大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

白金 西洋料理 快簇船

2008-04-30 | 
白金の古川橋の端に新しい店の小さな看板があった。
普段通っていても見過ごしそうなビルの地下に店があった

  

店のパンフに
「古きよき時代の”快”よさを忘れず、
舌に残る新しい”快”感を創りたい・・・。
この思いを乗せ”快”簇船は出港します」とある。

これで「快簇船」、かいぞくせんと読ませる。
コンクール受賞シェフが日々新しい洋食を目指し調理するとあった。

素人は知らないコンクールの準優勝とのこと
(「パリ・プロスペール・モンタニエ 新人コンクール」有名だったらスイマセン)

シェフの腕を存分に楽しめる「準優勝フルコース」があるという、
このネーミングは笑える!!(お店は真剣なんだろうな!)

 

ラーメン餃子の昼飯を、洋食に変更。
ここのランチは1000円~3000円位まで。
魚料理か肉料理を選べる1500円のランチにした。
女房と別々に頼み、半分に分けた。

一応コースランチなので、スープ、サラダ
パン(オリーブオイル・バルサミコ酢、トマト)or十穀米

  

魚料理が子海老のクリームコロッケ、肉料理がハンバーグ



デザート(パウンドケーキ・自家製オレンジマーマレイド)、コーヒー



意外と言っては怒られるが、クリームコロッケもハンバーグも美味しかった。
1500円にしては一杯出てきたなと云う感じ。
これなら夜、食事にと思う、サイトの検索を掛けると、
グルメサイトに店の名が沢山出てきた。手間を掛けたなと云う感じ。

白金 西洋料理 快簇船
港区白金1-2-3 スカイコートクロス麻布B1
03-3473-7230
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新選組 井上源三郎埋葬地

2008-04-25 | その他
新撰組大好きのTさんから、日野の新撰組の関係者が京都壬生、
山南忌に参加のあと井上源三郎の埋葬地を訪ねたと聞いた
(余談だが山南忌司会のふぅさんも幕末大好き人間)。

昨年、鳥羽伏見の戊辰役東軍戦死者埋骨地を回った。
今年初め、Tさんの案内で日野を廻った。
この時、千本松で井上源三郎が戦死し、
一緒にいた甥の井上泰助がなんとか首を運ぼうとしたけれども、
重過ぎて果たせず途中のお寺の門前に埋めた、という話を聞いた。

日野の欣浄寺と同じ呼名のお寺だったという。

井上源三郎資料館のHPが立ち上がった。
井上源三郎埋葬地を訪ねて!の特別展をやっているとある。
このサイトに市川三千代さんの調査報告がのっていた。

埋葬地は納所の欣浄寺(廃寺)で、
欣浄寺の什物がちかくの浄盛院に残っていたとある。
「いつの日かこの地に記念碑を建立されれば
これに過ぎたる喜びはありません」と結んであった。

確かに廃寺時期不詳(サイトには安政年間)の欣浄寺は
納所の古寺記録に、浄土宗誓用院末、慶長元年固定開基で、
本寺の誓用院も納所にあって、浄土宗東山一心院末、
天正三年空誉開基、明治十二年二月に廃寺となっている。
浄盛院にある欣浄寺の什物は本院誓用院を通した後、
託されたものではないでしょうか? 

問題は①欣浄寺が戊辰の時、すでに廃寺になっていたこと、
②源三郎が戦死したと言われる千本松と欣浄寺が非常に近く、
10分程度距離、幾ら重くてもと思う 
③東軍の組織的な戦闘が崩れたのが6日、
最後の抵抗線の楠葉台場、橋本、男山のラインから南側から
舟で大阪に引き揚げたと考えるのが普通なのでは? 

以上3点から納所の欣浄寺の埋葬地説には疑問がのこる。
東大阪や大阪にも欣浄寺はある、
廃寺を調べればもっとあるのではないだろうか? 

そんな事を考えながら四月、
八幡の戊辰役東軍戦死者埋骨地、番賀墓地を訪ねた。
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京都 八幡番賀墓地

2008-04-23 | 掃苔
京都市伏見区淀新町の長圓寺山門左側に、明治四十五年 
京都十七日会により建立された榎本武揚書の碑がある。

この戊辰役東軍戦死者之碑に刻まれた戦死者埋骨地は、
長圓寺、淀町光明寺墓地、大専寺、文相寺、東運寺、八幡番賀の六ヶ所。
(光明寺は廃寺となり長円寺に墓石が移されている)

