大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

函館實行寺

2023-03-23 | 會津

箱館戦争での旧幕府軍戦死者の墓碑がある函館の實行寺を訪ねた。實行寺は明暦元年(1655)、僧清寛が草庵を結び、元禄三年(1690)、松前の日蓮宗法華寺の末寺となる。實行院と呼ばれていたが、正徳四年(1741)、京都本満寺から寺号を許可され院から寺になったと云う。日蓮宗實行寺を施主として旧幕府脱走軍戦死者の慰霊祭が碧血碑で行われるが、十三回忌にあたる明治十四年、現在地に移転した。


箱館戦争が終り、放置されていた旧幕府軍戦死者の遺体を實行寺住松尾日隆や柳川熊吉らが収容し埋葬した。明治十二年(1879)12月の大火で焼失。二年後の明治十四年に現在地へ移転している。墓域に通じる本堂左側に日向君招魂碑があり、次いで七基の墓が一列に並んでいる。この中に旧会津藩士諏訪常吉の墓があった。
諏訪常吉は松平容保の京都守護職時代の公用方勤で、戊辰の鳥羽伏見のあと、仙台で奥羽列藩同盟を進める最中、会津落城のため帰藩できず榎本艦隊に乗船、箱館で会津遊撃隊を組織し隊長となる。明治二年四月二十九日、矢不来で負傷、箱館病院に収容されたが、五月十六日死去した。墓石には、斗南旧藩 諏訪常吉墓、廣度院心常日歓居士とある。会津松平家の家名が再興されたのが明治二年十一月、「藩名之儀斗南ト相唱候様被仰出候」と藩名が斗南藩と決まったのが明治三年四月。廃藩置県で明治四年七月に斗南県となり、同年九月に青森県に編入され斗南県は消滅した。の諏訪常吉の墓はいつ建立されなぜ墓石に会津藩でなく斗南旧藩だったのだろうか。貴属の支給に関係があったのだろうか。箱館戦争に参加した旧幕府軍の人数もはっきりせず、まして正確な旧幕府軍戦死者数も分かっていない。明治四十年、殉難地と氏名を記載した「箱館之役戦没者霊位」とある榎本武揚が作成した「明治辰巳之役東軍戦没者過去帖」(五三八名分)と昭和三十四年、函館の郷土史家で会津藩士神山茂樹の孫、神山茂が整理作成した「箱館戦争幕軍陣歿者氏名考」(六百五十九名分)がある。この中で神山は實行寺に諏訪常吉の墓ありと記載した。これを見た郷土歴史家の三原直太郎が昭和五十年代に實行寺の四百基もある無縁墓の中から諏訪常吉の墓を探しだしたという。
本堂の裏山に続く参道の手前に澤田家の墓域に徳川義士戦死之霊墓がある。

箱館戦争で戦死した旧幕府軍八十二名の供養碑で旧斗南藩士澤田光長によって建立された。木村裕俊著「箱館戦争 新・戦没者名簿」によれば、戦死が確認され、戒名をつけ法要を行い過去帳に記入されたのが八十二名だったのではないかとしている。同書によれば函館各寺院の過去帳に残る「戒名」と「埋葬数」を合わせ、百三十八名だという。

勇誠院殿 明治十年七月□日死 俗名菊 行年七十四歳 旧斗南藩士澤田光長母
開拓使士族澤田光長建□
明治四十二年一月に亡くなった澤田光長の会津・斗南時代の足跡は全く不明ですが、明治三十年代には函館で鉱山業を営み、四十年代には土地建物賃貸業の巴座株式会社の大株主で監査役に就いている。辰野宗城、雑賀重村、中根 直などと同時期の開拓使官員録に青森出身の澤田彰善の名があり、明治二十二年北海道庁を非職になっている。澤田彰善と澤田光長は同一人ではないだろうか。

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函館山から山上大神宮

2023-03-17 | 

函館山へのロープウェイが法定整備点検のため動いていなかった。頂上へは、歩くか、車か、定期バスしかないという。夕方からは人気があるのでタクシーの手配も予約しないと大変だと言われた。結局タクシーを使うことにした。一番高い展望台のあるところが334mの御殿山といい、13の山の総称を函館山といい、牛が寝そべって居るように見えるので臥牛山(がぎゅうざん)とも呼んでいるという。そういえば、この山頂にある国土地理院の三等三角点の点名は函館で山がついていなかったが、標準地図には函館山と記載があり、正式にはなんという山なのだろうか。明治三十一年(1898)、露国侵攻に備えて函館山に要塞建設が始まり、この時に頂上を平に削ったため、標高が348mから334mと低くなったという。陸軍の砲台は4ケ所で榴弾砲射、臼砲、28センチ榴弾砲を備え、山全体を立入禁止とした。

