静岡県三島の「小浜のみち」から蓮馨寺に向かう。途中に源兵衛川の川辺に遊歩道があった。
源兵衛川は寿楽園にある小浜池を源流としている。広瀬橋より下流は農業用水のため人工的に作られた川で、十六世紀の室町時代に地元の有力者で、この工事に関わった寺尾源兵衛に由来すると言われている。この源兵衛川は国際かんがい排水委員会(ICID)の主催する「世界かんがい施設遺産」に平成二十八年に登録された。水の豊富な三島でかんがい施設と思ったら、水源が富士山からの冷たい伏流水であり、農業用水として利用できるよう水路幅を広く、水深を浅くして太陽光で水温を上昇させるための灌漑用水路だという。この川の水量は寿楽園の小浜池の水位と連動しており、小浜池の満水時(150cm)には踏み石が完全に水没してしまう事があるという。鎌倉古道を少し歩き、蓮馨寺(れんけいじ)へ裏門の方から入る。
豆州志稿に「君澤山蓮馨寺 浄土宗、本尊阿弥陀、享禄天文年間(1529~1554)の間、明誉上人建つ」とある。山門内側に、芭蕉の供養塔が在った。
この碑は安永七年(1778)、芭蕉の顕彰に努めた松木乙児(別号六花庵)の門生陶官鼠(すえかんそ)によって建てられた。この碑の下に芭蕉の遺髪が納められているという。
山門の前に唯念六字名号塔があった。
門前でちょうど暖簾を出していた「登喜和」という店でお弁当とお刺身で昼食をとる。
伊豆箱根駿豆線の三島広小路駅の反対側のある林光寺まで約600m、徒歩で約10分位の所だったが、食事の後だったので嫌になるほど遠く感じた。
三島の林光寺は摂取山西照院と号し、知恩院末の浄土宗のお寺です。寺によると、開山は閑蓮社泰誉故信大和尚で、俗姓武田信景(武田信玄子)で元和七年(1621)八十歳寂とし、弘治三年(1557)、山梨国坂の帰命院笈往上人より得度し「故信」と称し、永禄九年(1566)、遠江相良の林光寺に住み、のち天正二年(1574)、念仏説教のため三島に留まり、天正五年、三島に一宇を建立、遠州山梨の寺号を移しという。一説に故信上人は晩年、甲州酒折東光寺村如来寺帰命院に住いたとも言われているとあった。甲斐国誌によれば、帰命院開山生蓮社笈住(教安寺五世)慶長元年(1596)寂、二世故信上人(或人云、豆州三島ノ林光寺ニ住セシコトアリ、故ニカノ所ニハ勝頼ノ子也、従ウ所ノ土人今其胤ト云傳ル者アリ)。有識の僧にて世人の渇仲あり、幡隋意白道の法友なりとあり、「豆州志稿」には、故信上人、武田勝頼庶子と相傳うとある。甲州加来寺の点鬼簿(過去帳)に故信は遠州相良の人、父を月光道秀と曰う。甲州酒折の帰命院笈往親和上人の弟子と為し、笈往往唱滅す,故信第二世と為る。あと寺を東光村に遷し加来寺帰命院と称したとある。本堂の屋根に武田菱の寺紋があった。
境内に信玄の長子義信の子で豆州上沢に蟄居し天正八年(1585)元服した神澤太郎左衛門尉義発の墓があった。
元和三年(1617)、六十一歳で卆したと云う。神澤家の墓域は中央に還空院殿正誉覚心大居士・当氏大祖太郎左衛門尉義発墓とあり、墓碑に、同妻 游蓮院貞誉浄圓大姉・近藤長左衛門尉祐富ノ娘 縁とあった。林光寺の由来には浄園大姉、名は緑とあったが、園は圓の間違い、緑は訓読みでは三字で女性の名としては珍しく思い、鮮明に撮れなかったので墓碑の写真を加工した。ハッキリしなかったが訓読みの二字、縁(えん)ではないだろうか。機会があったら再度、林光寺を訪ねてみたい。
本堂前に木食観正碑(左)、徳本六字名号塔(右)、
山門近くに唯念六字名号塔(左)、利剣名号塔(右)があった。
静岡の三島駅北口から真北約1.5kにある耳石神社にいった。
耳石神社は幸原地区の氏神で祭神は国狭槌尊、三嶋大社西側を北に甲州に向かう佐野街道の三島幸原より裾野伊豆島田に至る旧道に面し、耳病を治す神社として古くから知られている。
社殿の左右に石が置かれていて、向かって左側が古くからある耳石で、右側の石はバランスを取るために祀られ、三島の七石と呼ばれる石の一つだという。耳石はかなり大きな石で、富士山の爆発で飛んできたのだろうか。この神社には唯念の六字名号を探しに来た。本殿の後ろに馬頭観音を始め色々な石仏や墓石が並んでいた。
