大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

旧会津藩士 蘆澤直道

2009-10-24 | 掃苔
会津藩家老、西郷頼母の自叙伝栖雲記に次のような記述がある
「おのれは籠城の中より、越路出張の老等の許へ軽き事の使を命ぜられて
其事を果し、直様北海に赴きしに、守の殿の面前にて、実に胸つぶれむ
ばかりの事をさえ抑せしとかや、命を受たりし人は今も猶有ぬべし」

越後の陣将萱野権兵衛らに伝令として城を出された頼母と同行した吉十郎を
二人の刺客が追いかけた。容保公の面前で暗殺の命が下りたことに、
胸がつぶれる思いと記述している。後年、東京加藤寛六郎宅で旧藩士が
集まった時、頼母は同席した二人の刺客藩士を名指しで罵倒したと
言われている。

山川健次郎監修による「会津戊辰戦史」に、
「頼母若松に帰還入城後諸士に対し慷慨非憤の口吻を以て今日此の窮地
に陥るは家老等予の献策を容れざるの致す所なりと、之を痛撃讒謗
したること城中に知れ渡り、此の儘に放置するときは諸士を煽動し、
城内の一致を破るの恐あるを以て、些細の使命に託して城中より遠ざけ
られしなりと、既にして頼母の城を出るや大沼城之介(後親誠)、
蘆澤生太郎(後直道)をして之を途に謀らしむ、大沼、蘆澤は頼母の
峭直孤忠を憐み、故意に別路を追跡して逢はず、頼母は早く已に身を
以て米沢に遁ると云ふ」とある。
頼母を憐れみ、別の道を追跡した会津藩士の一人が蘆澤生太郎、後の名が直道。

この旧会津藩士蘆澤一族の墓碑が青山霊園にある。
戊辰の後、蘆澤直道は西南の役に陸軍少尉兼二等少警部として従軍、
叙勲六等賜単光旭日章を賜っている。側に直道の父、蘆澤寛治
諱(?)直保の墓碑に八月二十三日陸奥国会津甲賀町門戦死とあった。
西南の役で戦死した二等中警部内村直義は祐筆内村三蔵の養嗣子と
なった蘆澤寛治二男。

蘆澤直道墓碑文
蘆澤直道直保之子母直輝之二女也其先□於毛利元就弟就勝就勝子伊
賀守居于信濃伊奈郡葦澤郷因為夭焉禄治郎右衛門始仕会津藩食録二
百石歴直治豊武直矩直寅直義直陳直輝直保至直道明治元年八月官軍
圍会津城直保戦死事平後直道士仕陸軍省尋轉警視庁明治十年任陸軍
少尉兼二等少警部従鹿児島之役有功叙勲六等賜単光旭日章明治三十
七年九月十一日以病終于家距生天保九年四月四日享年六十七葬於青
山墓地配置野夭和田氏石原氏□病死更娶中村氏星野氏所生女嫁子下
野烏山 俟英夫和田氏所生直艮直誉直譲澄病死石原氏生二女一男男
直浩承家     明治四十三年三月男直浩建之    夫撰兼書
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御国に返し命なれども

2009-10-17 | 掃苔
嘆きても嘆きはてなき嘆きかな
 御国にかへしいのちなれとも

この吊詞は、元新撰組藤田一の妻となった藤田時尾の甥、
佐川直諒が、明治三七年八月日露戦争盂家房で戦死した。
その死を愛惜して、時尾が追悼の詞を寄せたものです。

青山霊園にある鬼官兵衛嫡男直諒の墓碑を見に行った。

少しややこしいが、
佐川直諒は鬼官兵衛こと旧会津藩士佐川官兵衛の嫡子で、
直諒の妻は旧会津藩士高木盛之輔二女の泰子。盛之輔の姉は
元新撰組隊士斎藤一の妻、時尾。時尾の母、克子の姉が、
戊辰若松城下で姑貞子を介錯、娘二人と共に自刃した沼沢道子。
この沼沢家に養子に入ったのが藤田五郎(斎藤一)三男の龍雄。
藤田五郎二男剛の妻が会津藩家老田中土佐の孫娘の浅羽ユキ。