八幡番賀墓地は、京阪電鉄八幡市駅から約2K。八幡市役所の先、
大谷川西島橋を渡って直ぐ右斜めにはいる畦道の先にある。
ここに八幡番賀の戊辰役東軍戦死者埋骨地の石碑があった。

番賀地区の端にあるこの墓地は地元の人だけの共同墓地で、
管理寺は三宅安兵衛依遺志建之碑がある戊辰史蹟念仏寺。
このお寺は戊辰正月、西軍の砲火で炎上したため、戊辰史蹟とある。

鳥羽伏見に来たのが昨年の四月、二年越しでやっとこの墓地にたどり着いた。
ここ八幡男山、橋本は正月六日、戊辰鳥羽伏見での
組織的な最後の戦いのあった場所。ここから淀川を使い大坂城へ撤兵した。

鳥羽伏見の激戦地、伏見区横大路富ノ森愛宕茶屋南側土手にあった戊辰役戦場址の
三宅安兵衛依遺志建之碑(是北従城南離宮一里至、是南従石清水八幡宮一里)は、
今、伏見区納所妙徳寺の納所会館にうつされている。

京都府行政文書の「京都附近殉難人墓取調書」によれば、
八幡・橋本での戦いでの戦死者は全て幕府軍で、会津藩大砲隊川村八三郎、
会津藩山本三郎、同荒木留吉、新撰組小林峯三郎、
旗本砲兵隊指図役頭倉敷葵之助、同歩兵隊指図役池田峯造、
旗本歩兵隊指図役並長坂録郎、同指図役勤方砲兵組船橋敬助の八名。

実際はもっと多くの命が失われていると思うが記録が少ない。
この八幡番賀墓地、いったい誰が埋葬されているのだろう?
コメント (2)
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京都祇園 まる藤

2008-04-22 | 
京都祇園の新しい店、まる藤にいく。
コースもあるが、単品のお料理が豊富。初めての店なので
コースで予約する。店に入ると大きな絵が出迎えてくれた。
お子さんが描いたものだと云う。まずは、ほのぼのとした感じ。






四月十五日の献立

先附    サザエ壷焼 



のれそれ鶉卵付 



酢の物   毛ガニと菜の花の酢の物三宝柑詰



お造り   太刀魚 穴子 とり貝お寿司 あまえび
       アワビ  サヨリ 平らぎ うに よこわ(とろろ昆布〆)





鍋     焼ハタハタ 生麩 焼ねぎ 竹の子 みつば
      (店主自慢の一品)



蒸し物    さくら蒸し
       (ジャガイモを裏ごしして中にますを入れて蒸した葛あん仕立)



揚物     たい白子天麩羅 たらの芽 蓮



焼き物    目光レモン添え
       御飯、 味噌(わかめ なめこ汁) 香の物



ここは、座敷とテーブル席にカウンター席が8つ、
初めての店は注文が難しい。お好みの客とコースの客が
混ざっていると板場はてんてこ舞い、味付けはハッキリしていた。
もっとも、酒飲みにはそのほうが有難い!!


祇園 まる藤
京都市東山区大和大路通四条下ル3丁目博多町66-3
TEL 075-533-1350
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京都 岩さき

2008-04-21 | 

お昼の予約をとるのが難しくなってきたと云う。
一番空いていそうな月曜日の夜、お邪魔した。
それでも、4組で満員だった。


四月十四日献立





先     海老 帆立 うに 菜の花 茗荷 木の芽 吉野醤油がけ
      (醤油と味醂と酢を合わせたものを昆布とかつお節で、出汁をとったもの)
椀     あぶら目の吉野打ち





お造り    鯛 とり貝 うるい 山いも


 

 


焼き物   ますの利久焼
     (利休の字を避けて久の字を当て、利久としたという)
おしのぎ  針じそ飯蒸し

 


炊き合わせ 桜たい たいの白子 花わさび うど せり 竹の子

 

強肴    ロース肉おろしポン酢かけ



釜御飯  ちりめん 合せみそ汁(生麩)

 

 

水物    きんかん ベビーキウイ グレープ




今回は三月の時と比べて、ほんの少し味が変わったみたい。
今日も東京からのお客さんがいた。東のお客さんが増えたせいかな?

