大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

名古屋城界隈

2017-04-19 | 

 

尾張徳川家に縁のある貞祖院、建中寺に寄ってから名古屋城に行った。貞祖院のある東区泉はお寺も多く、小さな路地に迷い、入口を探してグルグル回ってしまって、中々たどり着けなかった。
 
慶長十三年(1608)徳川家康四男で清洲城主松平忠吉の養母於美津ノ方(松平忠久の娘)が、忠吉公の菩提を弔うため、清洲に庵室を創立、その後、於美津ノ方の戒名「喜秀院殿光誉貞祖大禅定尼」から喜秀山貞祖院玄白寺と号し、慶長十六年(1611)、清洲より現在地に移る。明治五年(1873)、尾張徳川家の菩提寺である建中寺にあった尾張藩四代藩主吉通の御霊廟を譲り受け貞祖院本堂とし現在に至っているという。 
 
 
貞祖院から建中寺までは1k弱、歩いて15分程度の所にある。名古屋の街中を歩くのは今回が初めてだったが、歩いている人とあまりすれ違わないのが不思議だった。建中寺は慶安三年(1650)に逝去した初代尾張藩主義直公(家康の九番目の息子)の菩提を弔い、尾張徳川家先祖代々の菩提寺として、第二代尾張藩主徳川光友卿が、慶安四年(1651)、本堂、諸堂伽藍十棟を建立し、茨城県結城市弘経寺の成譽廓呑上人を招請して開山した。総門・三門は創建当時の建築物として残っていて、総門、三門、本堂、鐘楼はいずれも名古屋市指定文化財に指定されている。
 
 
 
 
お寺の境内案内図を見て、山門の前にある公園の反対側に総門があるのに気が付く。大した距離ではないのになにかガックリする。
 
名古屋代官郵便局に寄ってからタクシーで名古屋城に向った。平日だったせいか観光客も疎らで、さすが二ノ丸跡まで足を延ばす観光客もいなかったが、どうしても訪ねたかったのが名古屋城二の丸庭園にある「青松葉事件之遺跡」碑。昭和の初めに、現在地から南へ約100mの処刑地跡(現在の愛知県体育館付近)に「尾藩勤王 青松葉事件之遺跡」碑が建立されたが、その後所在不明となり、昭和六十三年に青松葉事件の関係者により復元されたという。
 
 
 
 
 青松葉事件とは慶應四年正月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍大敗を京都で知り朝廷側が幕府側につくか選択を迫られた十四代尾張藩主徳川慶勝は、近隣諸侯を慫慂し勤王奮発(勤王誘引)を行い、姦従誅戮の実行として尾張藩士十四名を姦曲の処置、志不正によりと斬姦した。青松葉の呼称は諸説あるようだが、何時、誰が名付けたのか興味深く感じる。一本の石碑、藩訓秘伝の碑(王命に依って催さるる事)が「尾藩勤王 青松葉事件之遺跡」碑の近くにある。説明板に「この碑文は、初代藩主・徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中にある一項の題目で、勤王の精神について述べている。歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新にあたっては、親藩であったのに、勤王帰一を表明したといわれている。この碑の位置は二之丸御殿跡である」とある。実際は「軍書合鑑」の巻末に依王命被催事の一條が加えられているという。四代藩主徳川吉通に仕えた近松茂矩が十七歳の時、藩主圓覚院(吉通)より次期藩主五郎太幼少につき成長の後に伝えよと、五十二年以前、直伝により輯録したものを明和元年(1713)、圓覚院様御伝十五箇條として著した。第九から第十四条までの「六ヶ條ハ各別御隠密ナル御家訓ノ由ニテ奥田主馬ト私両人、御寝ノ間ヘ召シテ、御相傳下サレヌ」とあり、その第十二に、軍書合鑑巻末、依王命被催事の一條の説明が「官兵を催される事がある時は、いつとても官軍に属すべき、一門の好みを思ふてかりにも 朝廷にむかふて、弓を引事あるべからず、此一大事を子孫に御傳へ被成たき思召にて、此一ヶ條を巻尾に御記し遺させられたりと思ふべし」とあり、最重要である尊王條項は第一條ではなく十二條に唐突な感じで出てくる。なぜ五十年余も経った後の九代藩主宗睦の時代に藩主相伝であるはずの御家訓をわざわざ著したのは、どんな理由があったのだろうか、不思議な気がする。

