会津藩家老、西郷頼母の自叙伝栖雲記に次のような記述がある
「おのれは籠城の中より、越路出張の老等の許へ軽き事の使を命ぜられて
其事を果し、直様北海に赴きしに、守の殿の面前にて、実に胸つぶれむ
ばかりの事をさえ抑せしとかや、命を受たりし人は今も猶有ぬべし」
越後の陣将萱野権兵衛らに伝令として城を出された頼母と同行した吉十郎を
二人の刺客が追いかけた。容保公の面前で暗殺の命が下りたことに、
胸がつぶれる思いと記述している。後年、東京加藤寛六郎宅で旧藩士が
集まった時、頼母は同席した二人の刺客藩士を名指しで罵倒したと
言われている。
山川健次郎監修による「会津戊辰戦史」に、
「頼母若松に帰還入城後諸士に対し慷慨非憤の口吻を以て今日此の窮地
に陥るは家老等予の献策を容れざるの致す所なりと、之を痛撃讒謗
したること城中に知れ渡り、此の儘に放置するときは諸士を煽動し、
城内の一致を破るの恐あるを以て、些細の使命に託して城中より遠ざけ
られしなりと、既にして頼母の城を出るや大沼城之介(後親誠)、
蘆澤生太郎(後直道)をして之を途に謀らしむ、大沼、蘆澤は頼母の
峭直孤忠を憐み、故意に別路を追跡して逢はず、頼母は早く已に身を
以て米沢に遁ると云ふ」とある。
頼母を憐れみ、別の道を追跡した会津藩士の一人が蘆澤生太郎、後の名が直道。
この旧会津藩士蘆澤一族の墓碑が青山霊園にある。
戊辰の後、蘆澤直道は西南の役に陸軍少尉兼二等少警部として従軍、
叙勲六等賜単光旭日章を賜っている。側に直道の父、蘆澤寛治
諱(?)直保の墓碑に八月二十三日陸奥国会津甲賀町門戦死とあった。
西南の役で戦死した二等中警部内村直義は祐筆内村三蔵の養嗣子と
なった蘆澤寛治二男。
蘆澤直道墓碑文
蘆澤直道直保之子母直輝之二女也其先□於毛利元就弟就勝就勝子伊
賀守居于信濃伊奈郡葦澤郷因為夭焉禄治郎右衛門始仕会津藩食録二
百石歴直治豊武直矩直寅直義直陳直輝直保至直道明治元年八月官軍
圍会津城直保戦死事平後直道士仕陸軍省尋轉警視庁明治十年任陸軍
少尉兼二等少警部従鹿児島之役有功叙勲六等賜単光旭日章明治三十
七年九月十一日以病終于家距生天保九年四月四日享年六十七葬於青
山墓地配置野夭和田氏石原氏□病死更娶中村氏星野氏所生女嫁子下
野烏山 俟英夫和田氏所生直艮直誉直譲澄病死石原氏生二女一男男
直浩承家 明治四十三年三月男直浩建之 夫撰兼書
「おのれは籠城の中より、越路出張の老等の許へ軽き事の使を命ぜられて
其事を果し、直様北海に赴きしに、守の殿の面前にて、実に胸つぶれむ
ばかりの事をさえ抑せしとかや、命を受たりし人は今も猶有ぬべし」
越後の陣将萱野権兵衛らに伝令として城を出された頼母と同行した吉十郎を
二人の刺客が追いかけた。容保公の面前で暗殺の命が下りたことに、
胸がつぶれる思いと記述している。後年、東京加藤寛六郎宅で旧藩士が
集まった時、頼母は同席した二人の刺客藩士を名指しで罵倒したと
言われている。
山川健次郎監修による「会津戊辰戦史」に、
「頼母若松に帰還入城後諸士に対し慷慨非憤の口吻を以て今日此の窮地
に陥るは家老等予の献策を容れざるの致す所なりと、之を痛撃讒謗
したること城中に知れ渡り、此の儘に放置するときは諸士を煽動し、
城内の一致を破るの恐あるを以て、些細の使命に託して城中より遠ざけ
られしなりと、既にして頼母の城を出るや大沼城之介(後親誠)、
蘆澤生太郎(後直道)をして之を途に謀らしむ、大沼、蘆澤は頼母の
峭直孤忠を憐み、故意に別路を追跡して逢はず、頼母は早く已に身を
以て米沢に遁ると云ふ」とある。
頼母を憐れみ、別の道を追跡した会津藩士の一人が蘆澤生太郎、後の名が直道。
この旧会津藩士蘆澤一族の墓碑が青山霊園にある。
戊辰の後、蘆澤直道は西南の役に陸軍少尉兼二等少警部として従軍、
叙勲六等賜単光旭日章を賜っている。側に直道の父、蘆澤寛治
諱(?)直保の墓碑に八月二十三日陸奥国会津甲賀町門戦死とあった。
西南の役で戦死した二等中警部内村直義は祐筆内村三蔵の養嗣子と
なった蘆澤寛治二男。
蘆澤直道墓碑文
蘆澤直道直保之子母直輝之二女也其先□於毛利元就弟就勝就勝子伊
賀守居于信濃伊奈郡葦澤郷因為夭焉禄治郎右衛門始仕会津藩食録二
百石歴直治豊武直矩直寅直義直陳直輝直保至直道明治元年八月官軍
圍会津城直保戦死事平後直道士仕陸軍省尋轉警視庁明治十年任陸軍
少尉兼二等少警部従鹿児島之役有功叙勲六等賜単光旭日章明治三十
七年九月十一日以病終于家距生天保九年四月四日享年六十七葬於青
山墓地配置野夭和田氏石原氏□病死更娶中村氏星野氏所生女嫁子下
野烏山 俟英夫和田氏所生直艮直誉直譲澄病死石原氏生二女一男男
直浩承家 明治四十三年三月男直浩建之 夫撰兼書