岩さき
京都市中京区釜座通御池上ル723
TEL 075-212-7800
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京都 割烹はらだ 

2008-04-20 | 
今回の京都での最初の食事は上京区伊勢屋町の「割烹はらだ」、
カウンター10席、小部屋が1室の店内には開店二周年祝いの
お花が綺麗に飾られていた。
コースを予約して行ったが、一品料理の品数もかなりあり楽しめそう。




四月十三日の献立。

八寸   竹の子木の芽和え タイの白子ポン酢和え 卵子焼 たこの桜煮 
タイのお寿司  蕗の煮物
椀    あぶら目とヨモギ豆腐のお吸物



お造り  羅臼の水うに 蛍烏賊 タイ ヤリイカ 炙りかつお はらんぼうたたき




煮物   物集女の竹の子土佐煮 ほうれん草とたら子
焼き物  さわらの吹き味噌焼 姫皮と菜の花の醤油ドレッシング合え
      長崎のホワイトアスパラ焼



      湯葉まんじゅう
      (湯葉を湯葉で包んで揚げ煮汁でさっと煮てねぎとおろしをかけたもの)
酢の物   青柳とトコブシの酢のもの生姜ぞえ プチトマト わけぎ



竹の子御飯 生青海苔の味噌汁 香物




デザート  いちご大福 黒蜜のシャーベット 三宝かんのシャーベット
       酒かすのシャーベット 紅茶のシャーベットからチョイス





当日はお座敷が賑やかで、カウンターも4組のお客さん、
板場はかなりてんてこ舞いだった!!
アラカルトの客も意識してか、味は少し強め、
もっとも関東から来た酒飲みにはピッタシ。
味の好みは人それぞれ!!

割烹はらだ
京都市中京区河原町通竹屋町上ル
TEL 075-213-5890
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佐藤忠信花矢倉

2008-04-19 | その他
吉野の金峯神社から下り、水分神社を過ぎたところに、
佐藤忠信花矢倉と刻まれている一つの石柱があり、
その下方に、横川の覚範の首塚がある。

義経記に「音に聞こたる剛の者有り、、、鎌足の大臣の御末、
淡海公の後胤、佐藤憲高が孫、信夫の佐藤庄司が二男、
四郎兵衛藤原の忠信と言ふ侍」と佐藤忠信の記述がある。

ここ花矢倉附近は、佐藤四郎兵衛尉忠信が源義経の身代りとなり、
手勢七人で追手と戦い、僧兵妙覚院の豪僧、横川の覚範を討取った所。

吉野町が立てた「佐藤忠信花矢倉」「横川覚範の首塚」の
説明板があった。詳しくは、義経記を読んでくれとある。
花矢倉、綺麗な地名に、酷い話が隠れていた。

この義経記は一般的には室町時代初期に成立した作者不詳の
軍記物語といわれているが、異本が少ないのが特徴。
読む事が少なく、口伝の期間が長く写本の必要がなかったのか?

義経記は前半に義経、後半は、吉野山の佐藤忠信、鎌倉での静御前、北国落では武蔵坊、
高館では鈴木兄弟と主役が移っていく。柳田國男は各部分の作者は各々別で、
多くの物語を寄せ集めて物語にしたと述べている。

吾妻鑑、文治元年十一月の項によれば、
「佐藤四郎兵衛尉忠信、義経の鎮西に零落の相従う」
「疾風俄に起こって逆浪船を覆すの間、慮外に渡海の儀を止む。
伴類分散し豫州に相従うの輩纔に四人」とあり、
この四人の中には、佐藤忠信の名はない。

文治二年九月、京都に隠住していた四郎兵衛尉忠信は、
糟屋の籐太有季に攻められ、忠信郎従二人と共に自刃した。

京都国立博物館前庭に佐藤継信・忠信の塚であると伝えられた
二つの十三重塔がある。この塔は、継信が屋島で討死、
京都で忠信が自刃してから百年以上も後に建てられた。

また、東山区馬町通東大路東入北側には、
今でも、佐藤継信・忠信之塚が残っている。

何度も云うが、信夫の継信・忠信兄弟の嫁の話には涙する。
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春は桜のよしの川

2008-04-18 | 
十四日、奈良にいった。吉野の桜、一度は見たいと思っていた。
京都7時40分発近鉄特急で出発。特急2回乗換えて吉野着。

吉野線の特急は2両編成、立っている人も多く、結構混んでいた。
京都に行くときは、スルットKANSAIのチケット買っていく。

このチケット、京都、大阪、神戸、奈良の殆の地区の私鉄乗り放題。
ただし、近鉄吉野線は壷阪山迄、壷阪山から吉野までは
別に買わなければならない。近鉄もしっかりしている。

吉野の桜、色々情報はあるが、肝心な足についての情報が少ない。
中千本までは、七曲坂を登るか、ロープウエイを使い
旅館・土産物店街を歩くか、奈良バスで竹林院の中千本公園まで行くかの3通り。

