大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

相国寺塔頭大光明寺

2019-02-20 | 

御霊神社から特別拝観開催中の相国寺に向かう途中、柵のある史蹟みたいな所があり、覗いていたら、近所の人が扉をあけて入って大丈夫ですよと声を掛けてくれた。
 

中に入ると空井戸がある。「宗祖法然上人が、比叡山の黒谷青龍寺から京に下りて賀茂の河原屋に一時寄寓された。この場所は、今出川の釈迦堂、あるいは功徳院、また賀茂の神宮寺とも呼ばれていた。その付近に小池があり、法然上人がこの池の水を諸仏にお供養されたという。また、弟子の源智上人は、法然上人没後、ここに住して師の恩に酬い、恩を知る寺、すなわち「知恩寺」と改めた。現在の百万遍知恩寺の前身である」と浄土宗の説明板があった。
相国寺の北門横に工事中の学校があって看板に府立鴨沂高校とあったが、沂がまた見たことが無い字で工事中の人に聞いてしまった。京都弁で鴨沂は「おおき」なのか「おうき」なのかよく聞き取れなかったが、なんでも鴨川のほとりという意味だという。後で調べたら、この学校の前身は明治五年(1872)に開校した「新英学校及び女紅場」だと知って驚いた。この女紅場で権舎長となったのが同志社を設立した新島譲の妻となった山本覚馬の妹、山本八重で、そうと知っていたら学校の正門を写していたのにと後悔する。
 
相国寺の北入口から方丈に向かって両側に塔頭寺院が並んでいる。
 
殆どのお寺が特別拝観と称して特定の時期に拝観を許可している。
長徳院は山門から覗かしてもらった。その先に京都十三佛霊場第四番札所の寺院大光明寺がある。
 
 
 
札所なので御朱印を頂けると思ったが、山門から中を覗くと、なにか凛として入りにくかったが、脇戸が少し開いたので中に入り、御朱印をお願いして、お庭も見せて貰った。大光明寺は梵王山と号し、暦応二年(1339)、第九十三代後伏見天皇の女御で光厳・光明両天皇の生母、広義門院西園寺寧子(左大臣西園寺公衡娘)が夫の菩提を弔うために大光明寺を創建、開基は仏統国師(夢窓疎石)で、崇光天皇第一皇子栄仁親王が大光明寺に葬られ伏見宮の菩提寺となったという。豊臣秀吉の築城により相国寺山内に移転させられている。大光明寺跡地を崇光天皇陵とした。その後、大光明寺陵が築造され北朝第二代光明天皇、北朝第三代崇光天皇、後伏見天皇皇玄孫治仁王親が葬られている。大光明寺のお庭は、よけいなものを取り除いてスッキリした透明感のある小さな庭で、四季折々、どんな顔を見せてくれるのか通いたくなるようなお庭だった。
もう一寺、特別拝観時以外、境内に入れない相国寺塔頭瑞春院を山門から覗かしてもらった。
 
 
「直木賞受賞の名作「雁の寺」の舞台として有名であり、作者の水上勉氏が雛僧時代を過ごした禅院である」という説明が無ければ通り過ぎるところだった。思わず覗いた表庭に蕗と百日紅の樹を探してしまった。「雁の寺」は小説なのでフィクションなのは当然としても、幼年時代の生立ち、厳しい修行から培われてくる屈折した怨念はとてもフィクションとは思えなった。

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京都 御霊神社

2019-02-13 | 

御霊神社(上御霊神社)の鳥居前に応仁の乱勃発地の石標があった。
 
 
応仁の乱は「応仁元(1467)年,管領畠山・斯波両家の家督争いと将軍足利義政の後継問題に端を発した戦乱で,文明十一(1477)年まで十一年間続いた。応仁元(1467)年正月十八日におこった上御霊社の戦場地に建つこの石標は,応仁の乱勃発を示すものである」という。会津では先の戦と云うと戊辰戦争を指すと言うが、京都では先の戦と云うと応仁の乱を指すと聞いた事が有ったが、ある大学の資料室で年配の職員と家系の話をしていて、先の戦の後にという言葉が出てくるので、念のため、どの戦の後か聞いてみたら、応仁の乱だと言う。都市伝説かと思っていたら、応仁の乱が先の戦として話す京都人に初めて会った。京都人にとって、応仁の乱でというのが古さを誇る一種のステータスなのだろうか。
  
鳥居の脇に京都市の御霊神社の説明板があった。「祭神として崇道天皇(早良親王)、吉備真備、橘逸勢、をはじめ、十三柱の神霊を祀る。この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安京遷都(七九四)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として奈良時代・平安時代初期に不運のうちに亡くなった八柱の神霊が祭られたといわれ、その後、明治天皇の御願により祭神五柱が増祀され、現在に至っている」とあった。
 
 
祭られたといわれる八柱の神霊が誰なのかよく判らなかったが、京都府神社庁によれば、御霊神社は六所の荒魂と火雷神と吉備聖霊を併祭し本社八座としたとある。六所の荒魂とは延暦十三年(794)、崇道天皇の神霊を現今の社地に祀り、其後、井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫の神霊を合祀し、貞観五年(863)、神泉苑に六座の神座を設け悪疫退散の御霊会を勅修され、当社御祭神を勅祭したのが始めで、後更に以上六所の荒魂に火雷神と吉備聖霊とを併祭されるに至ったとある。怨霊を鎮めるための「御霊会」がいつ始まったか分からないが、貞観五年(863)、朝廷により行われた神泉苑での「御霊会」は三代実録によれば、崇道天皇、伊代親王、藤原夫人、及観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂と具体的には五名が御霊と記されている。
 
