小田原に「透頂香 ういろう」という胃痛、食中毒、眩暈、頭痛、心悸亢進、其の他用急病皆奏効だという薬を売っている店がある。
ここの店主は代々外郎藤右衛門を名乗っている。新編相模風土記稿に「至正の末元朝滅びし後、二主に事えん事を恥、本朝に帰化し筑前国博多に止る。是応安元年(1368)なり」とあり、これは足利氏満が関東管領となった頃の話で、風土記稿に、祖先は陳氏延祐(台山宗敬)、其子大年宗奇、其子月海常祐、其子祖田、其子二人、兄藤右衛門尉定治(実如院蓮真)(弟、名欠く)、其子家治(宇野源重郎:安住院蓮秀)、其子吉治(正悦)、其子光治(蘇庵)、其子英治(円性院玄妙日周寛)、相治(意仙)、意庵、蘇庵(広治)、以春、養甫、以春、以珊源十郎、外郎鉄丸と名前が続く外郎家の簡単な家譜が記載されている。この家譜は外郎家が度々の火災にあい古文書等を喪失し、元禄十一年(1696)、宇野相治の依頼により、箱根湯本の早雲寺住持の栢州宗貞により作られたものだという。(早雲寺)
小田原外郎家の祖先は元朝に仕えた札部員外郎の陳延祐で元朝が滅び元朝に代わった時、日本博多に帰化し宗継と号し、其子大年の時、京都で足利将軍に仕えたという。風土記稿によれば、透頂香は延祐の子大年宗奇が応永初年(1394)、将軍義満の命に応じ明に使いし、透頂香と云う仙方を得て帰朝すとある。五代定治のとき氏を宇野に改め、北條氏の招きに応じ、弟を京都に残して小田原に来住している。雍州府志には「其ノ末裔(台山宗敬)洛下西ノ洞院ニ来リ住ス、透頂香ヲ製シ之ヲ売ル、小田原ノ透頂香ハ此ノ余流也。斯ノ家ノ之庶流也。小田原ノ透頂香ハ此ノ余流也。大覚禅師来朝鎌倉二在リ斯ノ薬ヲ於小田原土人ニ傳ト云、今小田原人来テ京師ニ賣ル」と異説もある。定治の子家治(源重郎)は御馬廻衆として北條氏に仕え、その子吉治(藤五郎)は小田原城下今宿町奉行として北條氏の有力家臣でもあった。
外郎家菩提寺 玉伝寺
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによって、北條氏は滅亡、城下には北條氏家臣は住まわせなかった。秀吉は透頂香という霊薬も販売していた武家の宇野から家名を外郎に戻させ商家として存続を許したのではないだろうか。透頂香は小粒の丸薬で、阿仙、龍脳、縮砂等南方系の漢方薬を主成分にしていることから、外郎氏祖先とされている陳延祐は南の福建省か広東省出身の人かと思ったら、大元台州人だという。いずれにしても、透頂香の処方を誰が日本にもたらしたのか、また何時、宇野姓に改めたのか、はっきりしない。京都に残った定治の弟の姓も名前も不明だという。正保四年(1647)、蹴鞠の名人外郎右近は飛鳥井家との争いにより幕府から流罪にされている。この外郎右近は京都に残った定治の弟の末裔なのだろうか。寛政九年(1797)に出版された東海道名所圖會に「ういらう透頂香」の店が描かれ、店頭には雌雄の虎の屏風が置かれている。
その説明に「小田原外郎透頂香は大覚禅師来朝の時より日本に伝り北條氏綱ここに在城の時八棟造の薬店を許して弘めさせける」戯れ唄に「三絃のトウチン香の其音は千里に聞ゆ虎屋外郎」とあり、屋号が虎屋外郎だったことが分かる。
