鳴梅山宝泉寺に寄る。
 
山門の脇にあった真田伊豆守信乃の供養塔の事を聞こうと本堂を訪ねるといきなりお経が始まった。ご住職は不在で会えなかったがセンサーでお経の録音テープが鳴り出したのはビックリした。
    
太齢山覚皇院は応永六年(1399)開山は大徹宗令大和尚、創建より大本山總持寺の塔頭寺院で江戸時代の總持寺輪住制時代では輪住の住職が覚皇院で身支度を整えてから晋住したという。ここでもご住職には不在で会えなかった。もしかしたら祖院に詰めているのだろうか。
 
 
境内に一人の観光客も見かけず、ひっそりとした総持寺祖院を廻る。
 
總持寺は元亨元年(1321)、瑩山紹瑾禅師によって開創、山号は諸嶽山、後醍醐天皇綸旨により總持寺を勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定めた。明治三十一年、七堂伽藍の大部分を焼失し、明治四十四年に寺基を鶴見に移し、以後、能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれ曹洞宗専門道場となっている。
 
 
 
本堂で身寄りがないので生前供養をお願いしに東京からきたという年配の女性と会う。生前授戒で血脈を頂きにきたのだろうか。歳をとると考えないといけない事が色々起きてくる。祖院総門に入ってすぐ右側に前田利家の妻「まつ」の位牌所である芳春院がある。
 
穴水から和倉温泉駅でJR特急に接続する、のと鉄道の観光列車で金沢に戻る。
のと鉄道は七尾~穴水間、8駅約33kの短い路線で、片道35分前後の所を観光列車は1時間程度かけて走る。一生懸命ガイドしてくれる。横に来て車内装飾の説明をするが、話の内容が乏しい所為か相槌するのも疲れる。
左)のと鉄道始発駅七尾駅改札       右)穴水駅
 
 
のと鉄道能登中島駅に郵便車が保存してあった。現存する郵便車両は2台しかないそうです。

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加賀八家墓所 玉龍寺・開禅寺

2016-07-11 | 掃苔

金沢市内は妙に方角と距離感がとれない町である。町の中心、お城は金沢駅の東南の方向、約2kにあり、小立野台地の先端に浅野川と犀川とに挟まれたほぼ真ん中に築かれている。
 
城を中心に道が八方に伸び、菱形に城下町が形成されている。昔は地図の上方は北と決まっていたが、観光地図は見やすいように描く為か、南北が上下逆であったり、東西が反転していたり、そのうえ一方交通の路も多く、よけい方向感覚が無くなってしまう。
金沢城は浅野川と犀川を自然の濠に見立て、川の外側に三つの寺院群を移築し、城の東側の卯辰山には卯辰山山麓寺院群、南東の小立野台地には小立野寺院群、南の寺町・野町にある寺院を寺町寺院群と呼び、城の備えとしたという。
この寺町寺院群に加賀八家の対馬守家と呼ばれる前田家の墓所が玉龍寺に、同じく加賀八家の長家の初代・六代・七代・八代の墓が開禅寺にある。(九代以降は前田家三代利常公と九代重靖公の墓所の北側、野田山芝山地区)
前田長種家の菩提寺玉龍寺に行く。タクシーで「寺町の玉龍寺」にと云うと、運転手の方が首をかしげる。七十近いお寺さんがあっては知らないのも無理はない。お寺の在る町名も間違っていた。地図にあった沼田の交差点に行って貰った。ここからが大変だった。お寺の入口が判らず、細い道を行ったり袋小路をバックで戻ったり運転手も大変だった。
前田長種は織田信長家臣だった前田長定の嫡男で利家の娘、幸を正室とし加賀前田一門に列した。長種家は荒子城主尾張前田氏とは別系統の下之一色村城主前田氏で系図ははっきりしないが、前田仲利の嫡男家とも言われている。
長種の子直知の最初の正室が稲葉一鉄の孫おなあ(祖心尼)、一鉄の兄弟、重通の娘おあんが嫁いだ先が斎藤道三の孫で叔父が明智光秀になる斎藤利三で、その娘が三代将軍徳川家光の乳母となったおふく(春日局)、おなあが再婚したのが蒲生氏郷重臣町野繁仍の子幸和で、その孫娘振(自証院)は家光の側室となっている。最後の会津武士と称され、小説の主人公にもなった会津藩士町野主水重安の祖、町野重成は町野繁仍弟の町野秀俊の孫にあたる。
東京牛込済松寺       祖心尼墓
 
玉龍寺は曹洞宗の寺院で山号は大亀山、開山は桂厳慧芳大和尚、開基は菅原泰学長規(前田家家老前田対馬守長種祖父)としている。山門は薬医門で脇塀付桟瓦葺と云うそうです。
 
