大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

鎌倉 成就院

2019-10-30 | 東海道沿線

鎌倉江ノ電極楽寺駅を出た先に極楽寺切通と呼ばれる坂がある。
 
鎌倉攪勝考によれば、この道は鎌倉から京都に往還する本道で、ここを越えれば稲村に至り、七里ヶ浜を過ぎて腰越に至る。康元二年(1256)のころ北條重時、極楽寺創建により極楽寺の名も起こり、坂の名も極楽寺切通と唱えるも、東鑑に坂の名が見えないことから、建長より後の事なり、また元弘三年(1333)、新田義貞この道より鎌倉に乱入するという、されどもこの道は鎌倉開府の頃には、極楽寺切通の唱えなく、是は遥のちに開かれた、とある。
新編相模風土記稿(極楽寺中古絵図)

新編鎌倉誌(極楽寺図)、成就院は極楽寺の北側に描かれている。

かつての「極楽寺切通」は、現在の成就院山門前を寺とほぼ同じ高さの山道で、現在の15mほど掘り下げた切通は近世になってからだという。この切通の北側崖上に西方寺があったと思われる。西方寺の寺伝によれば、開山は東大寺別当勝賢僧正、建久年間(1190~)に鎌倉の笹目に補陀洛山安養院西方寺として創建、極楽寺の一山に移し、のちに極楽寺より横浜鶴見川の上流、新羽に移転したのは明応年間(1492~)の事と言われている。新編武蔵風土記稿都築郡新羽村の項に「西方寺ハ境内四段五畝御朱印地ノ内、村ノ中央ヨリ少ク北ニアリ、古義真言宗三會寺末補陀洛山ト號シ安養院ト称ス、開山ハ継眞永禄四年(1561)遷化ス、慶安二年ニ(1649)高六石七斗ヲ彌陀料トシテ賜ハレリ」と記されている。航空写真でみると極楽寺2丁目の西方寺跡の東側斜面に墓地があったので訪ねた。細い石段を登っていくと開けた場所に切通の反対側にある成就寺の墓域だった。
 
成就寺に向かう。このお寺は新編相模風土記稿に「普明山法立寺と号す、古義真言宗、手広村青蓮寺末(鎌倉手広)北條泰時開基すと云ふ、縁起に據に空海江島に錫を駐めし時此地に於て数日護摩供を修す、此時泰時高僧を請して承久元年(1219)一宇を建立し願成就院と称し大師護摩の霊場場なるを以て普明山と号す」とある。元弘三年(1333)、元弘の乱で新田義貞の鎌倉攻めに寺地を蹂躙され焼失、西ヶ谷に逃れ移り、「元禄年中(1688~)、現住祐尊が現旧地に往還し再興せり」という。西ヶ谷は西方寺の本寺青蓮寺の所在鎌倉手広にあり谷戸坂の切通近く。極楽寺村にあった西方寺の寺領は切通南側に及び、成就院の敷地は切通北側(現在は成就院墓地)にもある。現在は切通により飛び地になっているが成就院山門の前の細い山道だったという。
 
 
 
西方寺と成就院とは同じ古義真言宗のお寺で、隣り合わせだったことになる。鎌倉は平地の少ない所で、西方寺墓域と成就院墓域が隣り合わせに在ったかもしれない。成就院が元弘の乱の戦乱から鎌倉西ヶ谷に逃れたのが元弘三年(1333)だとしても、西ヶ谷から極楽寺まで谷戸坂切通、鎌倉山を越えて約4kしかない。極楽寺は鎌倉の埋葬地の一つ。元弘の乱の戦乱で西方寺と成就院の両寺が再建されるまで数百年かかっている。その間に寺の境目がより不明瞭になって、大正年間発掘の南部氏の五輪塔も他の西方寺跡から発掘された石塔と同じ地区なので西方寺跡からの発見と言われたのではないだろうか。成就院のご住職にお話を伺ったが、古い記録もなく盛岡南部氏との関係は分からないとのことだった。
 
 
 
成就院で管理している虚空蔵堂や、傍にある星月夜井を通って力餅家で力餅を買って帰る。

 

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鎌倉 西方寺跡

2019-10-23 | 東海道沿線

盛岡の聖寿寺にある南部家墓所の最上段の墓域に初代光行(雲樹院)、九代祐政(成就院殿)、十一代信長(源性院殿)、十二代政行(了智院殿)のあまり古さを感じさせない四基の墓石が一列に並んでいた。
 