 
 
 
明治二十年発行の「京都名所案内図会」には、早良親王、伊代親王、文大夫、橘逸勢、藤原大夫人、藤原広嗣、吉備大臣、火雷神を上御霊神社の祭神八所としていて、京都府神社庁にある井上内親王、他戸親王は記載されていない。伊代親王、藤原広嗣は下御霊神社の祭神としているが、上御霊神社と下御霊神社の八所御霊は異なる。この上・下の両御霊神社の関係がよく判らない。御霊神社は天智系と天武系の争い、また皇位継承や藤原氏諸流での権力闘争で争いに敗れ、非業の最期を遂げた人の怨霊を鎮めるための神社で、貴族階級の怨霊を鎮める「御霊会」と一般大衆階級の厄病を鎮める「御霊会」とは区別があるように感じる。
 
境内に、元禄三年(1690)松尾芭蕉が洛御霊訪法印(洛の御霊別当景桃丸)を訪ねて年忘歌仙を行った。その時詠んだと思われる句碑があった。「半日は神を友にや年忘れ」
 

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下醍醐

2019-02-06 | 

醍醐寺の総門を潜った瞬間、このお寺は広いなと思った。一直線の桜馬場の先の西大門(仁王門)までかなり距離がある。事実、京都の寺境内地処分地積(譲渡)では仁和寺(十四万九千坪)に次いで、十一万一千坪とこの2寺が群を抜いている。勧修寺から随心院、三宝院と廻って昼、近くになった。醐山料理があるという雨月茶屋で食事をとってから仁王門に向かう。
  
 
醍醐寺の説明によると、山科盆地の東側、笠取の山頂にかけての広大な地域に位置し、山頂一帯を「上醍醐」山裾を「下醍醐」と称している。醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山で山号は深雪山、空海の孫弟子理源大師聖宝が醍醐山上に草庵を営んだのに始まる。醍醐寺という一宇の寺があるのではなく一山の総称で、堂宇は山上と山下に分れ、上醍醐、下醍醐という。山号の深雪山は醍醐の花見で秀吉が詠んだ歌から採ったと言うが本当だろうか。現存する堂宇のほとんどは桃山時代以降のものだが、国宝の五重塔は天暦六年(952)の建立で、府内最古の木造建築物だという。現在、平成30年の台風21号の影響により、上醍醐への入山を禁止しているという。残念というより、これ以上、歩かないで済むかと思うとホットする。
国宝 金堂
 
不動堂
 
祖師堂と日月門
 
右)観音堂
 
 
国宝 五重塔       右)清瀧宮拝殿
 
左)清瀧宮本殿
 
 
山城国宇治郡笠取山にある醍醐寺は聖宝僧正が多年、各地の名山を訪ねたが令法久住の地は得られなかった。普明寺で佛法相応の霊地を求め七箇日間の祈願したところ、笠取山の峰に五色の雲が現れた。この峰を登った所、故郷に帰ったようになり、精舎建立を望んだとき、突然一人の老翁が現れ、泉水を汲んで醍醐味と褒めた。僧正は精舎建立の志を述べた。老翁は「此の山は古より佛練の場所で、諸天衛護の名神の居る所也、伽藍を建立すれば、法燈永く龍華の開く時迄も栄えるだろう。我は此山の地主横尾明神である。仏法を広く伝え、人々を救うのであれば我共に衛護す。云々」と告げて消えたと醍醐寺縁起にある。この醍醐味が醍醐寺の名の由来になったと伝えられている。五色とは何色かと思ったら基本、青・黄・赤・白・黒(樺)の五色(ごしき)で、仏教では如来の精神や智慧を五色で表すとのこと。陰陽五行では木は緑、火は赤、土は黄、金は白、水は黒。五行の色でいうと、北=水(黒)、東=木(緑)、南=火(赤)、西=金(白)、中央=土(黄)だという。五色の雲とはどんな色をしているのだろうと思っていたら、先日、いろいろな色が混ざると灰色に見えるとNHKの番組で放送していた。聖宝僧正が見たのは灰色の雲だったなんて言えば怒られそう。
醍醐寺近辺では食事ができる場所が極端に少ない。醍醐寺境内に昭和4年に宮内省より下賜され、京都御所より移築した建物を利用した「醐山料理 恩賜館」があった。
 
1日30膳までの限定の旬の京野菜をたっぷり使って、彩りも豊かに盛り付け、醍醐寺の伝統料理をもとに創り出された醐山料理の数々をぜひご堪能くださいという醍醐の四季「一味膳」(二段)を予約したかったが、12月はすべて×印、予約は4ヶ月前から出来るので、かなり混んでいるかと思い、隣の雨月茶屋に行く。
 
「一味膳」(一段)しかメニュウーに無いのかと思ったら二段の「一味膳」も出来るという。店の人に恩賜館が予約出来なかったと話をしたら、怪訝な顔をしていた。恩賜館は団体客や個人客が少ない季節は閉館している様だった。

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