左)前田氏先祖安楽院殿、二代玉龍寺殿、その配天桂院、三宝塔之銘
右)手前から前田長種墓、長種室墓、二代直知墓
 
 
玉龍寺の前の道を南に250m位下がると開禅寺に着く。
 
開禅寺の勧請開基は大乗寺二世瑩山紹瑾大和尚、開基は加賀八家の一つ長家元祖長谷部信連、山号は華嶽山、加賀八家長家の墓所の一つで前田家二代利長と共に金沢に移転したと伝わる。長連龍の娘で、利長の幼女となり、前田美作守直知の継妻となった久香院(求光院)の墓もあるという。
六代長善連墓         右)七代連起・室墓
 
八代連愛・室墓        右)長家墓域
 
野町のお寺を巡った日は30度を超える猛暑日で他のお寺さんを廻る元気もなく、駅へ帰るタクシーを待つ間、開禅寺の前の龍淵寺の山門の石段で休ませてもらった。
 
この開禅寺の寺域全体が金沢市の保存樹林になっているそうで、涼しい風が吹き抜けていた。

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金沢 大乗寺

2016-07-05 | 掃苔

加賀藩八家の筆頭家老本多氏の菩提寺、大乗寺を訪ねる。
 
東香山大乘寺は、山号を古くは椙樹林、後には金獅峯と号した。開山は曹洞宗大本山永平寺開祖道元禅師、その一番弟子の懐弉禅師、またその弟子の徹通義介禅師で、大本山總持寺を開創した瑩山紹瑾禅師は大乘寺の第二世です。大乗寺は石川県で一番古い曹洞宗のお寺さんで、福井県大野の薦福山宝慶寺、熊本県熊本の大梁山大慈寺、京都府宇治の仏徳山興聖寺と共に大本山永平寺の四門首の一に数えられている。
 
  
曹洞宗の古刹らしく大乘寺の伽藍は、曹洞宗寺院建築の典型的な七堂伽藍の配置を示しており、仏殿は国指定重文、総門・山門・法堂は石川県の指定有形文化財となっている。
 
 
大乗寺は金沢の市街地から少し離れた野田山の中腹に在るせいか、訪れる観光客もなく、曹洞宗の大乗寺専門僧堂として鬱蒼とした静寂さを保っていた。
 
 
加賀八家の本多家の墓所は新旧、二ヵ所に分かれている。大乗寺の墓所も広くてウロウロしてしまった。山門の手前の横道を入ったとこに本多家旧墓所、
 
 
総門の横奥に本多家新墓所がある。
 
 
 
本多家の新墓所の手前に日本最後の仇討「十二義士の墓」というのがあった。
「加賀前田藩は幕末より明治に移る時 藩内の意見が対立した 筆頭家老本多政均は保守派の反対にあい暗殺された 明治四年十二人の家臣はその仇討ちを果したが翌年政府より切腹を命ぜられる 本多家墓地前に十二義士の墓として供養す」と石柱が建っている。
 
             
この事件は、明治二年、加賀八家である加賀藩前田家執政本多政均が城内二ノ丸で藩士、山辺沖太郎・井口義平に刺殺された。この首謀者二名は明治四年に切腹、明治五年、暗殺にかかわった岡野悌五郎・管野輔吉・多賀賢三郎を本多家家臣が金沢と彦根で殺害し、仇討を果たした。仇討の実行犯の本多家家臣、本多弥一、鏑木勝喜知、富田総、吉見亥三郎、西村熊、矢野策平、舟喜鉄外、浅井弘五郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎、柴木喜内、藤江松三郎の十二人が切腹となった。本多政均の暗殺理由は何だったのだろうか。明治維新前後の藩政の舵取りで、佐幕派と尊王攘夷派、革新派と保守派による複雑な対立が本多政均の暗殺なったのか。県史にある首謀者二名の口上書や本多家家臣の復讐趣意書などを読んでも事の本質は理解できなかった。この事件を扱った松本清張の短編小説「明治金沢事件」では廃藩置県による直臣と陪臣の対立として描いている。この事件が契機となって、明治六年、明治政府は「復讐厳禁」を布達した。

近くに陸軍大将で総理大臣を務めた林銑十郎家の墓所や上杉謙信の能登侵攻で滅亡した能登七尾の守護畠山氏の墓所 があった。
 
 

参考:太政官布達   明治六年二月七日
人ヲ殺スハ國家ノ大禁ニシテ人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ政府ノ公權ニ候處古來ヨリ父兄ノ爲ニ讐ヲ復スルヲ以テ子弟ノ義務トナスノ風習アリ右ハ至情不得止ニ出ルト雖トモ畢竟私憤ヲ以テ大禁ヲ破リ私義ヲ以テ公權ヲ犯ス者ニシテ固ヨリ擅殺ノ罪ヲ免レス加之甚シキニ至リテハ其事ノ故誤ヲ問ハス其理ノ當否ヲ顧ミス復讐ノ名義ヲ挾ミ濫リニ相搆害スルノ弊往往有之甚以不相濟事ニ候依之復讐嚴禁被 仰出候條今後不幸至親ヲ害セラルル者於有之ハ事實ヲ詳ニシ速ニ其筋ヘ可訴出候若無其儀舊習ニ泥ミ擅殺スルニ於テハ相當ノ罪料ニ可處候條心得違無之樣可致事

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