大阪寝屋川市の墓地に、元治元年、
蛤御門の変(禁門の変)の戦死者、二名の墓碑があるという。
小路彦神霊 小路村惣右衛門伜俗名仙太郎
元治元年子年七月十九日戦死 施主河・城州総代中
国松神霊 俗名平兵衛
元治元年子年七月十九日戦死 孫入江喜太郎再建
文久二年、京都の治安維持に当たっていた
京都守護職松平容保 (会津藩主)の役知地となったのが、
山城国・河内国と近江国のうち、五万石分。
寝屋川市内では、寝屋村・国松村・秦村・太秦村・高宮村
小路村・堀溝村七ヵ村がその会津藩領だったという。
蛤御門の変に、これらの村々から会津藩兵として参加し、
不幸にも戦死したと思われる。突然領主が変わり、戦いに
駆出されたほうも、ビックリしただろう!!
この二名の墓碑が京都黒谷会津藩墓地にもある。
小路彦神霊 会津御役地河州 仙太郎二十四才
国松神霊 会津河州国松村平兵衛
会津藩庁記録によれば、会津藩は京都で毎年
二十万両以上の経費を必要としたらしい。
幕末の会津藩、役知・加増地の上がりが、約十万両。
蝦夷警護、相州・房州防備などの多大な出費がなければ、
もう少し、軍備を整えられたと思うと残念!!
蛤御門の変(禁門の変)の戦死者、二名の墓碑があるという。
小路彦神霊 小路村惣右衛門伜俗名仙太郎
元治元年子年七月十九日戦死 施主河・城州総代中
国松神霊 俗名平兵衛
元治元年子年七月十九日戦死 孫入江喜太郎再建
文久二年、京都の治安維持に当たっていた
京都守護職松平容保 (会津藩主)の役知地となったのが、
山城国・河内国と近江国のうち、五万石分。
寝屋川市内では、寝屋村・国松村・秦村・太秦村・高宮村
小路村・堀溝村七ヵ村がその会津藩領だったという。
蛤御門の変に、これらの村々から会津藩兵として参加し、
不幸にも戦死したと思われる。突然領主が変わり、戦いに
駆出されたほうも、ビックリしただろう!!
この二名の墓碑が京都黒谷会津藩墓地にもある。
小路彦神霊 会津御役地河州 仙太郎二十四才
国松神霊 会津河州国松村平兵衛
会津藩庁記録によれば、会津藩は京都で毎年
二十万両以上の経費を必要としたらしい。
幕末の会津藩、役知・加増地の上がりが、約十万両。
蝦夷警護、相州・房州防備などの多大な出費がなければ、
もう少し、軍備を整えられたと思うと残念!!
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