大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

伊佐須美神社

2012-08-29 | 會津

伊佐須美神社は若松の城から西南に行程二里十二町余の高田村(会津美里町)にある。
 
新編会津風土記に「内陸奥國一百座の一にて、祭神は即伊弉諾尊伊弉冉の両尊」とあり、いまは岩代国一ノ宮で会津総鎮守だという。天正伊達氏乱入により一時衰退したが豊臣秀吉の命により社領を得て、その後、肥後守正之の保護を受けている。残念なことに、平成二十年十月、二度にわたる火災で拝殿授与所及び本殿・神楽殿・神饌所などが全焼、今は仮本殿で神事を行っているが、小さな赤ちゃんを連れた参拝者で賑わっていた。
  
境内にある桜の古木、薄墨桜は御神木であり、会津五桜のひとつに数えられている。新編風土記に「花は八重にして一重まじり、浅紅にして淡墨を含む、因て此名あり、外の桜樹よりは少遅、三月中旬の頃斬盛なり」という。
 
この薄墨桜の下に会津藩主松平容保の歌碑(明治十六年建立)がある。
「世の人の心や深く染めぬらん うす墨桜あかぬ色香に   容保」
  
明治六年(1873)、国幣中社に列せられ、毎年、高田地域の盆踊りが行なわれるという神社の南側、高天ヶ原と呼ばれる場所に五代宮司に就任した旧会津藩主松平容保の次男松平健雄氏の胸像があり、健雄氏の次男で参議院議員、福島県知事を務めた松平勇雄氏の立像もある。

  
この高天ヶ原の端に紅色のあでやかな花をつける神代桜(かみよ)と呼ばれるベニヒガンザクラの老樹があり、福島県緑の文化財に指定され周囲を冊で囲われて根を踏まれないように保護されていた。

この桜の木の下に旧会津藩士の片桐嘉則の歌碑が残されている。嘉則は通称八太郎、父は嘉寿。嘉則は飯盛山の「面影碑」の撰文澤田名垂の高弟野矢常方の門下で、のち宮内省御歌所文学御用掛に任じられた。神社では戊辰後、旧会津藩士小川清流(野矢常方門下・伊佐須美神社主典)を招き献詠和歌会を創立した。清流歿後、同じ野矢常方門下であった嘉則を招いて改めて「花月会」と称した。嘉則八十才を機として会津高田町の花月会の歌人たちが歌碑を建立したもの。
「ながらへて今ひとたびと思いこし 花こそ老いのいのちなりけれ 八十翁」
 
小川清流は戊辰後、会津藩が長州藩士奥平謙輔に書生として山川健次郎と共に送り出した小川亮(直道)の父親、この清流が戊辰の戦いのとき亮(直道)に与えた歌がすさまじかった
「報ゆへき時はこの時国のため 死ねや直道死ねや直道」
伊佐須美神社の宮司さんと話をしていて、偶然、小川清流(傳吾) の話が出て、清流の墓所を教えてもらった。神社のそばにある神葬墓地にあるという。お礼もそこそこに神葬墓地を訪ねた。神葬墓地は、元は伊佐須美神社境内であった伊佐須美神社奥の院別当を司った文殊院清龍寺の隣にあった。
 
 
新編風土記で天海僧正がこの文殊堂で生まれたのを知ってまた驚いた。ここは地域の人から「お文殊様」と呼び智恵の文殊として知られ多くの学芸向上の参詣者に親しまれているという。霊験あらたかな学問の菩薩様ならぜひお参りするのだった。ここの入口に奥の細道の旅に出た芭蕉が邪魔だと切り取った袖を弟子に与え、それを高田の俳人が貰い受けて埋めたという芭蕉翁袖塚がある。こういう話は疑ってはいけないのだろうな!