唯念六字名号塔
覚誉上人碑があった。
右 小田原の誓願寺本堂横の寛文五年(1665)建立の笠付行蓮社覚誉上人名号塔
石仏は明治になってからの神社合祀により一か所に集められたのだろうか。神社の鳥居に変わったしめ縄がかかっていた。棒状のしめ縄を初めてみた。耳石にかけてあったしめ縄は普通のヨリ(左綯い)で作ってあった。
境内に枯れたような大きな幹のスダジイの御神木があった。
御神木に静岡県神社庁の認定証の発行があるとは知らなかった。
三島駅に戻り、北口にあるという木食観正碑を探す。駅前にそれらしき碑はなかったが、google地図に、新幹線沿い約300m西側に小浜山刑場供養碑とあり、刑務所の塀沿いの道みたいな所を進むと四基の石碑があった。
右から南無妙法蓮華経(王澤日遥?)の題目塔、名号塔、妙法蓮華経碑、木食観正碑
市の説明に「「この石碑は、江戸時代三島代官所小浜山刑場で斬首の刑を執行したところに建てられていた供養碑である。刑場は宝暦九年、韮山代官所の併合の後も幕末に至るまでそのまま使用され、その後は葬祭場ができるまで火葬場としてその姿をとどめていた。供養碑は昭和四四年東海道新幹線三島駅の建設現場に当たり現在地に移転したものである。なお、旧位置は南方約40mの新幹線下り走行線付近と推定される」とあり、処刑場は幕末まで使用され、明治に入って跡地は一時期火葬場として使用されたという。木食観正は天明四年(1784)、三十歳で剃髪して仏門に入り、雨乞い、火伏せ、病気平癒などの、庶民の現世利益の要求に応える加持祈祷の行で、多くの信者を集めた。木食観正が三島に滞在したのは、文政二年(1819)の事だという。小浜山刑場の供養碑として木食観正碑が元から在ったのだろうか。
小浜山は富士山噴火の時、流れ出た溶岩流の末端の高まり部分で、三島駅の南側にある旧小松宮彰仁親王別邸の所有者が転々とした後、三島市が購入、公園となっている楽寿園から北口の三島北高校付近までを小浜山と言ったという。楽寿園の中に江戸時代に完成した数奇屋造りの様式を備え、京風建築のすぐれた手法を現在に伝える明治期の代表的な建造物の楽寿館がある。以前にこの建物の中で家人が敷居に足を突っ掛け、国宝級の襖を破きそうになって、冷や汗をかいた。しばらくの間、三島には立ち寄らなかった。楽寿園の南側、「小浜のみち」通りにある木食観正之碑を訪ねた。
昭和四十八年とある木食観正上人碑護持会の説明板に「過ぐる日偶然一部壊れた碑を発見、茲に、有志相計って再建安置し云々」とある。惜しいのは、何時、何所で、どのようにして見つけたのか、何も表示されていないのが残念だった。
JR大船駅から県道302号(小袋谷藤沢線)をバスで約10分、久成寺前バス停のすぐ後ろ脇道に入ると、正面に階段が見える。この石段の上に二伝寺がある。この石段、標高差15mほどだが、えらく急に見える。
新編相模風土記稿によると、二伝寺は峯渡内のなかにあり、号は戒法山宝国院、浄土宗鎌倉光明寺末で開山は正空、永正二年(1505)の創建で開基は玉縄城主北條左馬助氏時(法号大虚院了翁宗達)、御分国(徳川幕府)の後松平甚左衛門正次中興す、とある。長沢松平家庶流の松平正次は相模国玉縄藩初代藩主となった大河内秀綱の次男正綱の養父で、天正十八年(1560)、御打入の時正次は城廻の西南に宅地(三千四百坪余)を賜った。玉縄之屋敷権現様関東御入国之節、御杖先にて拝領したと伝わる。この松平正次一家の墓が二伝寺にある。本堂に向かって右側、墓地に入って直ぐの所に五基の宝篋印塔、向かって右から松平正次(徳祥院)、正次室(松聲院)、正次子正吉(成松院)、正次三男新吉(真松院)、正吉子新兵衛(是真院)が一列に並んでいた。
庫裏(客殿)脇の回廊の下を潜り少し進むと左に塚入口の石標があり小径を登ると手前に忠通公塚、良文公塚、奥に忠正公塚の石柱があり、それぞれ五輪塔があった。