始め、南部家の二代から八代までの墓は何所に在るのだろうと思ったが、十代茂時の墓は藤沢の游行寺に在ったのを思い出した。
  
寛政重修諸家譜によると九代祐政、十二代政行は成就院に葬る。十一代信長は源性院に葬るとある。明治後期に南部家初代光行から四十一代利恭までの知事職辞退までを編纂した「南部史要」によれば、十一代信長は南朝方の陸奥守北畠顕家に味方して、北朝方の高師直の軍と和泉国(大阪府堺市)石津の戦いでに敗れ、顕家と共に石津で戦死とも、陸奥に帰る途中で襲われ戦死ともいわれ、どこで亡くなったかはっきりしてないが、法号源性院殿天岩秀公、成就院に葬るとある。初代光行については、建保三年(1215)、鎌倉において薨ず、葬儀は甲州において行い、法号雲樹院昭山輝公と云う、とあり埋葬場所の記載はない。初代光行の墓が盛岡聖寿寺に何故あるのか、また寛政重修諸家譜記載の成就院とはどこにあったのか疑問に思う。

大正十年十一月十一日の岩手日報の記事に盛岡聖寿寺で南部家光行の墓前祭が行われたとあった。大正時代に鎌倉極楽寺付近の廃蹟された寺の跡地から、南部光行、祐政、信長、政行の墓と伝えられる五輪塔四基を原敬が息子に命じて聖寿寺に移設させたという。残念なことに、原敬は大正十年十一月四日、東京駅で中岡艮一に暗殺され、この墓前祭に参列することは出来なかった。五輪塔を発掘した畑の所有者の自宅は極楽寺の塔頭西方寺の跡だという。極楽寺古図に西方寺が描かれていた。地図で極楽寺切通を眺めていたら、極楽寺切通を挟んで、西方寺跡の反対側(南側)に成就院というお寺があるのを見つけた。聖寿も成就も似たような読み方でなにか関係があるのだろうか。
「Googleマップ」(鎌倉極楽寺界隈)
鎌倉の極楽寺に出掛けた。
 

 
江ノ電極楽寺駅を出ると、すぐ江ノ電唯一のトンネルで明治四十年(1907)の建設当時の原型を留めている「極楽洞」がある。古い極楽寺絵図に、このトンネルの小山の南側で、今の極楽寺切通との間に西方寺が描かれている(地図上L・m・ancienneの近辺)。極楽寺駅を出て、極楽寺切通の右側に上杉憲方墓があった。
 
「極楽寺門前ノ直路傍ノ畝地ニアリテ高サ九尺五寸ノ多重塔ナリ上杉憲方ノ墓ト傳フ傍ニ同形ノ塔及五輪塔数基アリ」国の史跡に指定されている。教育委員会説明に「この場所はかって西方寺と呼ばれる寺院の一角であった」とあり、「上杉憲方の墓と伝えられる安山岩製七重層塔1基を中心に、その妻の墓塔と伝えられる疑灰岩製層塔1基と、疑灰岩製五輪塔4基、その他五輪塔の残欠が散在する」、また「塔全体の形から、13世紀前半頃のものと推定される」という。この場所が西方寺の一角だったとすれば、西芳寺の寺領は切通の左右にまたがった広い土地だったことになる。
 
 
関東管領だった上杉憲方が亡くなったのが応永元年(1394)とすれば、南部光行の死より百八十年も後の話になる。上杉憲方墓の製作時期が13世紀前半頃のものとすれば、一世紀もの差があり、南部家の石塔は誰が建てた石塔なのだろうか。

鎌倉成就院に向かう。

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陸奥湊 生ウニ丼

2019-10-16 | 

昨年と同じ夏の時期に八戸に行った。昨年は八戸で4,5軒の店で生ウニを食べた。その中で、断トツに美味しかったのが、最終日に訪れた陸奥湊駅まえの食堂の生ウニ丼だった。帰りの新幹線の時間を気にしながらの食事が残念だったので、今回は八戸に着いて、すぐ陸奥湊の店にいった。
昼前だったので外で5,6人並んでいた。ここ10年くらい、食事をするのに並んだ記憶がなかったが、生ウニ丼が本日のメイン行事だったので20分ぐらい待って店に入った。店の中でさらに二組ほど待っている人がいたのでビックリした。
昨年、同じ食堂で食べたウニ丼とヤリイカ
 
今回も昨年と全く同じ、生ウニ丼とヤリイカの刺身を注文した。
 
小鉢と生ウニ丼の上にホタテが載って出てきた。頼んだのは生ウニ丼で生ウニホタテ丼ではなかったが、店が混んでいたのでそのまま食べる。入っていた生ウニの半分は美味しかったが、半分は色は良かったが、アンモニア臭がする鮮度の古い生ウニが入っていた。街中の飲食店なら古い生ウニでもしょうがないと思うが、全国屈指のウニの漁獲量を誇る八戸でアンモニア臭のするウニには、昨年より値段も高くなっていてよけい、ガッカリした。外国産のウニでも使っているのだろうか。後で知ったが、陸奥湊の漁協は定置網・トロールが中心でウニ漁はもう少し離れた魚協だった。通販で生ウニや焼きウニを買っている岩手のある漁協では今年の生ウニは7月4日より販売開始し7月22日の短期間で販売終了してしまった。天候不順の影響が強かったのだろう。もう八戸では美味いウニは無理なのかと思いながら、陸奥湊駅前の八戸市営魚菜小売市場を覗こうと思ったが、表からみても観光客は誰一人としておらず、店番のおばちゃん達が、獲物がこないかと手ぐすね引いて待っている様子なので、通り過ぎると、反対側に近江市場と書かれ、崩れかかったような建物の入口にウニを並べている店が一軒あった。
 