山頂では二、三十人の幼稚園児が走り回っていた。その元気さに圧倒され、10分ほどで下界に戻る。山上大神宮は幸坂を上り切った突当りにある。


「山上大神宮は、社伝によると今から600年ほど前の応安年間(室町初期)、藤坊という修験者がこの地に渡来し、亀田赤川村神明山に草庵を結び、伊勢神宮の御靈をいただいたのが始まりと伝えられる。明暦元(1655)年5月、尻澤邉村(現在の住吉町)に移し、箱館神明宮と称したとも伝えられる。天和2(1682)年現在の西消防署弥生出張所付近に移転し、明治7(1874)年、社名をこの地の山之上町をとり山上大神宮と改称し、明治9(1874)年郷社となった。幕末の頃、当宮8代神職であった澤辺琢磨(旧名山本琢磨)は土佐藩士で、坂本龍馬、武市半平太とは親類関係にあった。また、箱館戦争の時、榎本武揚率いる旧幕府軍に加わった桑名藩主松平定敬の御座所にも使用されるなど、歴史的にも由緒ある神社である」と説明板にあった。
戊辰戦争で桑名藩の飛び地の越後柏崎から会津、仙台、箱館と移動した松平定敬が明治2年4月、上海に向かうまで約6ヶ月、この神宮を住居としたのかと思った。明治二年当時、山上大神宮は神明社と呼ばれていたという。明治九年の函館の絵地図に神明社の記載があった。
(明治九年の函館略図)

開拓使が明治九年から同十二年の間に租税のため、人名、坪数を記載した函館市街之図によると、近くの高龍寺が二千九百十九坪、神明社が千九十坪とあり旧社地はかなり大きかったことが分る。絵図の称名寺隣りが東本願寺掛所(浄玄寺)で今の弥生小学校で、明治九年七月の明治天皇巡幸の行在地となった。神明社跡地は現在、函館消防団活動拠点施設(弥生町15)となっていた。横の幸坂を上り切ったところにいまの山上大神宮がある。日本ハリストス正教会の日本最初の司祭となった沢辺琢磨が宮司を勤めていた神社を見たいというだけで訪ねた。坂道が長くてきつい。
ホテルに戻る途中に「ベルばら」に出てきそうな洋風建物があった。

修学旅行の生徒さんが大勢いたので入らなかったが、明治四十三年(1910)に建てられた明治洋風木造建築で、昭和四十九年(1974)に国の重要文化財に指定されている。函館の古い建築物はほとんど二階建て木造建築なので、明治四十三年にコロニアルスタイルの建物と外壁塗装の青灰色と黄色の色調にびっくりした。

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函館七面社脇戦死者墳墓地

2023-03-10 | 掃苔

グーグルマップで山上大神宮の場所を探していたら、神社の東側に史跡で「己巳役海軍戦死碑」があった。恥ずかしいが「己巳役」、なんと読むのか解らなかった。「己巳役(きしのえき)」とは、明治二年(1896)の箱館戦争の事だと云う。碑のある海軍墳墓地は市電「大町停留所」から函館で一番長い坂、弥生坂を約700m上った右側(案内板あり)奥にあった。墓地の標高約75m、平均すれば10度程度の坂だが、途中から急に角度がついて、スキーのジャンプ台を登るようで気持ちが萎える。この旧官修墓地はなんと呼ばれていたのか気になった。旧官修墳墓地はよく民博の研究報告「全国陸海軍罰墓地一覧」を参考にするが、函館の海軍墓地の記載はなかった。明治九年から同十三年までの公文書では、函館表戦死者墓地、函館七面社脇戦死者墳墓地、函館七面山海軍戦死者墳墓地といろいろあったが、明治十二年、海軍省から開拓使へ函館表戦死者墓地名称問合せに、開拓使は明治七年の地所名称区別により、海軍墳墓地として百二十五坪(縦十間、横十二間三尺)の図面を添付して回答としている。文政十二年(1829)奥州箱館之図に旧実行寺裏手の野道が七面山への道で、安政二年(1855)、箱館港市街地図の旧実行寺裏手に七面社の記載があった。


己巳役海軍戦死碑と追刻文
戦死碑の説明板があった。「ここは、明治2年(1869年)の箱館戦争で戦死した新政府海軍慰霊の墓所である。同年4月、討伐体制を整えた新政府軍は、旧幕府脱走軍に攻撃を開始し、5月11日箱館湾海戦で新政府軍軍艦「朝陽」は、旧幕府脱走軍軍艦「蟠龍」の砲弾を受けて沈没した。この石碑には、朝陽艦副艦長夏秋又之助以下73名の新政府軍海軍の戦死者名が刻まれている。建立年月は記されていないが、明治2年(1869年)に建立されたものと思われる。碑の石は、「高田屋の亀石」と呼ばれていた石の一部である。高田屋嘉兵衛全盛のころ、現宝来町に築かれた「高田屋御殿」と呼ばれた豪邸の庭園に据えられていたものである。嘉兵衛が、貧民救済の目的をかねて住吉浜の海中にあった2畳敷ほどの巨石を多数の人を動員して引き揚げさせたところ、亀に似ていたので亀石と呼ばれた。護國神社(青柳町)にある「海陸軍戦死人名」碑と「招魂場」碑も同じ亀石を割って作られたものであり、いずれも箱館戦争新政府軍戦没者を祀った記念碑である」。碑の左下に春日艦水夫上野太郎と追刻されている。
裏に追刻文があった。
余乗筑波艦航北海到函港也来吊此墓碑矣而碑中脱
春日艦水夫上野太郎姓名因茲追刻之於碑端
明治十六年十二月       伊東海軍少将誌
伊東祐麿海軍少将は元薩摩藩士で箱館戦争のとき、春日艦の副館長だったと云う。初代連合艦隊司令長官を務めた伊東祐亨は弟。
同じ墓地内に函館府在住隊の碑もあった。
 