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益子西明寺から大谷観音へ

2012-08-23 | 

ネーミングにはいささか抵抗があるが、青春18きっぷを使って北関東を廻ってきた。東京から益子までは宇都宮線、水戸線、真岡鉄道と乗り継いで約3時間掛る。
 
 
下館駅から三両で走っていた電車が真岡駅で二両切り離され、一両で茂木に向かう。真岡鉄道はワンマン運転と思ったら運転手の他に乗務員が乗車していた。沿線に学校があるらしく無人駅で学生がいっぺんに降りると乗務員が切符の確認に駆けずり回っていた。残念なことに益子駅から独鈷山西明寺方面のバスはない。車でなければ真岡鉄道益子駅から約3,5kの道を歩くか、駅前のタクシーを利用するほかない。
 
 
高館山の西麓にある西明寺は鬱蒼とした椎の巨木に囲まれた急な参道の石段を登り切ると立派な山門と古びた三重塔が現れる。石段の手摺りにいた小さな青カエル触りそうになり息が止まりそうになる。
 
  
山門を潜ると正面に本堂、右手に閻魔堂がある。閻魔像の脇には三途川で亡者の衣服を剥ぎ取るという奪衣婆像があった。この奪衣婆は迫力満点であまり目が合わないようにする。奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣類を衣領樹の枝にかける懸衣翁の像がどこかにあるはずだが分からなかった。
 
駅舎が蒸気機関所の形をした真岡駅で途中下車、前から欲しかった真岡郵便局の風景印を貰ってから大谷寺に向かう。
 
大谷寺には宇都宮駅から1時間に1本の割で、バスが出ているので行き易い。ここの御本尊は岩彫りの千手観音で磨崖仏としては日本最古と言われている。磨崖仏を隠すように観音堂があり、大谷石の壁面に掘られた石造千手観音菩薩立像が大谷寺の本尊となっている。
 

 
「千手観音菩薩立像」のほかに「釈迦三尊像」、「薬師三尊像」、「阿弥陀三尊像」の石仏が残されている。また縄文時代に人が住んでいたとされる洞窟がこの岩山に残されており「大谷寺岩陰遺跡」として保存されているとの事だったが、どの場所のことだかよく判らなかった。磨崖仏といえば、豊後高田熊野の磨崖仏を思い出す。ここの熊野不動明王像や大日如来像の石仏群は男性的な荒々しさがあった。一方の大谷の石仏、千手観音菩薩立像や薬師三尊像はやはり女性的な優雅さがある。江戸時代初期、徳川家康娘の亀姫が時の住職・伝海僧正を援助し大谷寺の基盤を作ったと言われ、その由来により本堂には三つ葉葵の幕が掛っていた。大谷石の地下採掘場跡を見学出来る大谷資料館は東北地方太平洋沖地震により休館しており、当分開館の見込みは無いとの事で、バスの待ち時間のあいだ、近くにある大谷公園による。ここには高さ27mもある観音が岩壁に彫られていた。

今回は大谷寺門前の大谷石土産物店(大谷石体験館)の食堂の餃子と宇都宮駅前で宇味屋、餃天堂、宇都宮餃子館と3軒の餃子専門店に入った。
 
 
  
 
食事時間を大幅に過ぎて入った駅前の餃子店は、いずれもパートの女性らしき人が1人で店を切盛りしていて、油濃かったり、分厚い皮に火が通っていなかったり、結局、専門店でない大谷寺門前の土産物店の餃子が一番美味しく感じた。駅前の店では宇都宮餃子館の餃子が良かったが、餃子の町、宇都宮も店が乱立して、焼き手の質が落ちているのだろうか、少し残念!