新編相模国風土記稿に「各峯渡内分内にあり、一は良文塚(高五尺、方二間半許、塚の上に松二株あり云々)、一は忠光塚(高二尺五寸、方一間半、塚上に桜樹あり、忠光は良文の子と傳ふれど、系図等所見なし、一は忠道塚(高四尺五寸、方二間半許、塚上に古榊あり云々)と称す)とある。これらの塚が二伝寺になぜあるのか分からなかったが、入口にある村岡郷土研究会の「村岡五郎平良文公墓前碑」記載の桓武平氏系図には良文の子として忠輔、忠頼、忠光とあり、忠光のあと忠通と続き、忠通の子として為通、景通、景成、景村が記載してあった。
二伝寺から県道302号を挟んで北側にあるのが久成寺で場所は鎌倉市植木になる。
昔、高谷、小塚、宮ノ前、弥勒寺、渡内の五村一区で村岡郷に属していたが、寛永中に分村し、高谷、小塚、宮ノ前、弥勒寺四村は山之内庄に属し、渡内村のみ西見庄に属し、各村犬牙の地有り細かく弁別しがたいという。犬牙の地とは、犬の牙が入りくんでいるように、土地の境などが互いに入りくんでいるさまを云うとあった。久成寺には長尾定景一族と伝わる墓が本堂の横にあった。傍に「上杉謙信公祖 長尾定景一族羣墖」の石碑がある。
三代将軍源実朝を暗殺した公暁の討手の一人が長尾新六定景。東鑑に「各相議之処、義村、令撰勇敢之 器差長尾新六定景於討手定景、遂〈雪下合戦後、向義村宅〉不能辞退、起座、着黒皮威甲、相具雑賀次郎〈西国住人、強力者也〉 以下郎従五人、赴于阿闍梨在所、備中阿闍梨宅之刻」とある。定景の子景茂一族は宝治合戦で北條一族との壮絶な戦いで自刃している。はっきりしないが、定景が法華経の持経者だったと伝わり、この石塔群は長尾氏の拠点だった長尾台の陣場跡から日蓮宗である久成寺に移されたものだという。羣墖とは群塔の異体字でわざわざ難しい字で刻まなくてもと思う。
駿河大納言忠長に仕えた松平甚右衛門正次の子甚之助新兵衛の内室の墓(妙秋院日種とその一族の祖霊供養のため松平甚之助久勝が元禄七年の建立)が本堂前にあった。夫、新兵衛(是真院)の墓のある二伝寺になぜ妻の墓を一緒にしなかったのだろうか。右)山門の傍にある忠魂碑
極楽寺の近くに上杉憲方墓と伝わる史跡があった。それでは上杉憲方の墓はどこにあるのかとおもったら、おなじ鎌倉の明月院にあるという。明月院はアジサイの季節に何度か訪れたが、上杉憲方の墓は気が付かなかった。
明月院の寺伝によると、永暦元年(1160)この地の武将で平治の乱で戦死した山内首藤俊通の菩提供養の為、俊通の子、山内首藤経俊によって明月院の前身の明月庵を創建したという。その約百年後の康元元年(1256)、鎌倉幕府五代執権北条時頼(最明寺道崇)によってこの地に最明寺を建立し、三十歳で出家、覚了房道崇と号し弘長三年(1263)三十七歳で卒去。後に時頼の子北条時宗によって最明寺を前身として福源山禅興仰聖禅寺を再興、康暦二年(1280)足利氏満が関東官領上杉憲方(明月院天樹道合)に禅興寺中興を命じ塔頭も配置した。この時、明月庵は明月院と改められ支院の首位においた。山内首藤経俊は奥会津の山ノ内一族の遠祖でもある。
総門を入って左側(北)が山ノ内上杉屋敷跡でその奥に五代執権北条時頼の廟所(最明寺崇公大禅定門)、その左奥の宝篋印塔が時頼の墓と伝えられている。
上杉憲方(道合)の墓は本堂左手の崖際にある開山堂(宗猷堂)の後ろのやぐらにあった。もっとも鎌倉公方九代記によると「上杉安房守入道道合は慶永元年(1394)、朝の露と諸共に消え行けるこそ哀れなり。空しき屍をば極楽寺に送りて草根一堆の塚の主となし、幡をたて卒塔婆を立て、形の如くの孝養をぞ営まれける」とある。そうすると明月院のやぐらにある上杉憲方墓は供養塔という事になるのだろうか。新編鎌倉志によると、この道合石塔の前に憲方の霊屋があったという。
この開山堂の横に鎌倉十井の一という瓶ノ井があった。同じく鎌倉十井の一という甘露ノ井がある浄智寺に向かう。「鎌倉幕府第五代執権北条時頼の三男で、弘安四年(1281)没した北条宗政の菩提を弔うため寺を起こし、宗政とその子師時を開基としたとおもわれる」とは浄智寺のパンフの説明。新編鎌倉志によれば「北条師時を浄智寺と号す、法名は道覚と云」とある。さらに甘露井は「開山塔の後に有清泉を云なり。門外左道端に、清水沸出づ。或は是をも甘露井と云なり」とあり、境内に湧出る清水が二ヶ所あったと思われる。現在の境内の様子は新編鎌倉志記載の浄智寺古図とはだいぶ異なってしまった。