 
 
 
「磯辺うに店」という店で、八戸産ではなくて、三陸産100%というのが正直でいい。因みに三陸海岸と云うのはウィキペディアによると「青森県南東部の鮫角(八戸市)から岩手県沿岸を経て宮城県東部の万石浦(石巻市)まで、総延長600km余りの海岸」を云うらしい。いかにも「イサバのカッチャ」と呼ばれていそうなオバちゃんが中央にデンと座って、同じようなオバちゃんたちが話をしていた。生ウニのパックは1つ4千円前後、その日によって相場が動くという。この日は陸奥湊駅近くの食堂の生ウニホタテ丼と同じ値段だった。焼きウニとパックに入った生ウニを買ってホテルで食べた。
 
美味かったのでまた店を訪ねた。宅急便で翌日には届くと言うので旅行から戻ったら届く様に期日指定で生ウニを頼んだ。今回の八戸旅行でウニを食べたのは残念だったが、ガッカリしすぎて駅前の食堂と「磯辺うに店」の2店で終わってしまった。

 

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盛岡 三ッ岩と烏帽子岩

2019-10-09 | 

鬼の手形が残るという大岩のある三ッ岩神社に行った。
 
盛岡砂子に三岩大明神として「傳云昔、信直公太祖、光行公の神霊を爰に勧請し給ふと云。後 利直公神領御寄附有。黒印に為三石掃除料五拾弐石令寄附者也」とあり、さらに「抑三石は其形均しく蘶々として高さ弐丈計廻り三丈計にして根は却て細く三石偕に危立す、平垣の地に有て実に奇といふへし、当村を三割村といへとも敢て裂たる石にあらす、會て三石野村と云しを此神号を避られたるにや、村名を三割と改られし也」と三割村の名もここから生じたとしている。昔、羅刹という鬼が住んでいて、暴れていた。困り果てた人々は、三ツ石様に悪鬼の退治を祈願した。 その願いを聞き入れた神様は悪鬼をとらえ、二度と悪さをしない証として、境内の大きな三ツ石に鬼の手形を押させたという。この地は鬼が二度と来なくなった場所という意味の「不来方(こずかた)」と呼ばれるようになり、また鬼が岩に手形を押したということから「岩手」という名前が出来たとも言われている。また、鬼の退散を喜んだ村人が、「サンササンサ」と三ツ石の周りを踊ったのが「さんさ踊り」の始まりとも。さんさ踊りは本来、三十三(サンサ)種の踊りがありそこから「さんさ踊り」と呼ばれたとも云う。さんさ踊り唄の囃子詞、サッコラチョイワヤッセーの掛け声が面白い。手形を残したと云うインド神話における鬼神でもある羅刹という鬼の正体は何者だったのだろう。大きな石には神が宿るとする巨石信仰や東北地方には坂上田村麻呂や源義経と結び付けた説話が多い。柳田國男の山島民潭集に「陸中盛岡ノ東見寺(東顕寺)ノ境内ニハ此人(義経)ガ馬跡ヲ留メシ名石三ッ石アリ。以前ハ人ノ拝祀セシ石ナルベシ。中古ノ石神ハ多クハ山ノ形ヲシタル大小三個ノ石ニシテ、之ヲ拝ミシ根原ハ是亦竈ノ神ノ信仰ニ基クカト見ユレバ、義経ニハ兎ニ角ニ馬ノ因縁ハ存スルナリ」と盛岡の三ツ石が収録されている。竈ノ神に別名は三宝荒神、三つの神様として三ツ石を信仰していたのだろうか。大石の周りを回って鬼の手形を探したが何所に在るのかわからなかった。
 
巨岩はほとんどが火成岩花崗閃緑岩で、岩手山の火山噴火で、巨岩が21kmも飛んできたことになる。地質調査総合センターの地質図を見ると盛岡城址、上盛岡駅付近、岩山西側はすべて同じ花崗岩地質で、掘り返せばまだ巨岩が出てくるかも知れない。
岩手護国神社に寄って烏帽子の形をした盛岡の守り神がある桜山神社に行く。
 