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幕府御船手組 石渡家

2012-08-14 | 掃苔

旧会津藩士で「会津藩教育考」を著した小川渉が「国破れ家亡いし後は、親戚朋友に遠ざかり、那辺此処とさまよう内にも、昔のことのしのばれて、事に逢ひ物に触れて思ひ出ておもひ出づれば互に語りつゝくるは自然の情状やみ難きなり、」と旧藩時代から明治期にわたる逸話や見聞、伝聞等を記した「志ぐれ草紙」に安渡丸の事が書かれている。雑賀孫六の話として「幕府の遺臣に石渡貞夫とて航海術に巧者なる人ありしが、時世変遷して江戸深川八幡社の近傍に汁粉屋を営み居き、我が藩にて役後三年斗南に移りし時、帆船一艘を購ひ安渡丸(斗南の湊のある村名を取りしなり)と号じて商法に便せんとの意なりければ、我が雑賀孫六(開陽丸の士官にてその術にくはし)も乗り組み、横浜を抜錨し常陸海に向ひ航したり、、、」と書き残している。
この志ぐれ草紙は小川渉の死後二十七年たった昭和十年に故小川渉遺著として会津松平家の家令を勤めた飯沼関弥が「この書は口にていはんとすることを筆に換えしなり、もとより世に益することにはあらず、されば世に公にせんとにあらず。一家団欒の茶話なるのみ聞くもの心えてよ」と出版したもの。
旧藩士の残した書き物に安渡丸という西洋型風帆船の名があった。この船の初航のとき、犬吠岬手前で暴風雨の兆候を察知して未然に破船になるのを避けた石渡船長の航海術の巧さについて書かれている。ただこの安渡丸の購入時期が役後三年斗南に移りし時とあるが、外務省の記録では明治四年に斗南藩はこの西洋型風帆船を購入している。海員だった雑賀孫六(一瀬帰一)が船の名を間違える可能性は低いと思われるが、ただ斗南藩は二隻の西洋型風帆船を購入している。その一艘(栄丸)は明治三年秋、鹿島洋に於いて大暴風雨に遭遇し着岸破潰しており、この話と混同しているかもしれない。後に日本郵船で貫効丸船長だった西郷寧太郎も安渡丸で航海術を習得している。
石渡家と会津藩士との結び付は強い。戊辰後、半官半民の汽船回漕会社主宰となった石渡栄治郎(貞夫と同一人物ゕ)は幕末に御船手組より選抜され長崎で航海術を学んでいる。勝海舟の海軍歴史には軍艦運用石渡栄次郎として名がある。栄治郎の妻(綱)が深川不動境内で商売していた汁粉屋に居候していたのがのちに海軍中将となった角田秀松、石渡栄治郎の娘(登美)は九州で自刃した郡長正の弟、郡寛四郎の妻となり、登美の姉(錫)の六男虎彦は郡寛四郎の養子となっている。栄治郎の孫(荘太郎弟慎五郎)に萱野権兵衛弟三淵隆衛長男忠彦の長女(多摩)が嫁に入っている。寛四郎も忠彦も石渡家に下宿していた。石渡家は代々武右衛門と名乗り徳川幕府の御船手組を勤めており、菩提寺は深川霊巖寺塔頭安民寺で、この寺は昭和20年の東京大空襲により焼失、その後、外神田に移って神田寺と改称している。深川霊巖寺傍の神田寺の旧安民寺墓地を訪ねた。
 
墓地は比較的新しい墓碑ばかりで古い墓碑は残念な事に残っていなかった。栄治郎が神式の葬儀を行った深川三十三間堂跡地にも行った。「神葬につき三十三間堂に埋む」とあり安民寺が回収したという。この深川三十三間堂は富岡八幡宮の東側にあり、いまでは僅かに八幡橋東交差点信号の傍に三十三間堂跡モニュメントが残っているに過ぎない。
 
 
昭和十二年十一月十九日の朝刊に石渡敏一葬儀の掲載があり、この中に総代として郡寛四郎の名があった。枢密顧問官石渡敏一、息子の大蔵大臣も勤めた石渡荘太郎とも、敏一葬儀のとき造られた多磨霊園に埋葬されている。
 
 
 

