大佗坊の在目在口

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秦野 源実朝墓

2020-03-18 | 掃苔

小田急線秦野駅の真北、直線で約3kの所に大聖山金剛寺という臨済宗のお寺がある。



新編相模国風土記稿に「承久元年(1219)正月将軍実朝討レシ時武常晴(三浦介ト称シ、三浦郡武村ノ人ニテ承久三年八月十一日死)ト云者、其首級ヲ持来リ、僧退耕行勇ヲ導師トシテ村内ニ葬ス。是ニ因テ當寺ヲ草創シ行勇ヲ開山、実朝(正月廿七日鶴岡ニテ薨ス、法諡金剛寺殿実相大禅定門、木像ヲ安置ス)を開基トセリト云」とあり、さらに「江戸小日向恵日山金剛寺ハモト臨済宗(今曹洞)ニテ建長二年波多野中務忠綱(或は忠経ニ作ル按ズルニ忠綱ハ波多野次郎義通ノ次子ニテ小次郎ト称ト後中務丞ニ任ス)実朝菩提野為相州波多野庄田原村ニ創建シテ退耕行勇ヲ開山トシ、実朝ヲ開基トス、其後江戸下野入道心佛、寺ヲ小日向ニ移シテ造立シテ由、彼寺伝ニ見エタリ。是ニ拠レバ當寺ハ則忠綱ノ起立スル所ニテ後江戸ニ移リシカト旧地ニモ一寺相続シテ今ニ至レルナルベシ」とあり、小日向の金剛寺は、その後文明年中に太田道灌が之を再興したと云う。この寺の裏山中腹にあった實朝公石碑の碑文が東京名所図会に載っている。「慧日山金剛禅寺者。始波多野中務忠経為鎌倉右将軍實朝公菩提。建長二庚戌年。建立相州波多野荘田原村。江戸下野入道道心。移寺於武州江戸荘小日向郷金杉村。亦其後文明年中太田左衛門入道静勝軒春苑道灌。重興為。昔日者臨済宗也。其時之開山普應國師。二代巨舟和尚。中興叔悦禅師。永正六己巳年改曹洞宗者也。維持永正十癸酉年七月十日。金剛現住比丘實山叟記之。金剛寺殿鎌倉右府将軍實朝公大禅門。承久元卯年正月廿七日」。公暁が実朝を討ったのは、単独説、黒幕説、共謀説と諸説ありよく分からないが、公暁の乳母父三浦義村は長尾新六定景と雜賀次郎以下郎從五人討手に差向けた。届けられた公暁の首を見た北條泰時を吾妻鑑は「正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々」としている。三浦氏は無関係としているのだろうか。さらに吾妻鑑では「將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。」とある。実朝の首の所在が分からず、五體不具では憚り有るので御鬢を御頭に用いて将軍家の勝長壽院の傍らに埋葬したとある。風土記稿では三浦一族の武常晴が公暁の首を秦野にある波多野忠綱を頼り、屋敷のある田原に埋葬したという。三浦一族と波多野一族との仲がそれほど良かったとは思えないが、武常晴は波多野忠綱を知っていたのだろうか。武常晴の母は大友(波多野)経家と三浦義継娘との娘で、波多野忠綱の父、義通と義継は兄弟。忠綱からみて大友経家は伯父に当たる。武常晴の母親の姉妹は三浦義村の妻となっている。武常晴は波多野忠綱からみて従甥の関係になる。今の法律で5親等の傍系血族で近いような、遠いような微妙な関係になる。金剛寺から南に歩いて、4.5分の所に実朝の首塚がある。


実朝の首塚の脇にある石燈籠に「文政五壬午年、大津安五郎、武善右エ門」の名がある。地元には三浦義村の家人で実朝の首を田原に運んだ大津兵部と武常晴の子孫で此処に住み着いた旧家だという。騎手の武豊も遠祖は三浦の武一族だったのだろうか。建長二年(1250)に、波多野忠綱が実朝の三十三回忌に金剛寺を再興し、塚に供えてあった楠で造った五輪塔から石造に替えたと伝えられている。

実朝の首塚の南側に公園になっている東田原中丸遺跡と呼ばれる広場がある。ここが波多野一族関連の屋敷跡ではないかと推定されている。


元禄年間に時の領主米倉昌尹(諱・蔵林寺徳石明)が造らせた旧道明寺の観音堂を明治五年神社として残したという東田原神社に寄って秦野駅に戻った。

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