  

 

 

 

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犬山 青龍山瑞泉寺

2017-04-10 | 

瑞泉寺とその塔頭寺院の龍泉院、龍済寺、臨溪院、輝東寺、臥龍寺の五ヶ寺は、東之宮古墳のある白山平山西の麓に連なっている。瑞泉寺は臨済宗妙心寺派の古刹で、日峰宗舜禅師が創建、勢州朝熊(伊勢朝熊山の頂に弘法大師空海は天長二年(825)、真言密教の根本道場、勝峰山金剛證寺を建て、本尊に福威知満虚空蔵菩薩を祀った。
金剛證寺の中興の祖、仏地禅師が真言宗から臨済宗に改宗され、臨済宗南禅寺派の寺とした)の虚空蔵菩薩を勧請して御本尊として、本寺と称した(本寺の称、雪江和尚の法語にもあり信長の瑞泉寺に与えた朱印状「当寺之事、為関山派本寺之條、早再興尤候云々」にもある)と青龍山瑞泉禅寺記にある。
臨渓院でお寺の方なのか、檀家さんなのか分からない女性が、ここは応仁の乱の時、臨済宗大本山妙心寺が戦火で焼失したとき、ここを一時、本山として京都が復興して妙心寺も復興したとき、本山を京都に戻した格式のある寺で、妙心寺住職が替わった時には挨拶にくると教えてくれたのは此のへんの事だろうか。
妙心寺は開山関山慧玄のあと六世拙堂宗朴のとき、応永六年(1399)足利義満により宗朴は幽閉、寺領は没収、寺名を龍雲寺と改めさせられ、妙心寺は中絶したが、永享四年(1432)妙心寺が返され、瑞泉寺の日峰禅師が妙心寺を中興した。妙心寺の塔頭や末寺は龍泉派、東海派、霊雲派、聖沢派の 四系統に分かれており、これを「四派」と呼ぶ。この四派は妙心寺六祖雪江宗深の法嗣である景川宗隆(龍泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖沢派)の 四名を派祖としている。瑞泉寺は明治に至るまでこの四派輪住の寺であったという。(写真・京都妙心寺)
 
 
瑞泉寺の創建から二百七十年余あとの貞享三年(1686)、仁渓彗寛(瑞泉寺塔頭龍済庵住職)により著わされた瑞泉寺の縁起、寛延四年(1751)、万端彗愚により校正された「青龍山瑞泉禅寺記」に、庵をと提供された土地をみると「巖樹嵐を聯ねて、視聴幽邃なり、山に水無らんことを恐れ、沙弥玄端をして、攸(ところ:水が細長く流れるところ)を相さしむ。遽かに清水有りて、巖謼(岩の隙間)に湧出す、師就いて泉を見るに、泉溢れて池となる、池中須臾に龍有りて現る。其色青色なり、遊戯して天に登る。師独り見て、余は見ること能わず。乃ち草を其所に挿んで、叢林の制を始む。山を青龍と名づけ、寺を瑞泉と号す」(日比野晃訓読「青龍山瑞泉禅寺記」より)とある。
名鉄犬山線の踏切を渡った所に立派な山門がある。犬山城の東側、搦手門だった内田御門を移築したものだと云う。
 
 
 
 
  
瑞泉寺専門道場と毒語心経提唱の表札が掲げられた中門を潜ると、古そうな鐘楼があり、塵一つない綺麗に手入れされた植栽と石畳みの正面に本堂がある。禅宗の修行道場寺院特有の凛とした雰囲気を漂わせる。庫裡で御朱印をお願いするためインターホンを鳴らすと、遠くから足音を立てて若い僧が飛んできた。やはり修行道場だけの事はあった。