碑碣銘
君諱直諒佐川氏世仕会津藩祖諱直道戊辰役戦歿若松城父諱直清
稱官兵衛亦轉戦伏見越後会津以驍将著世呼曰鬼官兵衛西南役斃
王事母四條氏君枕毅果決以紹烈為志学陸軍幼年学校士官学校奉
職近衛及幼年学校明治三十七年三月進大尉補近衛中隊長従軍攻
遼陽自様子嶺歴戦東新堡大西溝八月三十日進至孟家房敵據高発
礟邀我我大苦大隊長亦被創君代指揮奮撃横衝叱而進一弾貫頭
一弾止頭中又創胸君仆従者擁君避弾凹處君尚手剣色自若衆感
激奮闘敵不能支而逃君遂歿年二十有九實是月三十一日也敍勲五
等功五級賜雙光旭日章金鵄勲章賞之葬青山塋域娶高木氏挙一子
曰勝尚幼抑佂露役毎戦必捷為我朝曠古偉事君亦従軍奮戦竟殞身
異域豊啻紹先烈已哉銘曰
  三世忠烈 千古罕彙 丕顯父祖 噫嘻大尉

明治三十八年七月 
  
陸軍教授 西村 豊 譔
陸軍助教 比田中鴻 書
コメント (8)
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武士から お茶屋に

2009-10-11 | 會津

神奈川県横須賀西浦賀に、幕末ペリー来航時の狼狽ぶりを風刺した狂歌、
「泰平のねむりをさますじやうきせん たつた四はいで夜も寝られず」の
蒸気船にかけた「上喜撰」 という当時と同じ製法で作られた煎茶の銘柄が
西浦賀町の鹿目茶舗で今も売られています

(鹿目茶舗浦賀店は2010年に閉めらて、野比駅前のお店で営業しています)

 

この鹿目茶舗は明治三年、戊辰戦争にも旧会津藩士として参加した
鹿目常吉が「宇治諸国 商處 雅松軒」の大看板を掲げ、銘茶陶磁器商と
して浦賀で帰商し開業した。古老の話として明治十四年五月、明治天皇が
観音崎砲台視察のため浦賀に御臨幸されたとき、途中の鴨居の会津屋
高橋勝七方で休憩され、このとき浦賀町宮下の十三歳になる鹿目家の
息子がせん茶を献上したという話も残っている。

(大正四年刊、浦賀案内記に掲載の鹿目商店・穴澤商店広告)


このお店を見はらす東福寺裏山の叶神社管理地に鹿目家の墓碑がある。
墓文には
「鹿目家ハ旧会津藩士也、明治三年当浦賀町エ移住ス、
旧墳墓は岩代国若松市南町真宗明栄寺在リ当時ノ戸主
鹿目常吉ハ幼名ヲ幸之助ト云ヒ字ヲ忠屋ト稱ス」とある。



この鹿目家に松平容保公の和歌が残されている。



冬の浦賀に
  来たりて 
    容保

此里は
 のどけき春乃 
  心地して 
ふゆこそさらに  
  思わさりけ利

コメント (4)
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西浦賀の旧会津藩士

2009-10-07 | 掃苔
浦賀の東側と西側は「浦賀海道」と名付けられた、珍しい水上の
市道(2073号線)でむすばれている。この西の渡船場の近くに、
東福寺という、江戸幕府の歴代浦賀奉行も就任すると必ず参拝に
訪れたという格式あるお寺がある。このお寺の裏山に西叶神社が
管理している文覚上人の庵跡があります。



浦賀湾を見はらす西浦賀の総鎮守である叶神社は養和元年(1181)、
京都高尾山神護寺の僧文覚上人が、源頼朝の旗揚げに、源氏の再興を
祈願して、石清水八幡宮を勧請したことから始まり、その願いが叶った
ことから「叶明神」の名が与えられたという。
此社の後の山を文覚畑と言い、文覚上人の旧庵の所と言われている。
この庵跡に鹿目家之墓、穴澤家之墓、橋本家之墓と整然と並んだ神式に
よる墓碑があります。それぞれの墓碑には旧会津藩士也と刻まれている。