黒門から蔵王堂・竹林院間はかなりの急坂。
団体の観光客は蔵王堂附近まで下から歩かされて、気の毒になってしまう。

上千本 竹林院から奥千本金峯神社下までは、吉野大峰ケーブル自動車が
小型バスを運行している。このバスは1時間に2本程度運行している。

平日もあって、奥千本の金峯神社に10時すぎには着いた。
奥千本の桜は、霞でぼんやり、山道は前夜の豪雨でビシャビシャ。

一時はどうなるかと思ったが、上千本の花矢倉に着くころには
普段の行ないが良いせいか薄っすらと晴れてきた。
ここは歌舞伎「義経千本桜」で有名なところ。


  

  

1時間半かけて太閤秀吉ゆかりの竹林院に着く。
竹林院群芳園で昼食をとる。予約なしは後4名分と怒鳴っているのが聞こえる

  


竹林院からロープウエイまで、ゆっくり1時間、
此の辺から急に観光客が多くなる。
中千本まではと登ってくる。休日の原宿か巣鴨並の混雑ぶり。

吉野の桜は絶対に個人で行くところ、
間違っても団体で観光に行く所ではないと思う
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春の岩船寺から浄瑠璃寺

2008-04-17 | 
新幹線京都9時1分着、荷物を預け、京都9時20分発
みやこ路快速に飛びこむ。大和路快速に木津駅で乗換。

駅1つで加茂駅10時8分着。加茂山の家行10時15分発バスに乗る。
このバス、平日の午前中は2本、休日は臨時を加えて3本の貴重な路線。
道が急で狭いため、小型バスでの運行。奈良から岩船寺行きのバスはない。

バスの乗客は当方の2名のみ。駅構内には、タクシーもいなかった。
10時30分に岩船寺に着いた。ここは奈良県境の加茂の山の中。

計画では岩船寺から浄瑠璃寺まで、当尾石仏を巡りながら歩く予定だった。
実際は岩船寺までで、ぐったり。拝観客も少なくゆっくり廻る事にした


(岩船寺)

岩船寺は天平元年(729)、聖武天皇の勅願で行基が建立したのが始まり。
盛期には三十九の坊舎をもつ大寺院だったらしいが、承久の変(1221)により
大半が焼失、それ以後も再度の兵火により現在は本堂と三重塔があるのみ。



本堂で本尊の重文阿弥陀如来座像をみていたら、寺のご住職に丁寧に説明頂いた。
穏やかな表情で体全体に太造りの坐像で、なにか親しみの持てる仏像だった。

このお寺の三重塔・十三重石塔・五輪塔は鎌倉時代のもので重文。
大型バスが入れない所の花に囲まれたお寺で、騒がしくないのが何よりのご馳走。


(浄瑠璃寺)

この後、堀辰雄の短編「浄瑠璃寺の春」で有名な浄瑠璃寺にバスで行く。
このバスを逃すと、2時間は移動手段がない。浄瑠璃寺から歩いてきた
中年の女性二人もこのバスで浄瑠璃寺に戻り、奈良に帰るという。
浄瑠璃寺に来るときも3K歩いたという、皆それぞれ苦労している。



浄瑠璃寺は馬酔木の花が辛うじて咲き残っている状態だった
桜と馬酔木の花、両方では欲張り過ぎだった。
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拝領妻始末

2008-04-10 | 會津
昼間、NHKのBSで40年も前の
三船敏郎主演の映画「上意討ち拝領妻始末」を放送していた。

この物語の主人公笹原家は実在の会津藩の馬術師範の家柄。
名前を笹原忠義、子は与五右衛門忠一という。

笹原家は、会津三代藩主松平正容の八男菊千代生母、
側室お市の方(塩見伊知)を拝領妻として受け入れた。

正容の子供が続づけて若死したため菊千代が世継ぎとなり、
お市の方に城に戻るよう藩命があったが、笹原家はそれに従わず、
忠義・忠一父子は所領没収の上、領内長原村へ流罪になったという。

この笹原忠一の墓は、笹原一族の菩提寺、会津若松の材木町の
秀長寺にある。この秀長寺は蒲生氏郷の家老、町野幸仍が
父の供養のためその法名をとって建立したと伝えられている。

町野幸仍の子長門守幸和と再婚したのが、利休七哲の一人、
牧村利貞の娘、古那。古那の母は稲葉一鉄の孫娘で、春日局となる
稲葉於福とは義姉妹。この古那が牛込済松寺開祖の祖心尼。

この祖心尼の曾孫千代姫が尾張徳川家に嫁ぎ、
次男尾張義行が高須松平家の開祖となった。

会津藩主松平容保公とこの町野家、
話は長いが同祖ということになる。
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