文化三年(1806)、幕命により五街道の寺社、本陣、橋、高札など詳細に描かせ完成した東海道分間延絵図に「ういろう薬屋」として掲載されている。この分間延絵図に商家が描かれているのは非常に珍しく、それだけ「ういろう」の名が世の中に知られていたことになる。会津坂下にある心清水八幡神社に貞和六年(1350)から 寛永十二年(1635)までの日記、塔寺八幡宮長帳がある。写本も多い。これらとは別に天喜五年(1057)から享保二十年(1735)まで記録された「異本塔寺長帳」が残されている。
この中に「(天文五年。1536)今年透頂香外郎《ウイロウ》売薬(相州小田原明神ノ前ニ北条氏綱屋敷ヲ賜リ始)其起ヲ尋ニ、昔人皇八十七代(寛元四年丙午、大覚禅師入唐、帰ニ員外郎ト云唐人、此妙薬ヲ持来テ)売今年居所ヲ究、日本ニ名ヲ顕ス」とあり、小田原から260kも離れた会津の山深い寺にも透頂香の名が伝わっていたことに驚く。古い系図ははっきりしないものの、六百五十年以上も続いている家系に驚かされる。
5,6年前、ある会津藩士の墓碑を探して小田原板橋にあるお寺と云うお寺を廻った事がある。新幹線と東海道線に挟まれた城山の南側にある玉伝寺の墓地の一角にかなり立派な外郎家という墓所があった。残念ながらその時は「外郎」という字が読めなかった。玉伝寺は新編相模国風土記稿に「開基は宇野藤右衛門定治、欄干橋外郎鐵丸の祖なり」とあって、その時は、宇野姓から外郎姓に替えたのだとしか思わなかった。小田原に転居して、知人に頼まれて「ういろう」を買いに行って「ういろう」の漢字が「外郎」であることを知った。東海道小田原箱根口近くの、ういろう本店隣に中華店「ういろう別館 杏林亭」があるのも知った。別館というから大きな店かと思ったら客席20位のこぢんまりとした明るい店だった。
テーブルに用意されている敷紙に杏林亭の謂れが書いてあった。「杏林とは中国の故事「神仙伝」にちなんだ医者の美称で、治療費の代わりに杏を植えると、数年で杏の林になったという逸話からです。外郎家の初代は中国・元朝の役人で医術にも長けていました。日本に帰化後、室町時代になると、京都にある当家の館は、いつしか杏林亭と呼ばれるようになり、そして、小田原に移住して五百余年、老舗の漢方薬局が直営する中華料理として、往時の呼び名を小田原で回帰しました」とあった。陳氏延祐を遠祖として四代祖田(字有年)は京都の自宅(現在の蟷螂山町旧陳外郎町。錦小路通りと四条大路に挟まれた西洞院通り両側)の庭に小亭を築き、「杏林」の札を掛けたという。「神仙伝」にある杏林の話は、中国三国時代に仙人菫奉は医術に長け、人々からの謝礼は受け取らず、軽症者には一本、重症者には五本の杏の木を植えさせた。やがて杏の木は林になり、自らを「董仙杏林」と称し、この故事から医者を「杏林」と云うようになったという。この店、飲茶セットがあるせいか10時から15時30分(L・O 15時)までの変則的な営業時間だった。飲茶セットは、前菜の盛り合わせ、サラダ、せいろ(小龍包、海老蒸し餃子、かに焼売)、大根もち、春巻、ゴマ団子、お粥又はスープ麺、デザート、杏林ういろう。中国茶で1800円(税別)。
写真は「根野菜と酢豚」と「海老と銀杏の広東風炒め」。
飲茶セットの最期に出てくるデザートが米粉を原料とした蒸し菓子の「ういろう」。お菓子の「ういろう」も一子相伝ということなので、この菓子に一子相伝の薬「ういろう(透頂香)」が入っているのか分からなかった。年寄には優しい味付けで量も丁度、良かった。ホールの当の女性店員は1人だったが、接客もテキパキと気配りも良く、非常に好感が持てた。