今ある甘露ノ井は参道入口の石橋のほとりにある。建物は大正十二年の関東大震災でほとんど倒潰したという。昔、外門に掲げられていた円覚寺開山の無学祖元(諡仏光国師)の筆による「寶所在近」と同じ文字の額が掲げられた総門と、2007年に再建された鐘楼門には「山居幽勝」の額が掲げられていた。本堂曇華殿の御本尊は室町期作の木像三世仏坐像で県指定の重要文化財です。左から「阿弥陀・釈迦・弥勒」の各如来で、「過去・現在・ 未来」の時を象徴しているという。また、曇華殿後ろ側には鎌倉三十三観音霊の一つ観音菩薩像も祀られていた。
鎌倉の山際のほとんどのお寺には「やぐら」がある。浄智寺も墓地の奥と書院の脇に浅いやぐらがあった。
鎌倉江ノ電極楽寺駅を出た先に極楽寺切通と呼ばれる坂がある。
鎌倉攪勝考によれば、この道は鎌倉から京都に往還する本道で、ここを越えれば稲村に至り、七里ヶ浜を過ぎて腰越に至る。康元二年(1256)のころ北條重時、極楽寺創建により極楽寺の名も起こり、坂の名も極楽寺切通と唱えるも、東鑑に坂の名が見えないことから、建長より後の事なり、また元弘三年(1333)、新田義貞この道より鎌倉に乱入するという、されどもこの道は鎌倉開府の頃には、極楽寺切通の唱えなく、是は遥のちに開かれた、とある。
新編相模風土記稿(極楽寺中古絵図)
新編鎌倉誌(極楽寺図)、成就院は極楽寺の北側に描かれている。
かつての「極楽寺切通」は、現在の成就院山門前を寺とほぼ同じ高さの山道で、現在の15mほど掘り下げた切通は近世になってからだという。この切通の北側崖上に西方寺があったと思われる。西方寺の寺伝によれば、開山は東大寺別当勝賢僧正、建久年間(1190~)に鎌倉の笹目に補陀洛山安養院西方寺として創建、極楽寺の一山に移し、のちに極楽寺より横浜鶴見川の上流、新羽に移転したのは明応年間(1492~)の事と言われている。新編武蔵風土記稿都築郡新羽村の項に「西方寺ハ境内四段五畝御朱印地ノ内、村ノ中央ヨリ少ク北ニアリ、古義真言宗三會寺末補陀洛山ト號シ安養院ト称ス、開山ハ継眞永禄四年(1561)遷化ス、慶安二年ニ(1649)高六石七斗ヲ彌陀料トシテ賜ハレリ」と記されている。航空写真でみると極楽寺2丁目の西方寺跡の東側斜面に墓地があったので訪ねた。細い石段を登っていくと開けた場所に切通の反対側にある成就寺の墓域だった。
成就寺に向かう。このお寺は新編相模風土記稿に「普明山法立寺と号す、古義真言宗、手広村青蓮寺末(鎌倉手広)北條泰時開基すと云ふ、縁起に據に空海江島に錫を駐めし時此地に於て数日護摩供を修す、此時泰時高僧を請して承久元年(1219)一宇を建立し願成就院と称し大師護摩の霊場場なるを以て普明山と号す」とある。元弘三年(1333)、元弘の乱で新田義貞の鎌倉攻めに寺地を蹂躙され焼失、西ヶ谷に逃れ移り、「元禄年中(1688~)、現住祐尊が現旧地に往還し再興せり」という。西ヶ谷は西方寺の本寺青蓮寺の所在鎌倉手広にあり谷戸坂の切通近く。極楽寺村にあった西方寺の寺領は切通南側に及び、成就院の敷地は切通北側(現在は成就院墓地)にもある。現在は切通により飛び地になっているが成就院山門の前の細い山道だったという。
西方寺と成就院とは同じ古義真言宗のお寺で、隣り合わせだったことになる。鎌倉は平地の少ない所で、西方寺墓域と成就院墓域が隣り合わせに在ったかもしれない。成就院が元弘の乱の戦乱から鎌倉西ヶ谷に逃れたのが元弘三年(1333)だとしても、西ヶ谷から極楽寺まで谷戸坂切通、鎌倉山を越えて約4kしかない。極楽寺は鎌倉の埋葬地の一つ。元弘の乱の戦乱で西方寺と成就院の両寺が再建されるまで数百年かかっている。その間に寺の境目がより不明瞭になって、大正年間発掘の南部氏の五輪塔も他の西方寺跡から発掘された石塔と同じ地区なので西方寺跡からの発見と言われたのではないだろうか。成就院のご住職にお話を伺ったが、古い記録もなく盛岡南部氏との関係は分からないとのことだった。
成就院で管理している虚空蔵堂や、傍にある星月夜井を通って力餅家で力餅を買って帰る。
盛岡の聖寿寺にある南部家墓所の最上段の墓域に初代光行(雲樹院)、九代祐政(成就院殿)、十一代信長(源性院殿)、十二代政行(了智院殿)のあまり古さを感じさせない四基の墓石が一列に並んでいた。