 
寛延二年(1749)、南部家三十三代利視は盛岡藩初代(二十六代)信直の遺徳を偲び、新たに腰曲輪東、盛岡城本丸東側淡路丸に信直の神霊を勧請し「淡路丸大明神」と奉ったのが始まりだという。盛岡藩第十一代利敬が文化九年(1812)、淡路丸が桜山と称されていたことから「櫻山大明神」と改称。その後、利敬は同十五年(1818)、南部家初代光行を合祀、大正元年(1912)、盛岡藩二代利直、同十一代利敬を合祀して四祭神とした。
 
 
盛岡城築城の折に大きさ二丈ばかり突出した烏帽子の姿をした大石が出現、この岩を瑞兆と慶び、それ以来様々な神事が行われ盛岡のお守り岩として親しまれているという。

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盛岡 東禅寺から永福寺

2019-10-02 | 

聖寿寺から歩いて、5.6分で東禅寺に着いた。門前に南部二十七代南部利直公墓所の石柱があった。
 
 
盛岡砂子によると「東禅寺 京都妙心寺末、臨済宗本寺は遠野附馬牛村東禅寺是也、開山を無盡昭尚、建武年中(1334~1335)草創也。遠野本寺大英は利直公寛永九年(1632)御卒去の時、遠野より三戸に至て御引導を勉む。其後重直公盛岡へ御移の時、同時に大英盛岡に此寺を草創す」とあり、郷村故実見聞記に「御遺骸江戸より御下り三戸聖寿寺に葬、行信公(三十代)東禅寺に改葬」ともある。また盛岡の邦内郷村志に「傳云。十三代禪高法師守行公以来之菩提寺也」とあり、寛政重修諸家譜にも「守行 永享九年(1437)四月九日卒す。祖山禪高東禅寺と号す。閉伊郡遠野の東禅寺に葬る」とある。守行は釜石近くの上閉伊郡大槌城を攻めていて流れ矢に当り薨ったと伝わる。二十四代南部晴政の代の天文八年(1539)、三戸の居城火災に掛かり、累代相続の証文等焼失し古い時代の事は判らないという。邦内郷村志閉伊郡の部に「成就院東禅寺末寺」と出てきた。九代祐政、十一代信長、十二代政行の埋葬地は鎌倉の成就院だと思い込んでいたのでビックリした。この東禅寺は八戸の自在山東禅寺(根城南部氏菩提寺)なのか盛岡の大宝山東禅寺なのか、それともほかの東禅寺なのか判断付かないが、結局、遠野東禅寺の建立時期も諸説ありどこの東禅寺だかはっきりしない。南部氏は二十六代から二十八代にかけて、津軽為信との抗争や同族の津軽波岡南部氏、根城南部氏、八戸南部氏との主導権争い等もあり、各南部氏がゴチャゴチャになり余計分からなくなってしまった。東禅寺には二十七代利直(南宗院殿)、三十一代信恩(霊巌院殿)、三十五代利正(義徳院殿)、三十七代利用(養徳院)、三十九代利義の墓碑が本堂を取り囲んでいる丘陵の林の中にある。
二十七代利直(南宗院殿)
 
 
左)三十七代利用(養徳院)        右)三十九代利義墓
 
この五人の藩主の菩提寺を東禅寺にしたのはどうしてだろう。盛岡藩主の菩提寺が聖寿寺と東禅寺に分れているのは何か隠された理由があるのだろうか。南部氏二十七代利直を除き、治国の間に重大な問題があった藩主や、前の藩主と継承が上手くいかなかった藩主が多く、藩主だった期間がいずれも五年以下と短かった事と関係があるのだろうか。一人で墓域を廻ったが、獣が出そうな感じだったので、半分で引き返し、南部氏代々の祈願所でもあった永福寺に向かった。
邦内郷村志に「寺領八百石、是為邦内諸古刹之冠也。故寺格無出其右者」とあり、永福寺が藩内の由緒ある古い寺で第一に古く、寺格も一番だという。神社だかお寺だか分からない永福寺の入口に戸惑う。
 
 
邦内郷村志に「重信公(南部氏二十九代)貞享三年(1686)御造営也。慶長元和之頃(1596~)従三戸御移。後寺、建今之地。延宝八年(1680)縁起古記焼失。故傳草創」とある。お寺で貰ったパンフレットには「元和三年(1617)に盛岡城の鬼門鎮護の祈願寺として現在地(山岸)建立云々」とある。お寺の説明板に永福寺の開基は坂上田村麿将軍が東征の砌、「聖戦勝利、国土安泰」の祈願の為に「十一面観音菩薩」をお祀りして建てられた「奥州六観音」の一つで「楢崎観音」と呼ばれ延暦十九年に今の八戸市七崎に建立されたお寺だという。三戸移転後、盛岡城築城と共に山岸に移り、七崎を普賢院、三戸を嶺松院と称している。明治の神仏分離・廃仏毀釈により、現在の本堂は昭和二十二年に再建されたものだという。

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