鹿目家、橋本家は穴澤家を頼り共に浦賀町に移住したという。

穴澤氏が何故、浦賀に移住したか分からないが、幕末、鴨居に居た
会津藩の陣屋の世話をして、会津「若松」の名を賜ったと言う若松屋
高橋勝七と関わりがあったのだろうか。

(鴨居の会津屋)


神奈川県史人物編によれば、明治三七年衆議院議員に当選した
高橋勝七は明治元年東京本郷根津須賀町生まれとある。
明治三年、穴澤與十郎は浦賀に来る前に、東京本郷菊坂台の会津藩
出入り商人の稲谷繁吉の元に身を寄せ、この稲谷の努力で浦賀での商売を
始めたとあり、この稲谷繁吉と浦賀、また会津屋との関係がはっきりしない。

穴澤氏は耶麻郡檜原の戦国時代から続く檜原軍物語などで有名な名門一族。
大正四年発行の浦賀案内記に、浦賀瓦斯(株)監査役穴澤與十郎、
相談役高橋勝七、浦賀船渠(株)監査役日下義雄(白虎隊石田和助は
日下義雄の弟)の名がある。

鹿目氏も太平記に名が現れる古い姓名で、墓碑に刻まれた旧会津藩士、
鹿目常吉、橋本猪之多(猪之太)は、共に戊辰で進撃隊として戦い、
同じ高田の高安寺で謹慎した耶麻郡猪苗代出身で、穴澤與十郎と深い
繋がりがあったと思われる。海軍少将鹿目善輔は鹿目常吉の孫。

橋本猪之多(猪立・猪之太)は、戊辰の役、進撃隊二番炮組で参加、
高田高安寺にて謹慎、その後、警視局警部補心得として西南戦争に従軍、
明治十年五月八日肥後国大開山で戦死している。

対岸の東浦賀の乗誓寺には、旧会津藩士で、西南戦争に参加した
二等少警部杉浦成忠(杉浦佐伯)の墓碑がある。

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飯盛山墓前祭

2009-10-02 | 會津
毎年、春と秋の年二回、会津飯盛山で会津弔霊義会主催による
白虎隊士墓祭が行われる。弔霊義会理事長の祭文が読上げられ、
関係者と参加者による玉ぐしが捧げられる。

このあと、恒例の会津高等学校の剣舞委員会の生徒による白虎隊
剣舞の奉納が行われる。剣舞のとき、吟じられる漢詩「白虎隊」は、
明治十七年、私学日新館で教鞭を取られていた佐原盛純氏により
つくられ、飯盛山白虎隊墓前での十七回忌祭に初めて奉納された。

日新館では六科糾則の項令を定め、六科、六行、八則により文武の芸
未熟な者は、二男以下のものに養子を命ぜられるほど厳しいものであった。

墓前祭の剣舞は生徒二十名が白鉢巻に素足、剣道袴姿で墓前のみに一礼して
舞われる。凛として演じられる姿は見ていて気持ちが良い。

















ただ残念なのは、剣舞が終わり、幕末戊辰に思いを寄せていたら、
直ぐ、新撰組の格好をした数名の女性の剣舞のつもりか、踊りが始まった。
なにか厳粛な場に合わない感じがする。コスプレも嫌いではないが、
京都の黒谷会津藩墓地慰霊祭での場違感が思い出されてきた。

少年団結白虎隊 國歩艱難戍堡塞 大軍突如風雨來 殺氣慘憺白日晦
鼙鼓喧闐震百雷 巨砲連發僵屍堆 殊死衝陣怒髮堅 縱奮撃一面開
時不利兮戰且郤 身裹痍口含藥 腹背皆敵將安之 杖劍行攀丘崿
南望鶴城烟焰颺 痛哭呑涙且彷徨 社稷亡矣可以己 十有九士屠腹死
俯仰此事十七年 畫之文之世稍傳 忠烈赫赫如前日 圧倒田横麾下賢

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