始め、南部家の二代から八代までの墓は何所に在るのだろうと思ったが、十代茂時の墓は藤沢の游行寺に在ったのを思い出した。
寛政重修諸家譜によると九代祐政、十二代政行は成就院に葬る。十一代信長は源性院に葬るとある。明治後期に南部家初代光行から四十一代利恭までの知事職辞退までを編纂した「南部史要」によれば、十一代信長は南朝方の陸奥守北畠顕家に味方して、北朝方の高師直の軍と和泉国(大阪府堺市)石津の戦いでに敗れ、顕家と共に石津で戦死とも、陸奥に帰る途中で襲われ戦死ともいわれ、どこで亡くなったかはっきりしてないが、法号源性院殿天岩秀公、成就院に葬るとある。初代光行については、建保三年(1215)、鎌倉において薨ず、葬儀は甲州において行い、法号雲樹院昭山輝公と云う、とあり埋葬場所の記載はない。初代光行の墓が盛岡聖寿寺に何故あるのか、また寛政重修諸家譜記載の成就院とはどこにあったのか疑問に思う。
大正十年十一月十一日の岩手日報の記事に盛岡聖寿寺で南部家光行の墓前祭が行われたとあった。大正時代に鎌倉極楽寺付近の廃蹟された寺の跡地から、南部光行、祐政、信長、政行の墓と伝えられる五輪塔四基を原敬が息子に命じて聖寿寺に移設させたという。残念なことに、原敬は大正十年十一月四日、東京駅で中岡艮一に暗殺され、この墓前祭に参列することは出来なかった。五輪塔を発掘した畑の所有者の自宅は極楽寺の塔頭西方寺の跡だという。極楽寺古図に西方寺が描かれていた。地図で極楽寺切通を眺めていたら、極楽寺切通を挟んで、西方寺跡の反対側(南側)に成就院というお寺があるのを見つけた。聖寿も成就も似たような読み方でなにか関係があるのだろうか。
「Googleマップ」(鎌倉極楽寺界隈)
鎌倉の極楽寺に出掛けた。
江ノ電極楽寺駅を出ると、すぐ江ノ電唯一のトンネルで明治四十年(1907)の建設当時の原型を留めている「極楽洞」がある。古い極楽寺絵図に、このトンネルの小山の南側で、今の極楽寺切通との間に西方寺が描かれている(地図上L・m・ancienneの近辺)。極楽寺駅を出て、極楽寺切通の右側に上杉憲方墓があった。
「極楽寺門前ノ直路傍ノ畝地ニアリテ高サ九尺五寸ノ多重塔ナリ上杉憲方ノ墓ト傳フ傍ニ同形ノ塔及五輪塔数基アリ」国の史跡に指定されている。教育委員会説明に「この場所はかって西方寺と呼ばれる寺院の一角であった」とあり、「上杉憲方の墓と伝えられる安山岩製七重層塔1基を中心に、その妻の墓塔と伝えられる疑灰岩製層塔1基と、疑灰岩製五輪塔4基、その他五輪塔の残欠が散在する」、また「塔全体の形から、13世紀前半頃のものと推定される」という。この場所が西方寺の一角だったとすれば、西芳寺の寺領は切通の左右にまたがった広い土地だったことになる。
関東管領だった上杉憲方が亡くなったのが応永元年(1394)とすれば、南部光行の死より百八十年も後の話になる。上杉憲方墓の製作時期が13世紀前半頃のものとすれば、一世紀もの差があり、南部家の石塔は誰が建てた石塔なのだろうか。
鎌倉成就院に向かう。
伊豆修善寺にある源頼家墓所に誰が言い出したのか分からないが、若狭局とその子一幡のものだという墓があった。鎌倉の妙本寺に比企一族の墓所があるのを思い出して20年ぶりに訪ねた。JR鎌倉駅前若宮大路にある鎌倉郵便局の横の道を進み滑川に掛かる鎌倉十橋の一つ、夷堂橋(えびすどうばし)を渡ると髭題目や閻浮堤内本化最初霊窟と彫られた妙本寺の石塔が現れる。
Wikipediaに閻浮提(えんぶだい、サンスクリット語)とは、古代インドの世界観における人間が住む大陸だとあった。日蓮宗で,「南無妙法蓮華経」というお題目を,特殊な筆法で書いたものを言い、法を除くほかの六文字の筆端をひげのように長く走らせる書体で,万物が仏法の光明に照らされて,ことごとく真理の活動をなすことを表現するものだという。なにか山門を入るまでに疲れてしまう。