「九名の姓名」と「明治二年龍集己巳五月十一日戦死于函港者也」とあり、箱館戦争の五月十一日の箱館網港海戦で沈没した朝陽艦中で戦死した函館府在住隊九名の姓名を石に刻したという。

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函館 護国神社と南部藩士墓地

2023-03-04 | 掃苔

函館の官修墳墓がある函館護国神社に行った。


社殿向かって右奥にある官修墳墓は、五十六基の墓碑が三列に並び、その後ろに海軍墓碑一基、戊辰薩藩戦死者墓一基、松前藩個人墓一基がある。海軍墓碑は篆額に「明治戊辰己巳海軍戦死者弔碑」とあり、甲鉄艦、朝陽艦、春日艦、飛龍艦各艦の戦死者名が刻まれている。新政府軍は箱館戦争が終った明治二年五月、市内大森浜で招魂祭を行い、現在地に兵部省により招魂社が創建された。昭和14年3月、内務省令により函館招魂社は函館護國神社と改称された。戦後、一時「函館潮見丘神社」と改称されたが、昭和29年11月、社号が函館護國神社に復した。

鳥居の近くに高田屋嘉兵衛の弟・金兵衛が公共工事として市民に海中から引き揚げさせの庭石としていた巨石「亀石」の一部だという招魂場の碑があった。
舟見町にある旧官修墓地に向かう途中、函館山ロープウェイ山麓駅前の坂道が南部坂と書いてあった。


坂をすこし下ると石垣があり、超モダンなモニュメントが見えたので何だと思ったら、NHKの放送記念碑だった。碑に「JOJO、VKVK」と書いてある。説明に「JOVK、こちらは函館放送局」、VK発祥の地だとある。見方が間違っていた。「JOVK」は函館無線局の識別符号(コールサイン)だという。ちなみに「JOAK」は、NHK東京ラジオ第一放送のコールサインだそうです。その横に南部藩陣屋跡の説明板があった。


寛政十一年(1799)、幕府は松前藩より蝦夷地の支配権を取り上げ、直轄地とし、南部藩と津軽藩に箱館守備を命じた。翌年、伊能忠敬が蝦夷地を測量している。文政四年(1821年)、幕府は蝦夷地の直轄をとき、松前藩に支配権を戻し、南部藩と津軽藩の警備兵を撤収させた。寛政年中より文政五年六月の箱館引払まで松前、箱館、蝦夷地等場所にて病死、溺死、海上往来での死者など多くの犠牲者をだした。藩主は箱館高龍寺にて供養を行うため志村善右衞門・久慈市右衞門を遣わし、沙門偉運が誌し、侍臣立花勝視書の石碑を建て、弔ったという。舟見町の延命山地蔵寺前の外人墓地の隣に南部藩士の墓地がある。説明板に「寛政11(1799)年幕府は東蝦夷地を直轄地(5年後には西蝦夷地も)としてその経営に乗り出し、蝦夷地の警備を南部・津軽の両藩に命じた。両藩はそれぞれ500名ほどの藩士を派遣して警備に当たることとなった。南部藩は元陣屋を箱館に置き、根室、国後、択捉に勤番所を設け、その任に就いた。その後、文政4(1821)年に蝦夷地は松前藩に返還されたため、両藩士たちはそれぞれ帰藩したが、安政元(1854)年に再び蝦夷地が幕府の直轄地となると、再び東北の諸藩に蝦夷地の警備と開拓が命じられた。南部藩は箱館から幌別(現登別市)までを担当、600余名が勤務していた。しかし、幕府が倒され明治新政府が誕生すると、箱館に箱館府が置かれて蝦夷地の経営を担当することとなり、東北諸藩の蝦夷地詰の人々は帰藩していった。この間、多くの南部藩士が事故や病気で異郷の地に倒れた。函館で弔われた人については明治39(1906)年から盛岡出身の有志で慰霊を続けてきたが、墓石や碑が散在し荒廃していくのを憂い、昭和12年にこの地に集めたものである。現在、この墓地には、12名の藩士が祀られている」とあった。天保五年(1833)、霊を祀り碑を建て供養したという高龍寺の南部藩士供養碑は見つけられなかった。

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