大佗坊の在目在口

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本免許二等運転手 郡寛四郎

2011-03-30 | 會津

昭和十二年発行「会津史談会誌」第十六号で郡寛四郎が「三の丸の籠城に就きて」、商船学校を明治十七年卒業して郵便汽船三菱会社に勤めた河原勝治(会津藩士河原善左衛門息子)が「思ひ出」を書き残している。これによると郡寛四郎は明治戊辰の役、十一歳の少年だった。

 

寛四郎は明治五年より旧郵船汽船会社の妊婦丸に乗船、明治九年一月商船学校(一期仮則)へ入学するまで見習運転手として運行術を習得して経験により、本来、商船学校本則生徒の学期は五年、仮則生徒は三年であったが、十一年六月、旧会津藩士浅岡俊吾(二期運用本則)と共に全科卒業を認められた。

 

この二人の航海実歴は、商船学校創業以前に於ける船員履歴として貴重な史料として東京商船大学九十年史に記載がある。しかも両人の成業については、「入校以前各実地航海ニ従事シ且浅岡俊吾ハ入校以降席上ノ学科ヲ卒へ更ニ壱ヶ年二ヶ月、郡寛四郎ハ壱ヶ年四ヶ月間汽船並帆船ヘ乗組実地航海修業罷在候ニ付可ナリ運転手ノ事業ニ練塾致居候様被存候」と学校側ではその技量を保障している。

商船学校を卒業した郡寛四郎は郵便汽船三菱会社入社、翌年の明治十二年に西洋型商船船長運転手免状試験をうけている。試験実施規定の中には明治初期の試験らしく、試験問題の答案に石版もしくは反古紙の使用を禁止(10条)、船長運転手の計数に係る問題では一里以外の誤算があってはならない(12条)などがあった。この試験は平素使用している式や表の持ち込み可で、自分の書籍の携帯が許されていた。

 

この国家試験には免除規定があり、試験課程の第一則で「本免状ヲ受ケヘキ受験人ニ要スル技芸」として「二等運転手は必ず年齢十八歳に満ち四ヶ年以上海上に在り惑は二ヶ年以上海軍兵学寮惑は三菱会社其他の商船学校に在て修業し航海運用の学科に於て適合の試験を経て後三ヶ年以上海上にありし者にて左の試験課程に及第せるものとす」と測量学、船具運用学を免除している。この海員免許は明治十年一月一日以前の西洋型船の経験者にはその船舶の屯数、馬力に応じて本免許、仮免許を与え、海軍大尉の任に在った者は船長仮免除、海軍中尉には一等運転手、海軍少尉は二等運転手の仮免状を与えている。

 

明治十一年の卒業生は一期楡井次郎、春日融、郡寛四郎、三崎彬次郎、吉澤新吉、森田盛嗣、岩永敬四郎(旧姓岸川)、野中高庸、二期浅岡俊吉の九名。全員郵便汽船に入社、二等士官は楡井次郎、春日融、浅岡俊吉、郡寛四郎の四名のみで、郡は翌年の明治十二年、二等運転手本免許を取得している。明治十四年十二月(布告第七十五号)免状規則と試験規程が改定され、海技免状を、甲、乙及び小型船に分け、甲種免状は主として外国航路の船員、乙種免状は内国航路の船員に対して交付されるようになった。

    

(参考)

三菱商船学校航海科一期卒業生名(明治十一年三月~明治十六年三月)

 

楡井次郎(北海道)、春日融(長崎)、郡寛四郎(東京)、三崎彬次郎(新潟)、

吉澤信吉(岡山)、森田盛嗣(静岡)、岩永敬四郎(旧岸川敬四郎長崎)、

野中高庸(長崎)、小林寛(兵庫)、辻實(和歌山)、吉田有年(和歌山)、

山田毅(北海道)、中山信成(宮城)、梅園直之進(広島)、伊東治三郎(石川)、

松木安蔵(兵庫)、岩藤與十郎(岡山)、兵頭加一郎(愛媛)、勝沼五郎(栃木)、

安井勇(群馬)、鈴木栄次郎(東京)、大島崇彦(東京)、高見巌(石川)、

大掘定従(宮城)、大石篤敬(静岡)、柘植信一(石川)、高田一郎(兵庫)、

辻新太郎(石川)、曽良鉉三郎(東京)、掘内雄太郎(長野)、園村鐵太郎

(旧八代鐵太郎滋賀)、川室清造(旧上島清造新潟)、加川拙郎(東京)、

真木市郎(長崎)、二歩恭三(山口)、三田村鐘三郎(群馬)、浅井精一郎(静岡)、

石坂圭三(福岡)、伊達鐵吉(和歌山)、片岡清四郎(三重) 以上四十名。

注(明治十五年三月、機関科一期卒業三名、岸章次郎、陳直治、三野嘉吉郎)