長興山妙本寺の場所は右大将頼朝の乳母比企尼の邸宅で、其甥比企能員に伝わり、頼家嫡男一幡の小御所及び源頼経御台所(頼家娘)の竹御所は皆この場所だったという。新編鎌倉誌に「妙本寺(附比企谷、比企能員跡、竹御所)、妙本寺は長興山と号す、日蓮説法始の寺也。相傳ふ、日蓮の俗弟子、比企大学三郎と云し人、建立す。日蓮在世の時、日朗に附属する故に、日朗を開山とす云々、此地を比企谷と云。比企判官能員が旧跡なり」さらに「頼朝の乳母、能員が姨母、武州比企郡を請所として居す。故に比企尼と号す。甥の能員を猶子として、共に此所に来居す。故に比企谷と云なり。能員が女は、若狭局と号して、頼家の妾にて、一幡君の母なり。故に能員、恩寵渥く、権威盛なりしが、北條家を亡さんと謀るに因て、建仁三年(1203)九月二日、北條時政が名越の亭にて誅せらる。一族此地にて悉く亡びたり」とある。建仁三年(1203)の翌年、元久元年(1204)七月十八日、北條は修禅寺に幽閉した源頼家を指殺している。比企大学三郎は法名を日学、号を能本という。日蓮聖人は比企能本の父・能員に「長興」、母・渋河氏に「妙本」の戒号を与え、三郎能本は文応元年(1260)、故御台所二十七回忌にあたり、御所を転じて法華堂とし、「長興山妙本寺」と名付けたという。総門を入り右手に方丈門があり、その奥の石段の上に蛇苦止堂がある。
ここは、比企一族を滅ぼした北条時政の子北条時村の娘に大蛇となって取りついた若狭局の霊を鎮めるため蛇苦止明神社を祀ったもの。蛇形曼荼羅より名付けたものか。
比企一族の墓所
五輪塔は前田利家側室寿福院(三代利常生母)の供養塔。
比企の変で、小御所の焼け跡から殺された一幡のものと思われる着物の袖が見つかり、それを弔った一幡袖塚がある。横に明治三十九年、池上本門寺六十八代貫首日亀上人篆額による「無垢證之碑」があった。
後で知ったが、応永二十九(1422)年妙本寺墓地左手の崖に上杉憲直に追われ、ここで自害した佐竹常元と男一人並びに家人十三人が討死した佐竹矢倉が残っているという。気が付かなかったのは残念だったが、ここにも修善寺の源氏山公園にあった十三士墓と同じ十三という数が出てきた。
帰り、夷堂のある妙厳山本覚寺に寄る。本覚寺は身延山から日蓮の遺骨を分骨したため東身延とも言われ、いま境内にある夷堂は鎌倉大蔵幕府政所の裏鬼門に鎮守として建てられたともいう。
地図を見ていたら近くに蛭子神社が在った。夷と蛭子、同じ呼び名かと思ったら、「ひるこ神社」というらしい。こんど訪ねてみようと思う。
江の島の北に片瀬山と称する南北に渡る丘陵がある。大雑把に云って、丘の東側が鎌倉市、西側が藤沢市になる。その丘の西側に藤澤宿から江の島に到る江嶋道が通っている。片瀬の密藏寺からスタートして本蓮寺、常立寺と廻った。
密藏寺は新編相模国風土記稿に「寶盛山藥師院と號す本寺前に同じ(古義真言宗手廣村青蓮寺末寺)開山は有辨徳治元年正月九日寂す中興は祐與天正五年十月六日寂すと云ふ、本尊は藥師なり」とある。本堂前に「愛染かつら」という名のついた小暮実千代が植えたという桂の木があった。「本尊愛染明王の境内にある桂の木に由来「愛染かつら」と称す」と木札にあった。
小暮実千代がまだ大学生の頃、この密藏寺でお芝居の合宿をして、その演技が松竹入社のきっかけとなったという。昭和32年4月、小暮実千代に頼んで本堂前に植えたという「桂の木」が大きくなっていた。
南に少し歩けば、関所みたいな大門(総門)の先に山門があるのが本蓮寺。
「瀧口山と號す(京本國寺末)、寺記に拠るに推古帝の三年義玄(高麗恵儀慈の弟子)、創建し後泰澄・弘法・慈覚等の高僧居住す、元暦中頼朝再建せしとなり、当時密教たりしが文永八年九月十二日、日蓮止宿ありし旧跡なるをもて嘉元中秀(中老僧)、改宗して再建せしとぞ」と風土記稿にあり、龍口寺輪番八ヵ寺(片瀬の本蓮寺、常立寺、腰越の本成寺、勧行寺、法源寺、津の東漸寺、本龍寺、妙典寺)の一つでもある。
本堂裏に多宝塔があった。
本蓮寺大門入口の右隣に松が植えられていて、「西行もどり松」と石標があった。