 斗南藩 安渡丸
 郡寛四郎翁を噫ふ

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木更津(證誠寺・高蔵寺)

2012-08-01 | 

今回初めて、品川から高速バスで木更津に行った。渋滞がなければJRの電車より僅かに早く着く。朝早い時間のバスを利用したため、50分で品川から木更津駅東口に到着した。高蔵寺高倉観音行のバスは午前中、3便しかない。1便が出たばかりで、次発までの時間を利用して駅から歩いて10分位のぽんぽこ狸で有名な證誠寺に寄った。
 
マンホールの蓋にも「証城寺の狸囃子」の歌詞が記載されていた。途中にあったのが八剱八幡神社を臨むL字型の通りが木更津銀座。閉店した店舗も多く、昔は繁栄したのだろうが、今は裏寂しい通りになっていた。湾岸アクアラインの開通はマイナスに大きく変貌してしまったようだ。
 
証城寺 狸はやし童謡碑   
 

狸ばやし童謡碑陰文
「石もの言はす 文を載せて能くもの言ふとか 狸はやし童謡碑あらたに成り 歌詞と曲譜と共に載せて 江湖にまみゆ 歌謡は文の最も華やかなるもの 斯石すてに斯文を載せぬ 其言はんとするもの果して奈何 之れを彼等幼童に問へは 幼童乃ち声を和して 一斎にシヨツ シヨツ 證誠寺 證山また好個の点景を加へて めでたし めでたし 
七十八叟 松本斗吟撰文  斎藤華城貞書」
なにが「めでたし・めでたし」なのか解らないが、点景を加へてとあるので詩の一部でも変更したのか。
證誠寺から駅に戻る途中の源頼朝が植えたという蘇鉄がある八剱八幡神社にも寄る。
 
そういえば、三浦の浦賀にある叶神社にも頼朝が伊豆から持ってきたという蘇鉄があった。源氏と蘇鉄は何か関係があるのだろうか。そうこうしているうちに、日東バス草敷行の発車時間になる。木更津駅から東南方向約10キロのところにある平野山高蔵寺が今日の主目的地。途中、かずさアカデミアパークでほとんどの人が降りた。ここは商業施設なのか工業団地や研究施設用地なのかよく判らなかったが、歯抜け状態の土地が多く、ただ、ただ、ボーッと眺めてしまった。ここは「かずさ鎌足」という地名、鎌足とか蘇我とか千葉には日本書紀に出てくる名が多く残っている。しかも、昨年の夏、三浦久里浜でさんざん探した小櫃という地名もあり、興味はつきない。親切にも高蔵寺への道はバスの運転手が教えてくれた。約10分の道のりだが、途中に近道の表示が。誘われてこの薄暗い道をいった。
 
すぐ、千葉の山道には山蛭が多いのを思い出して後悔した。ビクビクしながら無事、山門に着いた。

 
  
このお寺の山門に憧れてここまできた。山門前の石段のすくなさに、なにコレという感じ。帰り道で気が付いたが、麓から一直線の石段の参道の痕跡が薄っすらと残っていた。ここの本堂は高床式という特異な構造で、市の指定文化財に指定されている。その高床の半地下みたいなところで地獄界・極楽界・観音浄土界の観音浄土巡りがあった。よくもこう雑多な品々を集めて展示しているなという感じ。18歳以下は見ないでと言う展示もあり、何が地獄で、なにが極楽なのかハッキリしなかったが、なにもここまで来てという感じだった。駅に向かうバスは2時間後、時間を潰すのに苦労する。
昼は駅の近くの創業明治三十年という{寶屋」で名物のあさりの串揚げを食べた。写真中はアサリのかき揚げ、右アサリの味噌汁、これは美味しかった。
  
帰り、ここの女将さんが、店に飾ってあった狸の置物を持って行かれないかと心配したかと思うほどズ~ッと見送ってくれていた。

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