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郵便汽船三菱会社社員 郡寛四郎

2011-03-28 | 會津

郡寛四郎は、会津藩士萱野権兵衛や郡長正の弟で明治九年に東京商船大学の

前身で岩崎弥太郎が創設した三菱商船学校に一期生として入学した。

 

東京商船大学九十年史に郡寛四郎の航海履歴が掲載されていた。

「明治五年二月ヨリ旧郵船汽船会社所轄妊婦丸ニ乗組ミ稽古人トナリ水夫ノ

業ニ従事シ同六年迄東京より大坂神戸ヲ航海ス同年五月ヨリ七月迄機械修繕ノ為

品川港ニ碇泊ス此時ヨリ見習運転司トナリ運転司ノ業ニ従事ス同八月ヨリ十二月

迄東京ヨリ大坂神戸勢州四日市港ヲ航海ス同七年正月ヨリ同年四月マデ大坂神戸間

ヲ航海ス同年五月機械修繕ノタメ横須賀ニ至ル同六月ヨリ八月マデ東京ヨリ奥州

諸港ヲ経テ箱館ヨリ羽州酒田港ニ航ス同九月ヨリ十二月マデ神戸日向細島ヲ経テ

鹿児島ヨリ琉球ニ航ス同八年一月ヨリ同年四月マデ筑前博多長崎港ヲ経テ肥後

百貫港ニ航海ス同下旬該船ヲ去リ同九年一月商船学校へ入学仕候也右姓婦丸ニ

乗組年数全三年二ヶ月」

 

明治十一年、商船学校を卒業した郡寛四郎は直ちに郵便汽船三菱会社に

二等士官として入社、翌年の明治十二年、二等運転手本免許を取得している。

 

この免許取得試験は、明治九年六月六日、「西洋型商船船長運転手及ヒ機関手

試験免状規則」(第八十二号)で、船長運転手及び機関手約定総則及び試験免状

章程の両款に分け、航洋船に施行するもので、湖川港湾内海或は海峡中に限り

運用する船は適用外とした。

 

約定総則は十二条、試験免状章程は十四条からなり、最後の章程十四条は

試験課程は三則からなり、試験免状規則追加の八条から成り立っている。

 

総則

第一条 明治十年一月一日より以後海軍諸艦を除き登簿屯数一百公称

馬力五十以上の西洋型洋船の船長運転手或は機関手たる者は何人たり

とも此規則に遵て発出したる免状を受有するにあらされは其職を

執るを許さず

第二条 船船長運転手及び機関手試験の免状を分けて甲乙両種となす即ち

本免状仮免状是なり

(甲)本免状は後に記載せる本則の條款或は内務卿の命令或は其他須

要なる順叙に従ひ試験を了りたる人に授与す

(乙)仮免状も亦後に記載せる仮則の條款に照して之を授与す然れとも

 明治十五年一月一日以後は総て之を廃止すべし

第三条は屯数と馬力について必要とする等級免状についての条項で

100400屯は仮免船長と1等運転手、400屯以上は本免船長、1等運転手と仮免2等

運転手、50~100馬力は仮1等機関士、100~200馬力は仮1等機関士と仮免2等

機関士、200馬力以上は本免1等機関士と仮免2等機関士の乗船を必要とした。 つづく

(商船教育110年記念と隅田川風景印)

 

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三菱商船学校生徒浅岡俊吾

2011-03-21 | 會津

赤穂浪士が吉良邸へ討ち入りのあと、泉岳寺へ向って隅田川を渡ったのが

永代橋。いま架かっている永代橋の西側に東京都中央区教育委員会により

昭和五十年十一月に建立された船員教育発祥之碑が残っている。

 

 

 

碑文は

「内務郷大久保利通は、明治政府の自立的な海運政策を進めるにあたり、

船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎弥太郎に命じて、明治八年十一月

この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上

交通の要衝でもあった永代橋下流水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内

に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。爾来百年、

ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に

大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島に

ある現東京商船大学に継承せられている」(昭和五十年十一月)

 

(永代橋下流でカッター艇の訓練、東京海洋大学の艇?)