風土記稿に「土俗は戻松と呼べり、本蓮寺の門外大路の傍に在り、枝葉西方に指す、往昔西行此地に来たり都の方を見返り、此枝を取て西方に押ねげむけたり、故に此名ありと云ふ」とある。本蓮寺から常立寺に向かう途中に江の島弁財天道標がある。藤沢市教育委員会の説明板によると「この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。江の島弁財天道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術を、江の島で考案したという杉山検校が寄進したと伝えられて、現在市内外に十数基が確認され、そのうち市内の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。すべて頂部のとがった角柱型で、その多くが、正面の弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「二世安楽」と彫られています云々」、また「この道標の裏側には、「西行のもとり松」と刻まれています」とある。
十二基の道標のうち「西行のもとり松」と刻まれた道標はここだけだと言う。この道標が動かされていなければ、本蓮寺の寺域はこの辺まであったという事なのだろうか。西行と童との「夏枯れて冬ほき草を」といった類いの「もどり松、戻り橋」の伝承は、遊行僧が説話として各地に広めたのかもしれない。
庚申塚を過ぎると常立寺に着く。
ここも本蓮寺と同じ龍口寺輪番同宗八箇寺の一で號は瀧口山、風土記稿に「開山は日豪と云ふ(武州碑文谷法華寺七世)永正中、豪、日向利成生廃寺の旧池に就て開基し、今の寺山號に改め、当宗に属すと云ふ」とある。
文永十一年(1274)、蒙古襲来の(文永の役)翌年、建治元年(1275)、元が日本に派遣した使者杜世忠を八代執権北条時宗は龍ノ口で処刑した。常立寺境内に処刑された五人の埋葬地「誰姿森」を碑題として、法華題目供養碑を大正十四年、元使六百五十年記念会により建立されている。
消防片瀬分遣所の二又に「従是江嶋道、龍口道」の道しるべがあった。
「義経首洗井戸」から白幡神社に行く。
風土記稿に「白旗明神社、社を亀形山と呼ぶ、文治五年廷尉義経奥州にて敗死し、其首實撿の後此地に埋め、其霊を祀りて当所の鎮守とせしと云ふ、義経の首級腰越にて實撿ありし事、[東鑑]に見えたり」とある。
[我がすむ里]では、首実験のそのころ、「藤沢の河辺に金色なる亀、泥に染たる首を甲に負ひ、出たり、里人驚ろき怪しみけるほどに、側らにありける児童、忽ちに狂気のごとく肱を張、我ハ源の義経なり、薄命にして讒者の毒舌にかかり、身ハ奥州高舘の露と消るのみならず、首をさへ捨られて、怨魂やるかたなし、汝等、よきに弔らひくれよ、といひ終て倒れぬ、諸人恐れて、これを塚となせり、これより、鎌倉御所に於て義経の怨霊さまざまの崇りをなして、右大将を悩ます、これに依て、首塚の北の山上に社をいとなみ、神とし尊とみ御法楽ありける」という伝承を載せている。亀と云う語がこの辺りの地名や伝承、名前に多く出てくる。鶴といえば鶴岡八幡宮、亀といえば江島神社、慶安二年(1649)に仏教習合時の江島神社の号は金亀山与願寺、白旗神社に残る金色なる亀の伝承と江島神社の金亀山、なにか繋がりがあるのだろうか。
藤沢本町駅の西側に丘が在る。戦国武士の舘跡かと考えていたら、ここが藤沢市で第一号の都市公園として公園指定された伊勢山緑地で、なんでも昔、ここに伊勢神宮が祀られていたので伊勢山と呼ばれるようになったと云う。
麓から僅か38m(標高49m)しかない小山だが、東側の石段はきつそうなので、南側の道で頂上に向かう。前をパトカーの警察官が登っていて、さかんに竹林を覗いていた。筍を無断で採っていく輩が多いのだろう。山頂は広く見晴らしの良い公園となっており、慰霊碑や庚申供養塔・石碑が集められていた。
大正十二年(1923)の関東大震災の後、各地の慰霊碑・忠魂碑四基が伊勢山の山頂に移転された。白旗神社境内にあった西南戦争での戦没者十一名の慰霊碑「明治十年西征陣軍人之碑」、遊行寺境内にあった日清・日露戦争での戦・病死者七名の「忠魂碑」(川村景明書)、明治小学校にあった戦病死者十三名の慰霊碑「殉国勇士招魂碑」野村素介書))、鵠沼神明社にあった日露戦争戦死者七名の「明治卅七 八年戦役陣亡軍人之碑」周布公平書)があった。
公園の北東の角に庚申供養塔数基と北辰妙見大霊府神の石碑がある。