参考
瑞泉寺歴代住職:開山日峰宗舜、二世不明、三世義天玄詔、四世雲谷玄祥、五世桃隠玄朔、六世雪江宗深、七世景川宗隆、八世悟渓宗頓、九世、特芳禅傑、十世東陽英朝

妙心寺歴代住職:妙心寺開山関山慧玄、二世授翁宗弼、三世無因宗因、四世雲山宗峨、五世明江西堂(?)、六世拙堂宗朴、七世日峰宗舜、八世義天玄承、九世雪江宗深、十世景川宗隆、十一世悟渓宗頓、十二世特芳禅傑、十三世東陽英朝


犬山 瑞泉寺塔頭寺院

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犬山城と瑞泉寺塔頭寺院

2017-04-05 | 

寂光院から犬山城址に向かった。犬山城への入口には二つの神社、三光稲荷神社と針網神社がある。どちらかの神社を通らないと天守閣には近づけないようなので「犬山城への近道」と案内板のあった三光稲荷神社(御祭神は宇迦御魂大神、猿田彦大神、大宮女大神)の横を通る。
 
 
それにしても春休みが始まったせいか、中学生か高校生らしき若い人達であふれていた。この辺りでは他に行く場所がないのだろうか。犬山城は天守が国宝指定された五城(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)のうちの一つで、犬山城天守は現存する日本最古の様式だそうです。
 
帰りは針網神社(尾治針名根連命(主祭神)、 玉姫命 伊邪那岐命 菊理姫命 大己貴命 建筒草命 建多乎利命 建稲種命 尻調根命(尾綱根命) 大荒田命)を通る。
 
 
犬山遊園駅東側、諸国城之図では瑞泉寺を中心に塔頭寺、寺と記載のある瑞泉寺と塔頭寺の龍泉院、龍済寺、臨渓院、輝東寺、臥龍寺を廻った。

青龍山龍泉院は景川宗隆禅師(妙心寺四派の一つである龍泉派の開祖)により応仁二年(1468)、瑞泉寺塔頭として創建された。天正十二年(1584)、小牧長久手の戦いで犬山城主の留守を豊臣方の池田信輝に攻められ討死した三世中川清蔵主の墓がある。平成八年に開祖没後五百年の遠諱(おんき)を行い、本堂や庫裏など伽藍を一新したという。
 
 
青龍山龍濟寺は文安三年(1446)、雲谷玄祥禅師によって建立、本堂裏手に五百五十年前そのままに続く雲谷庭という禅庭があるという事だが、どなたも居らず、残念ながら拝観出来なかった。龍濟寺に貞享三年(1686)、仁渓彗寛により著された「青龍山端泉禅寺記」が残っている。
 
 
臨溪院は妙心寺四派、聖澤派開祖東陽英朝禅師を開創として文明十四年(1482)に創建、永禄八年(1565)兵火に遭い全焼、その後、寛永九年(1632)、時の犬山城主成瀬正虎により再建、成瀬家菩提寺となった。山門の東南の高台に墓所があると聞いたが、今回は内陣横の安置された位牌をみせて貰った。境内にいた女性が「どうぞ、どうぞ」と本堂の中や位牌所を案内してくれたので、お寺の方だと計り思っていたら、最後に詳しい事はお寺で聞いてくれと外に出て行ってしまった。なにか悪い事をしたように直ぐお寺を出てきてしまった。壇家さんだったのだろうか。
 
 
 
臥龍寺は妙心寺四派、東海派開祖悟渓宗頓により開創、延保七年(1679)、泰崋義仙によって再建される。山門の前がえらく狭くなっていたが、この辺からの犬山城が正面になり、眺望がすばらしい。境内に不思議地蔵尊が祀られていた。京都の若い女性に大人気のお寺を思い出した。
 
 
輝東寺は文明元年(1469)、妙心寺四派、霊雲派開祖特芳禅傑大和尚が瑞泉寺住職として入山の時、はじめ輝東庵として創建、織田信長の犬山城攻略により焼失、その後再建され、本堂は顧鑑和尚の時、尾張徳川家により寄進されたという。山門で寝ていた犬が目を醒まして激しく吠えるので、頭を撫でたら大人しくなった。ご住職が不在の時は、留守番がてら犬が山門に繋がれているようだ。
 
 
輝東寺の下側に内田弘法大師御田跡があった。寂光院の拝領地だったのだろうか。
 

犬山 青龍山瑞泉寺

 

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