 

 

 

明治八年、岩崎弥太郎は「三菱商船学校」を創立、商船学校から東京商船大学、

さらに平成十五年に東京水産大学と合併して「東京海洋大学」となっている。

三菱商船学校は「商船に従事すべき輩を教導せんが為」と設立されたもので、

海外航行は本則学舎で十八歳以下十四歳以上の者、内国航通は仮則学舎で

十九歳以上二十五歳以下の者に技芸を教導し、学期は原則、本則生徒五年、

仮則生徒は三年として其間は非常の事故でなければ決して退校を許さないと

いう海軍兵学校と同じ扱いの厳しい校則だった。

 

浅岡俊吾は兵学校退学のあと、三菱商船学校二期生として入学しが、この学校の

一期生四十四名の中に旧会津藩士郡寛四郎が在籍していたが、もう一人一期生で

開拓使平民としての楡井次郎の名があった。はっきり特定できないが戊辰の時、

白井大砲隊で朱雀寄合四番隊会津藩士楡井次郎、また黒谷会津藩墓地明治四十年

修理募金発起人の一人に名がある楡井二郎と同一人物ではないだろうか。

 

明治九年、三菱商船学校開設初期の教授陣に大坪正慎(海軍大尉兼海軍兵学大助教)、

山田毅(開拓使士族)、宍戸鎰(静岡県兵学校教授方)等がいる。明治十五年四月、

官立となり三菱商船学校から東京商船学校と改称、明治十七年には青森出身五期生の

河原勝治がこの学校を卒業している。

 

明治九年一月、郡寛四郎が一期生として商船学校に入校、浅岡俊吾は

明治十年一月、二期入学して共に明治十一年七月四日に卒業している。

在学期間も生徒の過去の経歴や熟否の程度によって適便に認定したようで、

特に浅岡俊吾は本則を一年六ヶ月の最短学歴で卒業している。

東京商船大学九十年史に浅岡俊吾の航海履歴が掲載されていた。

 

浅岡俊吾

「明治二年五月ヨリ旧斗南藩所轄風帆船栄丸ヘ乗組ミ稽古人トナリ水夫ノ業ニ

従事シテ同年十二月迄東京ヨリ奥州諸港ヲ経テ箱館及ヒ羽州酒田港ヲ航海ス同月

下旬航海測量術修業ノ為該船ヲ去リ同三年二月ヨリ同藩所轄風帆船安渡丸ニ乗組ミ

稽古人トナリ同四年四月迄東京ヨリ奥州諸港ヲ経テ箱館及ヒ羽州酒田港ヲ航海ス

同月下旬該船ヲ去リ同年五月ヨリ千葉県士族寺田将美所轄風帆船永楽丸ニ乗込ミ

見習運転司トナリ運転ノ業ヲ取リ同年七月迄東京ヨリ大坂神戸ノ間ヲ航海ス同年

下旬該船ヲ去リ同年八月海軍兵学校ニ入校ス同九年四月より筑波艦ニ乗組ミ同年

十二月迄東京近海ヲ航行ス同月下旬該船ヲ去ル同十年一月商船学校ニ入校仕候

右乗組年数全二年十一ヶ月」

 

浅岡俊吾は明治四年年八月海軍兵学校に入校するまで、明治二年五月から

見習水夫乗組や見習運転司として旧斗南藩所轄の風帆船に乗船していた。

経歴によれば明治三年二月より旧斗南藩所轄風帆船安渡丸に四年四月まで乗組

とある。東海散士や陸軍大将柴五郎の兄の柴五三郎が斗南にいた父、柴佐多蔵の

ところに戻ったのが明治四年四月、それまで五三郎が乗船していたのが斗南藩所轄

風帆船安渡丸。この船は房総沖で四年四月に難破した。浅岡俊吾と柴五三郎は共に

同じ旧斗南藩所轄風帆船の安渡丸で操船を習得していたことになる。

 

港を持たなかった会津藩が戊辰後、海運の力に目覚め多くの藩士子弟を

斗南藩所轄の風帆船に乗船させ操船訓練をさせていたのがわかる。

 

明治十一年、無事に商船学校を卒業した浅岡俊吾、郡寛四郎三菱会社に

汽船士官として採用された。この時、三菱会社で赤龍丸一等士官だったのが

旧会津藩士西郷寧太郎、同じく旧会津藩白虎隊士の江南哲夫(旧姓林)が

庶務課事務として勤務していた。明治十年十二月、三菱会社から西南ノ役の

功労として社員、石澤源四郎(百円旧会津藩士?)、西郷寧太郎(五十円)、

城取豊太郎(三十円、黄龍丸二等機械司、旧会津藩士?)、江南哲夫(二十五円)

などの社員に賞与金を渡している。

 

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