なかでもその一基は、承応二年(1653)の庚申供養塔(所有者:白旗神社)で藤沢市指定文化財となっている。北辰妙見の石碑は平成九年、伊勢山の南斜面で藤沢市教育委員会が発掘したものだという。
参考
吾妻鑑、
文治五年閏四月三十日の条、「今日、於陸奥国、泰衡襲源與州、是且任勅定且依二品仰也、豫州在民部少輔基成朝臣衣河館、泰衡従兵数百騎、馳至其所合戦、與州家人等雖相防、悉以敗潰、與州入持仏堂、先妻(廿二歳)、子(女子四歳)次自殺云々、また前伊豫守従五位下源朝臣義経(改義行また義顕、年三十一)」
同年六月十三日の条、「泰衡使者新田冠者高衡持参與州首於腰越浦、言上事由、仍為加實撿、遣和田太郎義盛、梶原平三景時等於彼所、各着甲直垂、相具甲冑郎従二十騎、件首納黒漆櫃、浸清美酒、高衡僕従二人荷擔之、昔蘇公者、自擔其獲、今高衡者、令人荷彼首、観者皆拭双涙濕両衫云々」
新編相模風土記稿に「八王子社 武蔵坊弁慶の首塚ありし所にて弁慶の霊を祀しと云う(塚は廃す)」、また「常光寺 八王山摂取院と号す、浄土宗(鎌倉光明寺末寺)元亀三年(1572)本寺二十七世明蓮社光誉建立して退隠の所とす」とある。弁慶が実在したかどうかは別にして、常光寺の西側にある八王子社跡に弁慶塚(供養塔?)があると云うので出かけた。
小田急藤沢本町駅から旧東海道を藤沢宿蒔田本陣の方へ10分位歩いて消防署の脇の道を入ると常光寺の山門に着く。山門に記念碑があった。何だと思ったら、明治五年藤澤警察署発祥の地だという。
藤沢市指定の文化財、庚申供養塔や「かながわ名木100選」に選ばれたカヤの木などが境内に残っている。
裏山の墓地には檀家さんしか入れないので、山門から西側のお寺を巻いている道に出て駐車場の手前の私道みたいな道を入ると「弁慶塚」の看板がある。石段を上がり、さらに左手の石段をあがると正面に弁慶塚が見えてくる。
また常光寺に戻り、美人で麦搗唄にも唄われたという藤沢の阿亀の墓を探す。文政十三庚寅年(1830)、相模州藤沢駅の小川泰二により編輯された[我がすむ里]によれば亀女の墓「常光寺の後山、卵塔場の中にあり、石碑にハ地蔵の立像を彫り、側らに寛文五年(1665)乙の巳九月十五日とあり」とある。亀女が出てくるという麦搗唄を探したが見つからなかった。理由は不明だが、いまは今井家の墓域の一角に移されていた。
消防署から100mほど駅の方に戻ると荘厳寺の入口がある。荘巌寺は[我がすむ里]によると、荘厳寺旧地は常光寺の西隣りにあり、元暦元年甲辰(1184)に開基。元文年間に火災で消失したが延享四年(1747)に荘厳寺が別当を務めていた白旗神社の隣に再建し旧地ハ只草堂一宇のミありという。明治八年(18751)神仏分離令のため現在地に移転した。本堂を掃除していたご住職に挨拶すると、本堂に安置してある源義経の位牌をみせてくれた。許可をもらって写真を撮らせてもらう。「笹竜胆紋に 白旗大明神 神儀」とあった。
白幡神社に向かう途中に「義経首洗井戸」がある。旧東海道(国道467号線)沿いの交番の脇から私道みたいな道の突当りに5・60坪位の公園なのか広場があり、その一角に義経首洗井と源義経公之首塚があった。
傍の説明に「源義経(鎌倉幕府の将軍源頼朝の弟)は、頼朝に追われて奥州(東北地方)に逃げていましたが、一一八九年(文治五年)に衣川(岩手県奥州市)で自害しました。腰越(鎌倉市)で首実検の後に浜に捨てられた義経の首は、潮に乗って川をさかのぼり、里人に拾われてこの井戸で清められたと伝えられています」とあり、首洗井戸の脇には「九郎尊神」と刻まれた石柱がある。義経公之首塚表の右側には武蔵坊辨慶之霊、左側には亀井坊・伊勢坊・片岡坊・駿河坊 各霊(亀井六郎重清・伊勢三郎義盛・片岡八郎経春・駿河次郎清重)とある。昔、白旗明神御旅所の傍に義経公の首を此処に埋メ塚とし、諸人群参して礼拝せし故にかく礼拝(ライハイ)塚と呼ばれたと伝わる。昔はここに松の大木あったが近年、枯して一名首塚と呼ぶと「我がすむ里」にあった。何故、義経公の首塚が義経首洗井戸の傍になったかその経緯が白幡神社のH・P、ホーム に詳細な記載があった。
史蹟 源義経公の首塚 (白旗神社のサイト)