大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

寝屋川の会津藩兵

2008-01-13 | 掃苔
大阪寝屋川市の墓地に、元治元年、
蛤御門の変(禁門の変)の戦死者、二名の墓碑があるという。

小路彦神霊 小路村惣右衛門伜俗名仙太郎
元治元年子年七月十九日戦死 施主河・城州総代中
 
国松神霊 俗名平兵衛
元治元年子年七月十九日戦死 孫入江喜太郎再建

文久二年、京都の治安維持に当たっていた
京都守護職松平容保 (会津藩主)の役知地となったのが、
山城国・河内国と近江国のうち、五万石分。

寝屋川市内では、寝屋村・国松村・秦村・太秦村・高宮村
小路村・堀溝村七ヵ村がその会津藩領だったという。

蛤御門の変に、これらの村々から会津藩兵として参加し、
不幸にも戦死したと思われる。突然領主が変わり、戦いに
駆出されたほうも、ビックリしただろう!!

この二名の墓碑が京都黒谷会津藩墓地にもある。
小路彦神霊 会津御役地河州 仙太郎二十四才 
国松神霊  会津河州国松村平兵衛 

会津藩庁記録によれば、会津藩は京都で毎年
二十万両以上の経費を必要としたらしい。
幕末の会津藩、役知・加増地の上がりが、約十万両。

蝦夷警護、相州・房州防備などの多大な出費がなければ、
もう少し、軍備を整えられたと思うと残念!!
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